雪解けに椿
「せんせー、今日お誕生日なんですよね?おめでとうございます!いよっ、26歳!いやあとうとう先生もアラサーに両足突っ込まれちゃって!だからそういうわけで私、冬休みの宿題出さなくてもいいですか?なーんて……」
「帰れ。二度とその面見せるな」
「はあ〜!?この……ッ、鬼!性悪!根暗!蝙蝠!残念男!」
――そんな必死な足掻きも空しく、ばたん!と大きな音を立てて教授室の扉が閉まった。鼻先を掠めた分厚い扉を憎々しげに睨みつけて、私はローブの中から杖を取り出す。スネイプ先生のお部屋に、アロホモラなんてなまぬるい呪文が通用しないのは百も承知だ。だから、ここはーー
「何をしているのです、ベイカー」
杖をおもいきり振り上げた瞬間。背後から静かな、だけど怒りに満ちた声が聞こえて、私は動きを止める。
振り向きたくない。なんだか猛烈に、振り向きたくない。
「ま、マクゴナガル、せんせい……」
こつこつと控えめなヒールの音を鳴らしながら、我が寮監――マクゴナガル先生がこちらに歩み寄ってきていた。先生は不格好に上がったままの私の杖腕を見て、ぴくりと片眉を上げる。
「ここはスネイプ先生のお部屋ですよ、ベイカー。――なんとまあ。杖を振り上げて、穏やかではありませんね?」
「うぇ、うう……せんせ……。その、……だって、スネイプ先生がお部屋に鍵をかけちゃって……」
「お部屋に入れてくれないからと、暴力的な手段に出るのは早計でしょう。後ろに隠しているものをお見せなさい」
マクゴナガル先生が厳しい表情でそう言ったものだから、私は素直に背中に隠していたくしゃくしゃの花束を差し出す。
ふくろう通信に載っているような、大きくて綺麗でひらひらしてて、人を呪い殺しそうな贈答用の花束は目が飛び出るくらいお高かったものだからーー私はホグワーツ城の周辺に申し訳程度に咲いている小さなお花を摘んできて、手持ちのそれっぽい包装紙でそれっぽく花束を作っていた。くしゃくしゃで、小さくて、お世辞にも「きれい」とは言い難い代物だ。私は突然恥ずかしくなって、しょんと下を向いた。
「わ、わたし、やっぱり帰ります。これ、あんまりプレゼントっぽくないし」
「あらなぜです。とっても素敵じゃありませんか」
え、と顔を上げると、先ほどの厳しい顔はどこへやら。マクゴナガル先生は目を細めて、表情を和ませていた。私はそんなマクゴナガル先生の変化に怖気づいて、ぽかんと口を開けた。
「ですが、そうですね。あなたがそう望むのならば、少し手直しを加えましょうか」
マクゴナガル先生がひょいと杖を振った。
杖のうごきにつられたみたいに花束が宙に浮かんで、数多の仕切り直しのせいでくしゃくしゃになった包装紙が新品みたいにぴかぴかに、もう何がなんだかわからなくなっていたリボンがきれいに結びなおされて、金色のホグワーツ印が色どりをそえる。
花束はくるりと回って、私の手元にふんわりと舞い降りてきた。――先生が控えめに杖を揺らす。ひらひらと、きらきらの銀色の雪が花の上にふりかかる。
魔法の鮮やかさに、美しさに、私は息を飲んだ。
「先生、すごい……!きれい……」
「ベイカーもそのうち出来るようになりますよ。――勉強をたくさんすれば、の話ですが」
「ぐぇ」
潰れた蛙のような声を出した私を横目に、マクゴナガル先生は魔法薬学の教授室の扉をノックした。
「セブルス、いますか」
「……」
「セブルス。……セブルス?」
「……」
「開けなさい、セブルス・スネイプ」
「…………」
「レダクト、粉々!」
ズドォォォォォォォン!
