櫻会

靴先に、何かがぶつかる感触。
程なくして、泣き声――それも、子供の泣き声が上がる。
咄嗟に謝罪を口にしかけたものの、目の前には誰も居ない。
嗚呼、あれか。
過度に疲れているときには、そのつもりがないのに異能を使ってしまうことがある。
最近はめっきりしでかしていなかったと云うのに、今日迄の仕事が余程堪えていたらしい。

再び半端に融け始めた脳が、景色を混ぜ合わせていく。
整備された公園は、粗末な荒家あばらやの立ち並ぶ区画へ。
裸の枝が不気味に伸びる中を舞う、薄紅の吹雪。
遠くで鳴る警鐘サイレンは、果たしてどちらの世界の音なのか。
唯一共通したもの――櫻の樹の下で、小さな人影が泣いている。
しゃくり上げる息が真白になって昇ることからして、過去あちらは冬らしい。
寸法サイズも季節感も合わない粗末な服から出た手足は、霜焼けになって震えている。
「かあさま」「とうさま」と、細い声が親を呼ぶ。
年の頃は、恐らく現行の小学校課程を終えるか終えないかくらいだ。
随分痩せ細っているから、実際よりも幼く見えている可能性はあるが。
総合するに、これは大戦中か終戦直後の景色で、此の子は戦災孤児なのだろう。
此の子が辿っていく道も、容易に予想出来てしまう。
荒廃した街で、子供が果たして生き残れたかどうか。
生き残れたとして、真当な世界に居場所があったかどうか。
当時ありふれた境遇とは云え、胸が痛む。
とうに過ぎ去った出来事に対して何が出来る訳でも無く、本来知る由もない事柄を覗いているに過ぎなくとも。
少し経って、膝にうずめられていた頭が上がる。
手であちこちを拭っているせいで、相変わらず顔は見えない。
煤だらけの頰に残った涙の痕を消そうと、乱雑に指が動く。
それをひとしきり終え、初めて、瞼が開いて。
射竦められたと云うのが、一番正しいかもしれない。
いまにも再び崩れそうな赤く腫れた目は、その外見と反して、何かを焼き尽くさんばかりの、鬼気迫る気配を宿している。
殆ど睨むようにして、子供は、を見上げていた。



不意に世界が、現在へと戻る。
疲労に重ねて異能を使ったせいで痛む眉間を抑えようと、腕を動かす――と。

「ぁたっ、」
「……は、」

櫻の樹と僕の間に、何かが立っていた。今度こそ、本物の人間が。

「あの、大丈夫ですか?」
「ええ、あ、はい、」

声掛けが逆ではないかと口に出す間もなく、目の前の人は言葉を連ねていく。
「ご気分が悪いとか、ありますか?」「ずっと立ったままでいらしたので、気になって」「佳ければタクシーでも呼びましょうか」
……僕が何も云えないでいる間に、つらつらつらつらと。

「そちらこそ、こんな時間にひとりで出歩いているのは危険でしょう?」

やっとこれだけを尋ねれば、返ってきたのは笑い声で。

「私の家はすぐそばなので、大丈夫ですよ」

それにしたって、少しは距離があるだろうに。
お世辞にも治安が良いとは云いきれないこの街で、警戒心の薄いことだ。

「心配してくださるなら、公園を出るまでは一緒に来てくれますか?」
「どちらかと云えば、そこから先の方が心配なのですが」
「いえ、本当に大丈夫ですので」

食い下がるのも不審に思われるだろうかと、遣り取りは此処で終えることにした。
宣言通り、公園を出るまでは随伴する心算つもりのようで、小さな背中が数歩先を歩いていく。

「先ほど腕をぶつけてしまった処、大丈夫ですか?」
「なんともないです。先刻は、勢いで”痛い”って云っちゃいましたけど」
「すみません、僕の不注意でした」
「いえ、私も近づきすぎたので」

それ以外に話すこともないまま、僕の家の方角に近い出口へとたどり着く。
彼女は、其処で立ち止まった。

「……あ、家のオバケの方角にお住まいなんですね」

聞き慣れない言葉に首を傾げれば、「すみません」とばつが悪そうな顔が振り返る。

「最近取り壊された家があったでしょう?
その家があった位置だけ、隣の家の壁が日焼けせずに白いままで、残像みたいになってるんです。
それを”家のオバケ”って勝手に呼んでるんですよ」
「……なるほど?」
「すみません、よく分からないって云われがちなので、忘れてください」

それだけ言い終えると、彼女はひらひらと手を振った。

「ああ、オバケと云えば……この公園にも出ると噂ですので、明日以降はお気をつけて」