辱めは忘れた頃にやってくる



ページを捲るとぺらりと紙の擦れる音がした。開いたページの吹き出しに書かれた字の羅列を目で追うと、ワンパークのゾフィが何かかっこいい台詞を言っているようだった。けれど俺の頭の中にはゾフィの台詞が全くと言っていいほど響いてこない。
ジャンプ大好きの銀さんがなんでって?そりゃおめー、先週のジャンプの内容を覚えてねェからだよ。更に言えば先々週も、先々々週だって覚えてない。
それでも全ての台詞に目を通すとぺらり、またページを捲った。

『銀さんのことが好きです』

四週間もの間、俺の頭の中にジャンプの内容が入ってこない原因である女の声が脳内で再生される。
そう告げた女――名前はまるで好きな食べ物を伝えるくらい簡単に言いやがった。俺の頭が言葉を理解するのに数秒、理解した後も意味が分からなくて大分混乱した覚えがある。揶揄うように笑った名前の顔を思い出すと今でも顔に熱が集まる気がして、ソファーに仰向けに寝転がるとそんな顔を隠すように読みかけのジャンプを顔の上に乗せ目を瞑った。

「もー、銀さんまた寝るんですか?」

さっき起きたばっかりなのに、と小言をこぼす新八に「昼寝だよ昼寝」と素っ気ない返事をすればため息だけが返ってきた。
静かになった居間は眠りに落ちるには最適で、本格的に寝に入ろうと思ったところで今度はブオオンとやかましい機械音。
新八の野郎、掃除機かけ始めやがった。
ジャンプを少し持ち上げ、隙間から新八を睨み上げるとジトっとした目で俺を見ている眼鏡と目が合った。掃除機を止める気配のない新八に今度は俺がため息を吐いた。諦めてまたジャンプを顔に被せると、掃除機の音を子守唄に俺は再び目を閉じる。

目を瞑ること約数分。何も考えずに寝ようと思っても掃除機の音はうるせェわ、頭の中はあの女のことでいっぱいだわで全然寝れる気がしない。挙げ句の果てには瞑った瞼の裏には笑顔の名前が浮かんでくる始末。まるで初めて告白された男子中学生じゃねェかコノヤロー。
俺の頭にジャンプの内容が入ってこなくなってからかれこれ四週間。それ即ち、あの日から四週間もの時間が経っているという事。そしてその間、俺と名前は一度も会っていない。
そもそも待ち合わせをして会うような仲でもなければ、連絡先すら知らない。偶然居酒屋で顔を合わせれば、なんとなく隣に座って尺をする。そんな名前すら存在しない俺たちの関係は随分と曖昧なものだった。

ジリリリリン――…… ジリリリリン――……

その時、万事屋の電話がけたたましい音を立てて着信を知らせる。どうにも出る気分にならず「新八ィ〜」と廊下の方で掃除機をかけてる眼鏡を呼べば喧しかったモーター音は消え、随分とうるさい足音が近付いてくる。「電話くらい出てくださいよね…!」と文句を漏らしながらもガチャリと受話器の浮く音がした。

「はいもしもし、万事屋銀ちゃんです」

電話に出た新八の声色から苛立ちは消えていて、外面のいい声が聞こえてくる。神楽と定春が散歩に行ってるせいか、新八の声がやけに部屋の中に響いた気がした。

「はい、……はい、そうです。……わかりました。今変わりますので少しお待ちください」

会話から察するに、俺宛の電話だろうとソファーから身体を起こして新八の方へ向き直った。受話器の通話口を押さえた新八が口を開く。

「銀さん、名字さんって方なんですけどお知り合いですか?」
「あ?誰だろそりゃ。どーせ何かの営業だろ」
「あれ?おかしいな、名前言えば分かるって言ってたんですけど……」
「それアレだろ、営業電話の手段だろ。知り合いだーつって電話取り次いで貰って、そこからが営業の腕の見せ所ってやつよ」
「今時そんな詐欺まがいな営業電話する人いないですよ」
「じゃあ名前伝えて貰えば分かると思います詐欺だ」
「何ですかその詐欺、聞いたことありませんよ……。本当に知りませんか?名字名前さんって女性」

ドンガラガッシャン――!