「わーわーわーわーーー!!!?ええええええマクゴナガル先生―――!!!!!!???」
見事にレダクトされた扉が、レダクトされた瞬間ものすごい轟音とともにレダクトな感じで崩れ落ちる。呪文学の試験で100点中120点もらえそうな完璧なレダクトに、一瞬呆然としたのちにーー私は慌てて先生の杖腕を掴んだ。
「何か?」
「当たり前です」とか「なんてことはありません」とでも言いそうな、きょとんとした表情だった。何だこの寮監!「部屋に入れてもらえないくらいで暴力的な手段に出るのは早計」って言葉はどこに行った!
もうもうと煙が立つ入り口を、私はげほげほと咳込みながらくぐりぬける。
「スネイプ先生―!ご無事ですかー!スネイプせんせっ……ご、」
いた。
普通に、いた。
一番奥の壁に背をつけて今にも逃げ出しそうな姿勢で、びくびくしながら、警戒心丸出しの表情で……スネイプ先生は、いた。
「ミ、ミネルバ……なんで……」
悪いことをしているのを見つかった、みたいな顔でスネイプ先生が焦った声を出す。レダクトされた瞬間、執務机から飛び上がったらしい。インク壺やら羊皮紙やらがあちこちに散乱して、黒衣から覗くシャツが赤のインクに染まっている。
「セブルス」
無表情のまま、スネイプ先生のもとへこつこつと歩み寄るマクゴナガル先生。怖い、怖すぎる。さすがに怖い。私は心の底から26歳になりたてのぴちぴち魔法薬学教授ことーーセブルス・スネイプ先生に同情した。
マクゴナガル先生がスネイプ先生を壁の際の際の方まで追い詰める。ひっと小さく喉を鳴らしたスネイプ先生が心配で、私はマクゴナガル先生の後を追った。
「ミネルバ。いくら何でも学校の設備を破壊するというのは……」
「問題ありません。直せばよいのです」
「もしも生徒が見たら……」
「幸いなことに、今回の冬期休暇でホグワーツに残っているのはほんの数名です。ここにいるベイカーを除き、全員が夕食のために大広間へ向かっています」
「だが……、そうとはいえ、しかし……その……」
「何ですか、スネイプ」
「………………いえ……」
何でもありません、マクゴナガル先生。そう小さく言うスネイプ先生は、いつもの『傲岸不遜育ちすぎ蝙蝠』が鳴りを潜めてしまったらしい。先生に叱られている生徒みたいに、しょぼしょぼとしていた。そういう私もスネイプ先生に同情すれど、マクゴナガル先生のあまりの剣幕に――横から二人のやりとりをあわあわと眺めることしか出来なかった。
「あー……それで、先生。私の部屋の扉を完膚なきまでに吹き飛ばしてまで……お伝えしたかったことというのは」
「本日の夕食ですが、セブルス。校長があなたのために、特別なお食事を用意してくださったのです。――連日連夜授業の準備ばかりしていて、ろくに食事も摂っていないでしょう。まったく……そのうち倒れてしまいますよ」
「え。い……あの、行きたくないのですが」
地獄のどん底に突き落とされたような声を出す先生の耳は、ちょっと赤い。
――なるほど。確かに冬休みに入ってから、私が大広間でスネイプ先生を見かけたのは、唯一クリスマスイブの夜だけだった。とっても嫌そうな顔で、すっごく嫌そうな顔で、とてつもなーく嫌そうな顔で、ダンブルドア先生のお茶目に付き合わされていたのを覚えている。
マクゴナガル先生の様子からして、先生方はなかなか食事をとりにこないスネイプ先生にずいぶん手を焼かされていたようだ。
なんだ、部屋に入れてくれないからと早計に暴力的な手段に出たのかと思っていたが、マクゴナガル先生のあの暴挙も、スネイプ先生の身体のことを心配してのものだったのだ。
スネイプ先生の顔色はいつもに増して悪かった。ふと、机の上に山積みになった資料やら本やら、実験机の上の散らばった器具たちやらが目に入る。――過労と栄養失調で倒れるのも、時間の問題だろう。
