いなくなれると思わないでね


「左馬刻さんと、こうしていつまでも一緒に居れたらいいのに」
 毛布の中の一郎が、微睡みの淵を睫毛でなぞりながらそう呟いた。

 イケブクロは今日も雨だった。梅雨に入ってから一番の大雨で、持ち歩いていた傘がろくすっぽ役に立ちもしない吹き降りに、俺と一郎は全速力で事務所の中に飛び込んだ。途中で帰路を分けた先生や乱数も、きっと俺たちと同じで悲惨な目に遭っているに違いない。
 室内に上がるが否や、頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れのみすぼらしいガキを先にシャワールームへと押しこみ、その間に二人分の着替えを用意して。生憎下着は新品のものがなかったから、茹で上がった一郎にはそのままスウェットをかぶせてやった。故に今のコイツはノーパンである。ナニの収まりが悪いらしく、しばらくは微妙そうに身じろいでいたものの、ベッドに放りこんで毛布でくるめばあっという間に大人しくなった。
 雨雫に奪われた体温をシャワーの熱で取り戻し、その反動で眠くなってきたんだろう。昔、大雨に降られずぶ濡れで帰ってきた幼い合歓にも同じ事をして、同じように眠たげに瞼をこすっていたのを思い出しながら、血色を取り戻した頬を撫でてやる。
「なぁ、さまときさん」
 おぼろげな音で、妹と同い年の子供が俺を呼ぶ。その甘えたな震えに窓ガラスを叩く雨粒の音が遠のいて、緩慢とした息づかいだけが鼓膜を揺らす。
 それがあまりにも縋るような幼げな声だったので、もっと至近距離で聴きたくなった。覆いかぶさるように距離を詰めると、鼻先に唇を押し当てて少しだけ歯を立ててやる。
「どうしたよ、甘ったれ坊主」
「ガキ扱いすんな。……だから、左馬刻さんと、こうしていつまでも一緒に居てぇって」
 そう言った、と。あえて俺が聞き流した振りをしたのを知ってか知らずか、口先を尖らせふてくされた一郎が首裏に腕を回してきたので、そのまま身を寄せた。
 高い体温にすっかりと温められた毛布の中、世界をたった二人だけのものに持ちこめた事が嬉しかったのか、子供はすっかりと満足そうに俺の胸元にへとうずまる。こうするだけでこいつの機嫌はすぐに良くなってしまうのだから、単純で可愛いものだ。
 そんなかわいい子犬に免じて、前髪の隙間から覗くまろい額に口付ければ、俺が据え置きにしているシャンプーの匂いが鼻腔を擽る。
「……一緒に居てぇ、じゃなくて。居るんだろ」
 一等柔らかな声で、言い聞かせるように囁いてやる。幼気な懇願に対する明確なアンサー。抱き締めた未成熟の肢体がわずかに跳ねて反応を示した。
「ん」
「それとも、なんだ。一緒にいる自信、ねぇのか」
「ンな訳ねぇ」
 食い気味に反論を食らって、思わず噎せそうになった。こうも必死に縋られては面白くて堪らない。自分の思い通りに事が運ぶのはやはり心地が良くて、ただでさえ上機嫌であるところに甘く煮詰めた歓喜を注がれたような気分になる。
「なら、ぐずんな。いいな?」
「……はい」
 髪を梳きながら諭せばすぐに、少年然とした輪郭で柔らかく一郎はとろける。
 頷いておきながら、内心ではきっと小指の爪ほど納得などしていない。それでも健気に、いじらしく、首を縦に振るのは俺への従順さを示すためか。そうだろう、きっと。そうでなければ、この子供らしさをどこかに捨て置いてきたような、妙に大人びた振る舞いばかりをする十七の子供が是を唱える訳がない。
 ようやく、俺の前でだけ、こうして頑なに解かなかった結び目を綻ばせ、やわい部分を晒すようになったのだ。相応の責任を賭す覚悟は、こうして共寝をするようになったその日、相応に頭を擡げた慾と綯い交ぜにして肝に叩きこんだ。
「──いいこだな、いちろ」
「……うん」
「そうやって俺の言葉だけ聞いてろ。ずっと可愛がってやる」
 ……ん。鼻の奥から溢れ出た、泣きぐずる小さな子供のするような頷きだった。そうして腰に回された腕が、俺の服を握っては、離す。掴むのを躊躇するしぐさ。握り締めて離さなくなるまでは、もうしばらく時間を費やす必要がありそうだが、幸いにも今し方、こいつの未来は俺とのものになった。焦る必要はない。
「オラ、ちゃんと背中に手ぇ回せ。またテメェに蹴り出されちゃ、コッチも堪ったモンじゃねぇんだわ」
「一回落っこちてますもんね、左馬刻さん。しかも腰から」
「場所交代してやろうか。そんで思いっきり蹴飛ばしてやんよ」
「遠慮しときます。腰に青アザなんてダッセェんで」
「このクソガキ」
「アハハ」
 冷えた純白のシーツに黒髪を散らかし、呈色を違えた双眸をきゅう、と細めて、あどけなく無防備に笑う。そんな子供の頬の上に乗った涙ぼくろを親指で押しつぶして。撫ぜて。そこに舌を這わせたい衝動には、まだ早いと言い聞かせて、理性という蓋で閉じた。
「……もう寝ろ。明日には干した服も乾いてんだろ」
「俺のパンツも? ノーパンで帰るとか、AVみてぇな展開嫌っすからね、俺」
「一番乾きやすいとこに干しといてやったわ、童貞クンのパンツは」
 軽快な軽口の応酬。垣間見えた燻りが気付かれていない事に安堵する。体こそ早熟しているとはいえ、内面も世間擦れしているとはいえ。自分のようなひどい男にあどけなく柔い部分を無防備にも見せびらかしてくる十七の子供に、この苛烈な慾はまだ、注げない。
 育つまで。育ちきるまで、待つ。だから、今は甘さにだけ包んでおいてやる。どうせ逃げられやしない。もう、逃してなどやれない。なら、夢くらいは見させてやろうと思う。
「……おやすみ、さまときさん」
「おう。オヤスミ。……良い夢みろよ」
 いずれ訪れる、決別など許されないと理解するその日まで。甘くて優しい、理想の大人が自分の事を愛してくれる。欲の極致とは正反対に位置する穏やかな夢を。存分に。