「いッッテェェエエエ!!」
「……な、なにやってんですかアンタ」

新八の口から紡がれた名前に慌ててソファーから立ち上がった俺は机の足に小指をぶつけた。その痛みにバランスを崩して転倒すると、頭と腰を思いっきり床に強打し、痛みのフルコンボにその場でのたうち回った。
白けた顔で見下ろす新八の視線を受けながら、しばらくして落ち着きを取り戻した俺はひとつ咳払いをすると、何事もなかったかのように静かに立ち上がった。

「…………ったく、いきなりでけェ音出すなよな」
「いや、でかい音出したのアンタでしょーが。大丈夫ですか?大分強めに頭打ってましたけど」
「平気だよこんなもん。んなことより新八、お前今から夕飯の買い出し行ってこい」
「……は?なんなんですか急に。ていうか電話、どうするんですコレ」
「詐欺師は俺に任せとけ、もう二度とかけてこられないようにギッタンギッタンに言い負かせてやるからよ」
「いや、そもそも詐欺と決まったわけじゃないですし、間違い電話ならそう伝えてあげた方が……」
「ゴチャゴチャ言ってねェで俺に任せてお前はさっさと行けっつってんだよ!」

新八から受話器をふんだくると、無理矢理背中を押して玄関の方まで追いやった。それでも「え、ちょ、ちょっと!」と喚きながら抵抗する新八のケツを最後は思い切り蹴飛ばした。顔面から着地し、ケツを持ち上げた情けない格好の新八をそのままにピシャリと扉を閉めた。扉の向こう側から「も〜なんなんだよ〜!」と不満そうな声が聞こえたが、カンカンと響く鉄骨音が聞こえた事からそのまま階段を降りて買い物に向かったらしい。
一息つき、踵を返して電話に向き直ると妙に緊張した気がした。ゴクリと生唾を飲み込み、覚悟を決めたように受話器を耳に押し当てた。

「……あ〜、もしもし?銀さんですけどォ」
『もしもし?なんかすごい音したけど大丈夫?』

クスクスと笑う名前の声が電話越しに鼓膜を揺らす。妙に近く感じるそれに胸の辺りがざわつく。
「あ〜そりゃおめ〜あれだよ」と歯切れ悪くも必死に言い訳考える。「お前からの電話に驚いて足の小指をぶつけ、転倒した後にのたうち回っていました」とは口が裂けても言えない。適当に浮かんだ理由で神楽のせいにすれば『賑やかで楽しそうだね』と穏やかな声が返ってくる。クソなんだこれ調子狂うな。

「で、お前はいきなり何?電話なんかかけてきちゃって」
『あ、そうそう、銀さん今日暇?』

どくりと大きく脈を打つ。これはもしかしてもしかしなくてもデートのお誘いなんじゃねェか?そう思った瞬間ブワッと体温が上昇する。受話器を握る手からは汗が吹き出し、滑り落とさないよう握る手に力を込めた。

「な、なに?デートのお誘い?ずいぶん大胆じゃねェの」
『そうそう、デート。って言ってもいつもの店に飲みに行くだけなんだけど。銀さんも来れそうなら来てよ』

「待ってるから」そう付け足す名前の声が普段より弱々しく聞こえたような気がするのは電話越しのせいだろうか。
あっさり認められたデートというワードで俺の脳内で色々のことがすごい速さで駆け巡る。
四週間ぶりに会うっつったってどんな顔して会えばいいんだ。問題は四週間前の別れ際だ。そもそも好きだと告げられた女からのデートの誘いだぞ?正直言って気まずい。返事とか急かされたらと思うと正直気まずくて胃の辺りがムカムカする。そんな状態で酒なんか飲んだら確実に吐くね、普段の半分の量で吐くね俺。
それじゃなくても毎日のように脳内で考えてたと女と会う訳じゃん?んなの普通に考えてドキドキするじゃん?いや別に好きとかじゃないけど。挙動不審になる自信あるね。とあるキャバ嬢を前にしたどっかのゴリラみたいにソワソワする自信あるね。いや別に好きとかじゃないけどォ!
………………よし決めた。今回は断ろう。名前には悪いがここで会っても変に期待させるだけだ。そんな思わせぶりな態度、侍のする事じゃねェしな。うん。そうだ、それが一番いい。

「あーそのー……悪いんだけど銀さん今金欠でェ……」
『そっか、それは残念』
「いやそんな、奢ってでも来て欲しいって………………え?」
『また気が向いたら連絡するわ。それじゃ』
「え、や、ちょ、ちょ、待てよ!」

やばい。あまりに名前があっさり引き下がるもんだから勢い余ってキム○クみたいな引き止め方しちまった。やっべ、意識してるとか思われたらどうしよう。はっず!