「ほらセブルス、行きますよ。少しでもいいのです。せめて顔を出して、スープくらいは飲んでおいきなさい」
マクゴナガル先生の優しい声に、私は心が和むのを感じた。マクゴナガル先生にとって、スネイプ先生は同僚でもあり、――そして同時に、大切な教え子でもあるのだろう。マクゴナガル先生に背中を押されるようにして、スネイプ先生は嫌々ながらも大広間に向かうことを決めたようだった。まるで散歩から帰りたくないわんちゃんみたいだなーなんて私は失礼なことを考えながら、二人の後を追う。
――さあ大広間も目前、というところで、突然マクゴナガル先生は足を止めた。
「セブルス。私は先に行きます」
「は?」
ゆったりと意味ありげな微笑みを浮かべたマクゴナガル先生に、私は「あ」と声を出した。怪訝そうな表情のスネイプ先生をがっつり無視して、マクゴナガル先生ははすたすたと大広間の方へ去って行く。
「あの……えーっと、えーっと」
「何だ」
ずっと大きい背丈の先生が、私を見下ろしている。私はちょっぴり怖気づいて、咄嗟に花束を後ろに隠してしまった。
「その、スネイプ先生」
「まだ冬期休暇の課題についてほざくつもりか」
「えっと、それは今日明日徹夜で頑張ります。それはもう死ぬ気で」
「何かを勘違いしているようだが休暇は今日で終わるぞ」
「え」
「冬期休暇の課題は明日の授業開始時に回収すると板書してまで懇切丁寧にしっかりきっかり説明したはずだが」
「げえ!……え!うそ、うそ……」
「ほう。徹夜。死ぬ気で。そうか」
まあ、頑張りたまえ。そんな嫌味ったらしい声がちくちくと耳を刺すもんだから、私はだあ〜〜〜〜!と喚き散らしてから、ずい!と先生に花束を突き付けた。
「あーーーもう!スネイプ先生、お誕生日おめでとうございます!26歳ですね!今年こそは日頃の習慣を反省して!健康第一で、健やかにお過ごしください!」
「、っ」
――いつまで経っても花束が受け取られる気配はない。私はそうっと片目を開けて、先生の様子を伺った。
先生は、じっと私の手元を見つめて固まっていた。
たぶんだけど、困ってしまっているのだ。……そうなんだろう、と私は思った。
しばらくしてから、スネイプ先生は遠慮がちに花束を摘まみ上げた。へんだな、と思った。困惑と、照れ隠しと、混乱と。そんな感情がぐるぐると先生の瞳の中に渦巻いている、ような気がした。
じっと花束を見つめる先生が、何かを言いたげに口を開いて、そして閉じた。
――心臓が、ばくばくする。先生は、何と言ったら良いのかわからない、みたいな顔で。困ってしまって、どうしたらいいのかわからなくて、だけど平静を装って。問題集の解答冊子から答えを探すみたいな感じで、花束をぐるりと三周まわして。でもやっぱり答えなんて書いてないから、ゆっくり私の顔に目線を移して、正しい答えを探るように。
「何だ、これは」
と、短く言った。
「誕生日、プレゼントです」
私も短くそう返した。緊張で思わず握りしめた指先はとても冷たいのに、なぜだか顔は火を噴いてるみたいに熱かった。こんなの変だ。じり、と後ずさると、スネイプ先生はまたくるりと花束をまわして、興味深そうに包装紙を眺めた。先生が花束を観察するたびに、マクゴナガル先生の魔法で降り積もった銀色が、きらきらと揺れた。まぶしいなと思った。
「……そうか」
「はい」
「では、もらっておこう」
「……はい」
――スネイプ先生は一瞬私を見つめると、くるりと踵を返して大広間へ向かった。
私はスネイプ先生の後を追いかけられずにいた。放心したように、ぼんやりと黒い背中を見送る。
スリザリンの寮監と一緒に大広間に入ったりしたら、寮生たちにまた減点を疑われてしまう。だから、だから追いかけられない。追いかけなかった。ただ、それだけ。
両手で頬に触れる。熱い頬に、ひんやりとした手が気持ちいい。
――1月9日の夜の中で、私はひとり、立ちすくむことしかできなかった。