溶けて、消えて
父が古くからの友人に騙され多額の借金を背負い、その返済に追われ疲弊した母は心労たたって早くに他界。数ヶ月後、耐え兼ねた父も身投げして母の後を追った。出かける間際に呟いた『苦労かけてすまんな』の一言が父の最後の言葉だった。
残された私は借金の取立てに来たヤクザに売り飛ばされ、買い手の天人に好き勝手されてる日々を送っていた。見張りの天人の隙をつき、命からがら逃げ出したけれど結局追手に見つかり散々サンドバッグにされた挙句、もう使い物にならないとゴミ捨て場に生ゴミとして捨てられた。
通行人が見向きもしない中、辛うじて呼吸のあるそれを拾い上げた物好きな人。優しく大きな掌で私の体をゴミ捨て場という名の地獄から救い上げてくれた。
「もう、大丈夫ですからね」
横抱きにした私を見つめるその顔は歪んだ視界ではあまり分からなかった。焦ったような、それでいて優しい声色でかけられた言葉にひどく安心したのを最後に私は意識を手放した。
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目を覚ましたときには病院で、私を拾った近藤勲という男はひどく安堵した表情で私を見下ろしていた。
彼は江戸で一旗あげるために仲間と共に武州という田舎町から出てきたという。仲間と切磋琢磨する合間を縫って、私の様子を見に病院へ通ってくれていた。来る度に今日あった出来事や彼自身の事を教えてくれ、あの日あの場所でどうして死にかけていたのかなんて一度も聞かれる事なく、私を笑顔にするために彼は沢山の話をしてくれた。
近藤さんの話してくれる夢や志はそれはもうご立派で、薄汚れた世界に放り投げ出された私からすれば夢物語のようだった。それを語る彼の真っ直ぐな瞳はただただ眩しくて、付き合いの浅い私でもその夢を掴む日を見届けたいと願ってしまう程だった。きっと近藤さんなら大丈夫ですよ。そう伝えると彼は少し照れ臭そうに頬を染めてありがとうと笑うのだ。私は近藤さんのその顔が好きだった。
そんな彼に私が恋心を抱くのなんて、そう時間はかからなかった。
もう時期退院という頃、私は彼に身の上を明かした。近藤さんは相槌はしても、口を挟む事なく私の話を最後まで聞いてくれた。身より所か家もない事、ここを退院した所で行く宛などない事。それを伝えると彼は優しく微笑み、私さえ良ければ浪士組の手伝いをしてくれないかと言ってきた。
幕府に直々に支えることになった浪士組改め真選組は屯所を拡大し、これまで以上に大切なお仕事を頂けることになるらしい。そうなると男所帯ではどうしても自分たちの世話など二の次にとなってしまう。なのでこの度、女中となる人を数名雇おうと言う話が上司の方から上がっているそうだ。近藤さんはその女中のお仕事に私をお誘いしてくれたのだ。
どこまで懐の深いお人なのだろう。ゴミ同然と捨てられていた私を拾い上げただけでなく、居場所まで与えようとしてくれる。ポロポロと溢れ始めた涙を見て慌てるこの人は私のような浅はかな人間では計り知れないほどに優しい。いっそこの優しさに凭れ掛ってしまいたいとすら思う。けれどそれはこの人の荷物になると言うこと。それだけは絶対にあってはならない。
「よろしく、お願い致します」
ベッドの上で深々と頭を下げながら私は誓ったのだ。この溢れんばかりの愛しい気持ちには蓋をしようと。この人の目指す道に、私の抱くこの感情はあまりに無粋で邪魔なものだ。きっと優しい彼のことだから伝えたら取り乱して顔を真っ赤にするだろう。そんな姿を想像しては少しだけ見てみたいなという気持ちにもなる。それでも、下げた私の頭に乗せられた優しくて大きな掌が掴むべきは、私の汚い掌などではない。もっと大きなものを掴むためにあるのだから。
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そう決めたのが四年前。今、私の目の前には白い歯を輝かせながら、照れ臭そうに私の好きな笑顔でこちらを見る近藤さん。けれどその幸せそうな表情とは裏腹に口から出てきた言葉は私にとって酷く無慈悲なものだった。
「好きな人ができたんだ」