『何?どうしたの?』

勢いで引き留めた手前、何かを言わなければ。そう思っても口から出るのは「あ〜」とか「え〜」とか曖昧な言葉ばかりで、痺れを切らした名前が『用ないならもう切るよ』と言葉を紡ぐ。
……まず冷静になるんだ俺。大前提、名前は俺の事が好きなんだ。そんな女が電話してきたという事はそれはもう並々ならぬ勇気を振り絞ってかけてきたに違いない。そしてその誘いを断られ、今名前は恥ずかしさのあまり早急に電話を切りたがっている。やたらそっけないのはそのせいだ。うん、そうだ。そうに違いない。
そんな健気な乙女心を無下にするなんて、それこそ侍のすることじゃない。さっきの思わせぶり云々はアレだ、間違いだ。人間誰しも間違いはあるもんだろ。いや別に俺が会いたいとかじゃないからね、乙女心無碍にするのが憚られるだけだからね、いやほんとマジで。
さァ腹を括れ坂田銀時。ここで俺が名前の気持ちを汲んでやらなければ誰が汲んでやれると言うんだ。気まずさがなんだ、そんなもん酒と一緒に飲み込んじまえばいい。会った時の事なんか会ってから考えろ。

「……あ、あー!そ、そういえば昨日臨時収入あったんだったわ〜!明日はたまたま仕事も入ってねーしィ?いやほんとここ最近忙しかったんだけどたまたまね、たまたま。そろそろジジイの飯でも食いに行こうと思ってたところにお誘いとか?超グッドタイミング的な?」
『そうなんだ、奇遇だね』
「そ、そう!奇遇、ほんと奇遇!だから行ってやらないこともないかな〜……つって……」
『わかった。じゃあお店で先に飲んで待ってるね。それじゃ後で』

ガチャン プツン ツーツー……

オイィィィィ!!なんで俺の方が必死になってんの?!なんで俺の方が飯行きたいみたいになってんのコレェ!!アッレおかしくない?!アイツ俺の事好きなんだよね!?好きって言ってたよねェ?!もうご無沙汰すぎて男女の駆け引きとかわかんねェっつってんじゃんよォォォ!!これだから女の好きとか可愛いは信用ならねェんだよォォォ!!

「………………銀ちゃん、何やってるネ」
「……ぶ、ブレイクダンスの練習……」



***



居酒屋の看板を目の前にしただけでこれほど緊張することがあっただろうか。いやない。あるわけない。
店の前でラスボス戦に挑む前の気持ちで佇むこと約数分。第一声を考えて来なかった事を後悔した。けれどいつまでも店の前でモタモタしてるわけにも行かない。とりあえず深呼吸しよう、と大きく息を吸い込んだその時。

「あ、銀さん」

先程電話越しに聞いたばかりの声が背後からかかり、肩が大きく揺れた。振り返ると「久しぶり」と手を挙げる名前がこちらに向かって歩いてくる。一気に心拍数が上昇した。中にいると思っていたのに後ろにいるとか心の準備ができてないんですけどォ!

「早かったね」
「あ、あぁ、まァ…家に居ても暇なだけだしな」
「それじゃあ今日はいつもよりいっぱい飲めるね」

俺の横に並び、そう言う名前を横目で見ると嬉しそうに笑顔をこちらに向けていた。グッと喉の奥で息が詰まる。なんなんだよこの胸のざわめきは。動揺してるのを悟られぬよう視線を逸らすと、誤魔化すように頬を掻いた。
名前はそんな俺を気にする様子もなくガラガラと店の扉を開けた。時間帯が早いせいか、店内の客はまばらだった。初めて会った時と同じ席に名前が座り、俺もその隣に腰を下ろす。

