過ぎ去った日々を私に

あんなに白かった息が、其の夜は色を失くしていた。
吸い込んだ黒煙に、肺が灼かれた感触。
ステンドグラスに切られた足が、雪に残した赤色。
手に遺った温度と、こびりついた錆色。
未だ夢に見る、真冬の夜。
手にしていたものの凡てを、消し尽くした。




「フェージェニカ、今日は寒かったでしょう?」

外は平時と変わらない気温だったし、それを別段寒いとも感じなかった。
けれど敢えて、彼女の言葉に頷く。

「もう少し暖かい服を着て来なくちゃ、凍えてしまいますよ」

そうすれば、心配そうな顔をした彼女が、ぼくに触れてくれると知っていたから。
あたたかい掌がぼくの頬をさする感触は、嫌いじゃない。

「家と此処はそんなに遠くないから、大丈夫」
「青い顔して云ったって、説得力無いです」
「ぼくは普段からこうだよ」

拗ねたふりで返せば、浮かぶ困ったような表情。
ぼくの行動や言葉のひとつひとつに誰かが揺らぐ様を見るのは、好きだった。
そうして遊ぶだけでなく、ぼくの思うままに相手に何かをさせることも、この頃から幾度となくやっていた。
殊に素直な彼女で遊ぶのは、他の誰より面白い。
だから、彼女自身のことも、嫌いじゃない。

「紅茶を淹れますから、少し待っていてくださいね」

小さな台所で用意が進んでいくのを、いつものように暖炉の傍から眺める。
空いた右手、荒れた指先が点す、赤い火。
食器棚、火元、また食器棚の方へと、忙しなく翻る長いスカァト。
彼女に関することの内、こうして放って置かれる時間だけは面白くなくて。

「あ、また指を齧って」

無意識に噛んでいた指を、いつの間にか此方を向いていた彼女に引き離され、代わりに小さなスプーンを噛まされた。
載っていた塊が、甘酸っぱい味を口に広げる。
何度か此処で食べた、木苺のヴァレニエ。

「齧るなら、せめて此方にしましょう?」

ぼくの頭を撫でる手を掴みたくなったけれど、すぐに踵を返されてしまう。
これもまた気に入らなくて、まっさらになったスプーンを噛み続ける。
そうすれば、歯と金属がぶつかる音を聞き咎めた彼女が「こら」と言いながら振り返るのを知っていたから。

「もう、鼠じゃないんですから」
「……鼠はきらい?」
「嫌いじゃないです。でも、フェージェニカのその癖は駄目」

癖じゃない。
他の誰の前でも、こんな行儀の悪い事はしていない。
けれどこれを云ってしまえば、呆れてもうぼくに構ってくれないかもしれない。或いは、計算高い厭な子供だと思うかもしれない。
優しい彼女のことだから、屹度きっとそのどちらにもならないとほぼ確信していた一方で、万が一にも予想を外してしまうのが恐ろしかった。

「フェージェニカ?私、怒ってないですよ?」

湧き上がった恐怖の意味が解らずに、ぼくが黙り込んでしまったのを、叱られて落ち込んだと受け取ったようで。
柔らかい手が、またぼくを撫でる。

「……本当に、怒ってない?」

先刻は取り損ねた手を握って、他に何を云えばいいのか考えつかないまま、解りきったことを尋ねてみた。
「怒ってないですよ」と繰り返す言葉に、ざわついていた心が治まっていく。

「お茶も入りましたし、おやつにしましょう。フェージェニカは善い子だから、お手伝いしてくれますよね?」
「……うん」

彼女は、ぼくが彼女の思う善い子である限りは、本当にぼくから離れてしまうことは無いのだと思う。
だからぼくは、考えて行動している事実も、彼女で遊んでいる事実も何もかもを隠して、善い子のフリを続けるのだ。
他の誰がぼくを不気味がろうと、離れて行こうと、如何どうだって良いのに、此の人に離れられてしまうことだけは、何故だかひどく恐ろしいから。