一瞬だけ、思考が固まった。過去にも何度か近藤さんに好きな人が出来ることはあった。その度にフラれて落ち込んで励ましてまた恋してフラれての繰り返し。それでも今までこんな風に笑いながら報告してきたことなんてあっただろうか、否。それが私の思考が固まった理由だった。
四年前に閉めたはずの蓋がカタカタと音を立てる。中身が蓋を押し上げて開けて開けてと騒いでいるような気がした。私は俯き近藤さんから見えない角度で唇を噛み締める。言葉を間違えないよう、一呼吸置いてゆっくりと顔を上げた。
「それは、おめでとうございます」
私はうまく笑えていただろうか。きっと照れ臭そうに頭をポリポリ掻くこの人にはバレていない。なら、それでいい。今更こぼれ出したところでその気持ちを掬い上げてくれる受け皿はない。亀裂が入り悲鳴を上げる器には気付かないフリをしてでも、私は自分との誓いを破る事は出来なかった。
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台所に充満する甘い匂い。毎年恒例となった隊士たちに感謝を込めてチョコやクッキーなどを送る日となったバレンタインデー。年々隊士が増えていく真選組では年を重ねるごとに作る量も増えて、少しだけ大変ではある。けれどそれはあの人の描いた未来が一歩ずつ着実に実っているという事で、それを実感できる今日という日は私にとってこれ以上にない幸せな日でもあった。
コト、と音を立てて箱に蓋をかぶせる。どうせみんなすぐ食べるからとあまり凝った包装はせずに、左上にちょこんとシールタイプのリボンを添えて出来上がり。その中でも一番大きな箱は近藤さんの分だ。決して私の気持ちが込められているから大きいわけではなく、真選組の局長だから特別に大きいだけだ。深い意味は、ない。
「近藤さん、少しお時間よろしいでしょうか」
近藤さんが中で仕事をしているであろう自室の前で両膝をつき声をかける。直ぐにああ、入っていいぞとかけられた声に失礼しますと襖を開けた。中には座卓いっぱいに広げられた書類と眉間に皺を寄せうんうん唸る近藤さんの姿。
「これはまた随分と溜め込みましたね」
「トシが容赦なくてよぉ、今日中にこれ全部に目ェ通してくれってよ。酷え話だと思わないか」
「鬼の副長は局長にも容赦なしですね」
襖を締めながらクスクス笑うと近藤さんもつられた用に違えねェとケラケラ笑った。近藤さんの座る座卓の真正面まで行き再び膝をついた。
「あまり根を詰めてもお身体によくありませんよ、少し休憩しませんか?」
コトリと座卓の上に今日のために用意した箱を置くと、書類から顔を上げた近藤さんはきょとんと箱と私を交互に見た。
「土産か?何処か行ったのか」
「忙しくて今日がなんの日かもお忘れですか?」
的外れな近藤さんの言葉に口元を緩ませると近藤さんは顎に手を当て今日がなんの日かを考え始めた。数秒の沈黙の後、あ!と声を上げて合点がいったのか伏せていた目を輝かせた。
「バレンタインか!」
「正解です」
「毎年悪いな」
「いえ、私も楽しくてやってますから」
先程までの疲れた表情はどこへやら。嬉しそうにチョコレートの入った箱に手を伸ばす彼を見ると私まで嬉しくなってしまう。近藤さんが箱の蓋を開けようとしたその時、電撃が走ったように近藤さんがハッと表情を変えた。
「どうかしましたか?」
「バ、ババババレンタインンンン?!」
「え、…ちょ、近藤さ」
「ということはお妙さんも俺のためにチョコを用意してくれている事が万が一、いや億が一にもあるかも知れん!!」
「あ、の、」
「こうしちゃ居れンンン!お妙さァァアン!!」
今あなたの勲が行きますよォォオ!と開け放たれた襖はスパーンといい音を奏で、近藤さんは瞬く間に屯所を飛び出して行ってしまった。呆然と近藤さんの出て行った先を見つめていた私は一つ息を吐いて姿勢を正し、座卓に向き直った。置き去りにされた手付かずの箱が随分と虚しく見えた。
近藤さんも居ないのに彼の部屋に長居するのは気が引けて、私はすぐに彼の開けたままの襖を締めて部屋を出た。すると出た先の廊下には近藤さんの仕事の様子でも見に来たのか、土方さんの姿があった。
「…何か言いたそうな顔をしてますね」
いつからそこに居たのかは知らないが、目があった彼は随分と理解し難いと言いたげな怪訝な顔で私を見ていた。徐に隊服の内ポケットから取り出した煙草に火をつけ、フッと息を吐き出した。
