1.不鮮明な焦燥



 北鎮部隊に所属していた兄が死んだ。

 両親は幼いころに流行り病で亡くなっていたし、記憶の限り連絡を取り合うような親戚もいなかった。たったひとりの家族を失った千代は、家業の薬種商を畳み、北海道に向かうことにした。北海道に眠る兄を弔う目的もあったが、それよりも、兄が最期に見た景色を知りたい気持ちがあった。





「――そうですか。桜殿のご令妹様が」

 対応してくれたのは兄と顔見知りであったという軍曹だった。清潔に整頓された室内は、その小綺麗さに反してどこか鬱屈とした空気が立ち込めている。遠くの方から、怒号と大きな破裂音が聞こえた。千代がびくりと思わず身をよじらせると、軍曹――月島は奥の部下に合図を送り、奥の部屋に続く扉を閉めさせた。途端に静寂を取り戻した部屋で、月島は千代に革製のトランクを差し出す。

「先日、こちらで合同埋棺式を行いました。後ほど墓地を案内させましょう」

 トランクの中に入っていたのは、兄の遺品だった。見覚えのある私服や、少し褪せた色の手帳が詰め込まれたそれを見て、ようやく肉親を失ったことを実感したらしい。鼻の奥がツンとするのを覚えながら、千代はおずおずと月島に尋ねた。

「あの……兄は、どのように亡くなったのでしょうか」

 北鎮部隊は北辺の警備を担う重要な師団である。屯田兵を母体にするその部隊は、主に北海道や東北地方の兵士たちで構成された。関東近郊の村出身の兄が第七師団の所属となったのは、先の戦争で出会った将校様とのご縁ゆえのことであったとのことだったが――暴動の鎮圧中に殉死したのか、はたまた北辺警備の最中亡くなったのか、少しでも兄の最期について知りたいと千代は思った。

「兄上様は最期まで勇敢に戦われました」

 どこまでも低い声だった。顔を上げる。月島の瞳はひっそりと暗い色をしていた。
 胎の底がぞわりと粟立つのを感じて、千代は動けなくなった。血生臭い違和感に、ひゅ、と喉が鳴りかけた途端、月島がふっと表情を和らげる。

「先日暴徒を鎮圧した際、腹部に受けた銃弾が致命傷に。すぐに病院に運びましたが……御国のために、立派なお姿でした。……桜さん?」
「っ!い、いえ」

 分厚い扉の奥から、くぐもった叫び声が聞こえた。月島の瞳は変わらずこちらをじっと見つめている。千代は兄のトランクを抱きかかえたまま、そうでしたか、と震える声で返すのが精いっぱいだった。







 月島の部下の案内で兄の墓参りを済ませた後、どっと疲れが出た千代は、そのまま宿に戻って眠ってしまった。――早朝。肌寒さで目が覚め、掛け布団を引き寄せながら身体を起こすと、昨日月島から渡された兄の遺品が目に入る。

「……兄さん」

 ぽたり、と床にしずくが落ちる。思わず、兄のシャツに手を伸ばした。丁寧に折りたたまれたそれが、ぐちゃぐちゃになるのもかまわず強く抱き締める。

「……兄さん、兄さんっ……どうして死んじゃったのっ……」

 ひくっ、えくっ、と小さな嗚咽が漏れた。シャツに涙が滲む。

 月島の言葉から感じ取った違和感に、千代は未だに混乱していた。――ひとりきりになるのはいい。兄が遠く北海道を死地としたのも、国内であるだけまだマシだ。だけど、兄がどのようにして命を散らし、最期に何を見て、何を思ったのか、それを知ることができなければ、正しく兄を弔うことができないように千代は思った。

 部屋に置かれた小さな鏡に、青白い自分の顔が映り込んでいる。
 双子の兄と千代は、性別は違えど顔立ちがよく似ていた。快闊で、明るくて、人に好かれていた兄。兄は、第七師団で何をしていたのだろう。
 本当になんとなく、千代は兄のシャツとズボンを手に取って立ち上がった。慣れない釦に四苦八苦しながら、ひんやりとした兄の私服に腕を通す。

