蹴散らして



その日、目が覚めた瞬間から私の最悪な一日は始まっていた。
変えたばかりの真っ白なシーツは赤黒く汚れており、月のものが最悪のタイミングで来てしまったのだと知る。忙しい朝の時間に洗濯という面倒なタスクが増えただけでなく、腹の内側をハンマーで殴るような重たい痛みに加え、フォークでぐさぐさ刺される様な頭痛。とにかく薬を探そうと光を求めて開いたカーテンの向こう側はバケツをひっくり返したような、なんて表現がぴったりな土砂降り。いい加減にしてくれ。そう呟いたところで現状が変わるわけでもない。
家を出るまでどれほどの時間があるだろうと時計に目をやれば4時44分を示し止まっている。雨が降っているとは云え、外から差し込む光は夜明けのそれではないことくらい理解できた。急いで枕元に放り投げたままの携帯で時刻を確認すれば家を出る18……いや、17分前になった、たった今。
私は叫んだ。叫べば頭部と腹部の痛みが一層強くなる。クソが。
唯一頼りになる母は夜勤でまだ帰宅していない。父は離婚してるのでそもそも家に居ない。急いで口の中に薬を放り込むと、洗面所まで走り微温湯を溜めた。そこにシーツと洗剤と漂白剤をぶっ込む。その間にサッと身体を流すだけのシャワーを済ませ、制服に着替える。多少濡れてしまった髪を乾かす時間なんてものがある筈もなく、適当に一つに纏めた。微温湯の中で洗剤と漂白剤の染み込んだシーツを雑に擦り合わせればある程度の汚れが取れる。完璧に落ちた訳ではないが良しとし、それを洗濯機の中にぶっ込んだ。スタートボタンをしっかりと押し、自室にある鞄と携帯を引ったくるように手にして家を出た。
土砂降りの中の傘など有ってないようなものだった。学校へ着く頃にはローファーの中はぐしょぐしょだし、走ったせいで泥はねも酷い。きっと帰る頃には洗濯機の中のシーツはしわくちゃになっている。けれどそんな事もうどうでもよかった。何とか間に合った。それだけでよかった。肩で息をする私が教室に入ると、気が付いた友人が驚いた様に目を見開いた。

「うっわボロボロじゃん、どしたの?」
「聞かないで、思い出したくない」

友人の席を通り過ぎて自分の席に着く。ぐしょぐしょになった靴下を脱いで、スカートに跳ねた泥を拭う。使う予定のないジャージは家に置きっぱなしなので着替える事も出来ない。教室に入ってきた担任によって一息つく間もなくSHRが始まった。そして告げられた「先日も言ったと思うが今日の5限、辞書使うから忘れたやつは他のクラスからでも借りとくように」のお言葉。は?聞いてない。いや、聞いた気がしなくもない。辞書なんて嵩張るものいちいち持って帰っているわけもなく、学校に置きっぱなしにして居た筈。そう思って授業の合間の短い休み時間に机の中やロッカーの中を探してみても見つからない。いよいよ誰かに借りるしかないかと思った時、ふと思い出した。

『辞書貸してくんね』

あれはいつの事だっただろう。私の記憶が正しければ数ヶ月以上前のことだったかもしれない。滅多に使う事のない辞書なんか無くても困る事もなかった。貸したまま返却されていないそれを返してもらいに同い年なのに一学年下のクラスに居る彼を訪れたのは昼休みが半分以上過ぎた頃だった。
教室の後ろ側の廊下から一番近くの席の男の子に「圭介いる?」と聞けば「えっと、場地くんなら……」と視線を教室内へ向けた。それに釣られるように私も教室内を見渡せば、窓際の一番前の席。そこに圭介は座っていた。ビン底眼鏡で七三ヘアー。ガリ勉を装ったその姿は何度見ても見慣れない。
男の子が「場地くん」とその場から声をかけてくれたが昼休みの騒がしい教室内では掻き消されてしまい、圭介が振り返る事はなかった。きっと圭介の席に寄りかかる女の子との会話に夢中なのだろう。「圭介」と、二度目は私が声をかける。今度は届いた声に圭介が此方を振り返ると、一緒に隣の女の子の視線まで私に突き刺さった。

