斯様な夜にさよならを

夜が怖い。
月や電灯がどれだけ明るく照らしても、闇が怖い。

「きすけ、さん」

聞こえなくていい、聞こえないほうがいいと思って、襖越しに小さく呼ぶ声は、いつだって拾われる。

「はぁい」

どうしたんスか、とはもう聞かれなくなった。
それほどまでに、もう何度も同じやりとりを繰り返しているということで。
「寝れない」なんて半分嘘の言葉の、もう半分もきっとこの人は見透かしているんだろう。
手招きされるまま布団の中に潜り込んで、喜助さんにしがみつく。
背中と頭を何度も撫でられて、次第に下りる瞼。
まどろんでとけていく心地よさに、手の感触と温度が鈍くなっていく恐ろしさが混ざって、後の方が強くなって、また目が冴えて、意識が沈むまでを待ち続け。
その間ずっと起きていてくれるやさしさに甘えてばかりの自分が、嫌で仕方なくなる。
私なんかが、喜助さんの時間を貰っていいのかって。
けれど、そうしてそばに居てくれることが、嬉しくてたまらないのも本心で。
いつか離れてしまう、離されてしまう瞬間が怖くなるけれど。

「なまえサン」

髪を梳く指が止まって、不意に呼ばれる名前。
いつものこんな夜と違う行動が不思議で、胸元にうずめていた顔を上げようとしたのを、抱きこまれて制される。
心音が聞こえそうなくらいの距離で、くっついた場所から体温が伝わってくる。
「そのまま聞いてください」と言われるがままに、朧になっていた意識を傾けて、次の言葉を待った。

「言い訳と、それから……我儘にしか、ならないんスけど」

ずいぶんと、唐突な切り出しだ。なんの話をするつもりなんだろう。

「これまで色々なことが起きて、アナタにも迷惑かけて……辛い思いも、たくさんさせてきたと思ってます」

そんなことないよ、とは言いきれない自分が居る。
迷惑だなんて感じなかったけど、辛い思いはしていたから。
大きな何かのために動いて、根を詰め続けるなんて当たり前に近くて、私はその横で、根本的にはなんの力にもなれなかった。
大怪我して帰ってきたことも、いきなり姿を消したことすらあって。
目が覚めたらいなくなってるんじゃないかって怖くて、こうして度々縋るようになってしまった。

「だから、言えなかったことがありまして……ほんと、今更なんスけどね」

いつもの、遊んでいるような、はぐらかすような物言いじゃない。本当に言葉選びを、言うかどうかさえも迷って、話が遠回りを続けている。
静かな中で、何回も何回もお互い呼吸をして、そのまま眠りそう。

「ねぇ、なまえサン」
「……なーに」

まるで、いつもと反対のやりとりだ。
喜助さんがしてくれるみたいに抱きしめたほうがいいかなあと思って、胸元にしがみつくだけだった手を背中に回そうとして。

「これからは、ずっとそばに居るよ」

絞り出された声に、ぜんぶが止まった。
私の背中をさすりながら、ほんの少しだけ置いて、喜助さんがもう一度口を開く。

「最初から知ってたんス、こうやって来るたび、こう言ってほしがってたって」

あの遠回りな話で、どれだけ喜助さんが何を考えてきたのかに気づかされる。
私を縛りつけないように、無責任な約束をしないように、今日までなんにも誓わないで居てくれたことに。
でも、それでも。

「ずっと……ずっと、さみしかった、怖かった、」     

荒げるつもりのなかった言葉が、涙で揺れて勝手に大声になった。
なにもくれないのが優しさだとわかっても、それを受け止めきれなくて。
嫌われたくないのに、責めるような言葉が出てくる。
自分勝手にさみしがって、怖がって、こんなの、弱い弱い私だけのせいなのに。
わがままな私は、やっぱり、

「わたし、は」

続けようとした声が、喉で引っ掛かった。
だっていま考えたことは、心からの思いじゃない。

「……私も、ひとつ、わがまま、言っていい?」
「ひとつだけなんて、遠慮しなくてもいいんスよ」

そう言われても、いくつのわがままを合わせたって釣り合わないくらいのわがままなのに。
それほどわがままだと分かっていても、どうしても言わずにいられない。
なのになかなか言い出せなくて、喜助さんが掛けたのと同じくらい、むしろそれ以上の時間が経っていく。

「私、私は、」

またすぐつっかえた言葉を、なにも言わずに、ひとつも急かす仕草もせず、ただただ待ってくれる。
私はこういう喜助さんが、本当に、ほんとうに――――

「……ずっと、喜助さんのそばに居たい」

大好き、と想ったら、言えた。
抱き締められる力がひときわ強くなって、口をつきかけた言い訳がぜんぶ潰れる。
代わりに、心がやわらかく満たされるような気分。

「うん、ずっと一緒っスよ、なまえ……やっと、やっと約束できた」

私より喜助さんのほうが何倍も何倍も幸せそうに笑うから、愛されていることが伝わってきて、またそれで胸があたたかくなる。
これから先の未来でも、何度もこうして、幸せを、ほかのいろいろな気持ちを分け合っていけるから。
もうきっと私のところに、怖い夜は来ない。


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