「……似合わないなあ」

 鏡の中に、男物の衣服を身にまとう不格好な自分が映っていた。
 袖をまくって、裾を折りたたんで、帯紐をベルト代わりにして腰の部分を締める。記憶の中の兄よりも丸みをおびたシルエットに、思わず唇を噛んだ。外套を羽織り、軍帽を被ると――ぼんやりとした鏡に、小さな兄の姿が反射する。ぼろり、と目から涙が零れ落ちて、はっとした。幼いころから、兄が泣いている姿を見たことがなかった。

「兄さんの顔に、涙は似合わないよね」

 赤くなった目をこすりながら、千代はかじかんだ手で遺品を広げる。私服や軍装一式、背嚢、いくつかの証書、手書きの地図、それから――少し変わった古い写真だ。まるで一葉の写真を鋏でぷつりと両断したような、不思議な大きさの写真だ。中に写っているのは若い女性で、自分や兄に似た顔立ちをしている。それもそのはず、この写真は家に伝わる若い頃の祖父母の写真のはすだ。それが一体、なぜこのような形に、と首を傾げた刹那、ギシッギシッと誰かが廊下を歩いてくる音がした。

「!」

 ゴトン、と部屋の前に何かが置かれたような物音。千代は息をひそめて、障子越しに廊下の様子を伺った。――うっすらと見える大きな影が、誰かの人影であることに気が付いた時、千代は息を飲んだ。どくんどくんと心臓がうるさく跳ねる。がたがたと、身体が小刻みに震える。
 誰かが、外にいる!

 早朝とはいえ、ここは宿屋だ。両隣に他の客も宿泊しているし、大きな物音がしたら誰かが気付くだろう。だけど、もし、――千代が咄嗟に兄の遺品のナイフを手に取った瞬間、微かに床を擦る物音が鳴った。

 その瞬間、廊下の人影はくるりと踵を返した。ギシッギシッと、廊下が軋む音がまた響く。ドクリ、ドクリと身体中を血が巡る音を感じながら、千代は耳をそばだてた。足音は階段を下りてゆき、そのまま遠ざかって聞こえなくなった。

 一瞬の出来事だったのに、長い長い時間が過ぎ去ったようだった。千代はどっと汗がふき出るのを感じながら、ずるずると壁によりかかる。どうしよう。怖くて外に出れない。ナイフを取り落としそうになりながら、震える手で障子に手をかける。

 途端に、ふわりとやわらかな香りが鼻をくすぐった。なんだか白檀の香りのような。しかし、十分に思案する間もなく、千代は顔を真っ青にした。

「――なに、これ」

 廊下に置かれていたのは、小さな風呂敷包みだった。おそるおそる中を開く。小さな手帳に、一枚の写真と膨らんだ封筒が挟まれている。

「……っっ!!」

 千代は悲鳴を上げそうになった。

 兄の遺品に入っていた写真の片割れと思しきものが、そこにあった。

 ――まさか、なんで。心臓が早鐘を打つ。千代は床に落ちている写真を掴んだ。

「嘘……」

 二枚の写真は、ぴったりと切り口が合わさった。
 古ぼけた写真の中で、自分たちによく似た女性の横に洋装の男性が立っている。端正な顔立ちに、黒髪を撫でつけているその姿は、こんな状況で泣ければ惚れ惚れしてしまうほどの美丈夫だ。――島原の芸子だった祖母は、客だった祖父に出会った。幕末の、いわゆる志士と呼ばれる人間であった祖父は、明治政府軍との戦いの中で命を落としたという。当時お腹に母を身ごもっていた祖母は、落ちのびるようにして関東の小さな村落に身を寄せた。
 そんな二人の写真が、なぜ。

 ぐるぐると頭の中で疑問が渦巻く中、逃げろ、と理性が叫んでいる。

 千代が兄の遺品を手に入れ、写真の片割れを手にしていることを知っている人間がいる!

 千代は震える手で手帳を開く。ほとんど白紙ばかりのそれには、たった二行だけ、兄の筆跡が残されていた。

《アイヌ 金塊 刺青 
 小樽に残れ》



Golden Kamuy
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