「どうした?」

女の子を置き去りに、圭介は直ぐ私の前まで足を運んでくれたが一度目が合った彼女は私から視線を逸らそうとしなかった。だから私も同じように逸らす事はしなかった。
長い髪をくるくると巻いて、目を大きく見せるためのアイメイクはビン底ガリ勉野郎のためではなく“東京卍會、壱番隊隊長”である圭介のために着飾ってるのが嫌でも分かる。
圭介を好きな女の子。私は嫌いだ。彼女の視線からも私が嫌いだと伝わってくるのできっと丁度いい。彼女は私を頭のてっぺんから爪先まで舐めるように見渡すと勝ち誇ったように鼻で笑った。

「何だその顔」
「……ブスでごめん」
「言ってねーよ。……で?どうした」
「辞書、返してほしくて」
「……あー、あれか。ちょっと待ってろ」

踵を返し、一旦教室内へ引き返した圭介は自分の机の中や鞄の中を漁り出した。その途端、隙をついたように彼女が再び圭介へ近寄っていく。わざわざ肩に手まで置いて、耳元に口を近づける様にして何かを話し出した。
見せつけられていると思うのはきっと自意識過剰なんかではない。横目で様子を伺う様にこちらを盗み見る彼女の顔は明らかに私を馬鹿にしていた。気分が悪い。苛立ちを通り越して悲しくなってくる。普段の私なら圭介は私の。それで終われた。けれど、そうもいかないのは今日が朝から最悪続きだったせいだ。自分の完璧な状態で圭介の横を陣取る彼女と、髪も適当で靴下も履いてなく所々泥で汚れたスカート姿の私を比べたらどうしたって惨めにもなる。もう辞書なんかどうでもいいから早くこの場を去りたい。でないと余計なことを叫んでしまいそうだった。堪えるためにグッと口元に力を込めた。苦しい。

「ほらよ」
「ん。……じゃ」
「待てコラ」

これ以上この場に留まって居たくなくて、圭介の手から引ったくるように辞書を奪うとその場を去ろうとした。けれどそれは圭介が許してくれなくて、私の首根っこを猫みたいに掴んだ。「ぐえ」なんて可愛げの無い声が漏れる。これ以上惨めにさせるのはやめてくれ。じゃないと我慢してるものが全て溢れ出てしまいそうだった。

「んでそんな機嫌悪ぃんだよ」

後ろに引っ張られた私は後ろに倒れそうになり上を見上げた。圭介は眉間に皺を寄せ、上から私の顔を覗き込んでくる。馬鹿みたいなビン底眼鏡の奥の瞳が不安そうに揺れた。
ちがう。ちがう。圭介が悪いんじゃない。圭介にそんな顔をさせたかった訳じゃない。圭介が好きで、たまらないのに、見窄らしい自分が惨めで、恥ずかしくて居た堪れなかっただけだ。綺麗に着飾った彼女が隣にいる姿を、一瞬でもお似合いだと思って勝手に辛くなっていただけだ。心臓が痛い。我慢して居た感情が溢れ出すと同時に涙も出た。最悪だ。突然泣き出す面倒な女が彼女なんて、圭介はもっと最悪だ。

「いきなり泣かれたって分かんねぇよ」
「めんどくさくて、ごめん」
「だから言ってねぇし、ンなこと思ってもねーよ」

圭介は私の涙を制服の袖で拭ってくれた。決して優しいとは言えない力加減で、まるで汚れでも落とす様にゴシゴシと目元を擦られる。痛い。でも不思議とさっきまで痛かった心臓付近の痛みは消えていく。

「け、すけ」
「あ?」
「あのこ、かわいい」
「……それで泣いてんのか?」
「わかん、ない」

ぐい。俯いて居た顔を無理矢理上げさせられる。顎クイなんて女の子がときめく様な仕草とは程遠く、私の両頬を潰す様に片手で顎を掴まれた。強制的に見ることとなった圭介の顔からはいつの間にかビン底眼鏡が外されて居て、いつの間に取ったんだろうなんて考える間もなく噛み付く様なキスが降ってきた。ひゅう、と冷やかす声に紛れて女の子の悲鳴のような声が聞こえた。

「下らねぇこと言ってんな、お前はオレだけ見てりゃいーんだよ」

動くことを忘れてしまったかの様に圭介の顔からは目を逸らすことができず、圭介は私のものなんだと再確認させられる。ここが学校だとか、人前で何してくれてんだとか、言いたい事はいっぱいあるはずなのに頷く以外何もできないくらい、私はどうしようもなくこの男が好きらしい。