「いや、別に」
「そうですか」
「ただ随分バカな女だと思ってよ」
別に、と女優を決め込んだ割には随分な毒を吐いてくる土方さんに言いたいことあるんじゃんと内心では思ったけれど口にはしない。
「いや、アンタだけじゃねぇな。近藤さんもだ」
「そうですか?チョコレートにウイスキーじゃなくてマヨネーズ入れて喜んでるあなたみたいな味覚が狂った人間にとやかく言われる筋合いは毛頭ありませんけどね」
「マヨネーズバカにしてんのかテメェ!美味ェじゃねぇかマヨネーズボンボン!」
「勝手に名前つけないで下さい。作ってる時吐き気抑えるのに必死なんで毎年毎年勘弁して下さいよ」
「…っとに、近藤さん以外にゃ可愛げねぇ女だな」
土方さんは手に持った煙草から煙を吸い込み吐き出した。吐き出された煙は風に流され徐々に溶けて消えていく。この気持ちも煙みたいに簡単に消えてくれれば良かったのになんて無駄なことを考えた。
「可愛く振る舞ったって相手にされないんじゃ惨めなだけですよ」
「猫被ってんのバレてんじゃねーのか」
「…それならよっぽど楽なんですけどね」
あまりうまく笑えなかった私に、土方さんがまた怪訝そうに眉間に皺を寄せた。土方さんが私に言わんとしてる事は分かる。だから彼の紡いだ「言やぁいいだろ」が何に対してなのかも直ぐに理解できた。
「やっぱり、土方さんはバカですね」
フッと見下すように笑うと土方さんは、あ?と眉間に青筋を浮かべた。だって本当に、あなたは何もわかってない。あなただって私と同じ気持ちを抱いていたことがあるくせに。
「武州から出たばかりの田舎侍の近藤さんとなら私でも釣り合いが取れたかもしれません。けどあの方はもうお上から直々に江戸を任されてる警察組織、真選組の局長というお立場なんですよ。どこの馬の骨ともわからない私があの人の隣にいることが許されるわけないじゃないですか」
できるだけゆっくり紡いだ言葉は、自分に言い聞かせる為でもあった。言葉にしてしまえば仕方ないと飲み込めると、そう思った。
「それならどれだけ閑散としていると言えど、道場の跡取り娘の方がよっぽど釣り合いが取れているじゃありませんか」
私じゃあの人に釣り合わない、あの人は私には勿体ない。何度飲み込んだかは分からない持論は四年経っても消化出来ていない。あの日救って頂いた、私はもうそれだけで十分じゃないか。
「土方さん、わたしね」
息を吸い込むとタバコの香りが肺を満たす。飲み込んだ気持ちと一緒に吐き出した言葉は自分が思ってる以上に、優しい声となって紡がれた気がした。
「好きな人には幸せになってもらいたいんですよ」
一瞬だけ目を見開いた土方さんは一度眼を伏せると、これ以上何かを言うのは野暮だと思ったのか、そーかよと吐き捨て短くなったタバコを手に持っていた携帯灰皿に押し付けた。ジッと火が消える小さな音とは別に、ドタドタとこちらに近づいてくる喧しい足音が聞こえて、二人揃ってそちらに顔を向けた。
「名前さーん!トシー!」
先程、猛スピードで屯所を出て行った近藤さんが廊下の奥からこちらに向かって走ってくる。もう戻ってきたのか、それも随分と変わり果てた姿で。出て行ってからあまり時間は経っていないと言うのに服は所々破れ、泥まみれ。顔はボクサーの試合後のように腫れていた。一体何があったと言うのか。
「見てくれ!」
自分の容姿を気にする様子もなく、私と土方さんの目の前まで来た近藤さんは大事に握っていた掌を広げた。すると中から出てきたのはコンビニや駄菓子屋で買える二十円そこらのチョコレート。
「お妙さんにもらったんだ」
照れ臭そうに頬を染め、満遍の笑みで言葉を紡ぐ近藤さんに私は心臓を鷲掴みされたような感覚に陥った。
ああ、近藤さん。やっぱり私はあなたが好きです。その真っ直ぐな瞳に私が写って居なくとも、あなたのその笑顔は私の心を掴んで離さないんです。あなたを困らせたくはないから、やっぱりこの蓋を開ける事は出来ないけれど、それでもどうか、この想いを密かに抱く事は許して下さい。
「それは、おめでとうございます」
きっと今日もうまく笑えたはずだ。へへ、と照れ臭そうに鼻を掻く彼は気付いていない。座卓に置き去りにされた私の大きな箱は、この掌に包まれたちっぽけな塊に敵う事はない。来年も、きっと。