「それじゃとりあえず、乾杯」
「…おう」

一杯目の酒がくるとお互いのグラスを合わせ、カチンと硝子のぶつかる小気味いい音がした。俺には試合開始のゴングに聞こえた。
けれど、どれだけ食って飲んで喋っても名前の様子は以前となんら変わらず、いつもの調子で会社の上司の愚痴や後輩の世話話をしていた。俺も俺で途中から身構えていた自分が阿呆らしくなり、気づいたらいつもの調子で名前の注文した品を盗み食いしつつ、ガキ共の愚痴や金をせびった。
気まずささえなくなってしまえば酒を酌み交わす時間が過ぎるのなんかあっという間だった。名前の酌するタイミングの良さも合間って俺は完全に上機嫌になっていて、四週間前の出来事なんか頭からすっぽり抜け落ちていた。

「んでよォ、まーた玄関壊されて」
「あはは、また?銀さん家の玄関何回壊されれば気が済むの?」
「バッカ、お前笑い事じゃねーんだよ。こちとら生きていくだけで精一杯だっつーのに家賃プラス修理費なんてふざけてんのかあのババア。壊したのはテメーだっつーの」
「元はと言えば家賃払ってない銀さんが悪いんじゃん」
「やりすぎなんだよ。もっとやり方ってもんがあんだろーが」

数日前の家賃取り立てに来たババアの愚痴を零しつつ、お猪口に入っていた酒をクイっと呷った。するとすかさず酒を注いでくる。その間、名前のお猪口の中を見ると空っぽで、交代するように今度は俺が酒を注いだ。
「ありがと」と短く礼を言うと名前は注がれたばかりの酒を一気に呷り、ぷはぁと満足そうに息を吐いた。その顔は幸せに満ち溢れていてほんとこいつどんだけ酒好きなのと思いながらその横顔を頬杖をつきながら眺めた。

「ほんとにお前はうまそうに酒飲むねェ」
「だって実際美味しいし」
「いや俺だってうめェよ?うめェんだけど、お前の飲みっぷり見てると本当に俺と同じもん飲んでる?って気になんだよ」
「……フッフッフ、さすが銀さん。察しがいいですな」
「いや急に何……?怖いんだけど?お前やっぱなんか変な薬盛ってんの?」
「盛ってねーわ。そんな小細工しなくてももっと簡単にお酒を美味しくする方法があるんだな〜コレが」
「マジでか。お前銀さんに内緒で何ひとりで美味しく酒飲んでんの?共有しろよそういうの」
「まあ本当は社外秘なんだけどね、銀さんには特別に教えてあげる」
「社外秘なの?お前の会社が発案した飲み方なの?」

「実は……」と口に手を添えヒソヒソ話をしようとする名前に、「え?何?本当に社外秘?」とこぼしながら体を傾けた。耳元で息を吸う音がして擽ったさに身震いしそうになる。

「好きな人にお酌してもらうの」

一瞬、なんの話か理解できなかった。
けれど脳が意味を理解してしまえば体に異常が出るのなんて直ぐで、心臓は痛いくらいに脈を打つし、顔は熱湯をかけられたみたいに熱かった。耳元で聞こえた息や声を思い出すだけで、何かいけないことをした気になって居た堪れなくなる。
勢い良く名前から距離を取り、睨むように顔を見ると俺とは打って変わって機嫌の良さそうな顔と目があった。

「顔、真っ赤」
「なんなの?!お前マジでなんなの?!俺をどうしたいの?!」
「銀さんって意外と照れ屋だよね〜」
「だからなんでオメーはそんな落ち着きはらってんだよ!やっぱ揶揄われてる?!揶揄われてんのコレェェェ?!」
「油断してる銀さんが悪いんだよ」

羞恥心に耐えられず、両手で顔を覆い隠すように俯いた。燃えてるんじゃないかと思うほどに覆った顔も触れた手も熱い。けれど隣の女は気にする様子もなく相変わらずの口調で喋り続ける。

「残念だけど銀さん」

声と共に名前の動く気配がして指と指の間から盗み見るように様子を伺うと、財布から金を出している所で、四週間前と光景が重なった。

「忘れていいのは一回目だけだから」

ひとり分にしては多い金額をカウンターに置くと、名前は何食わぬ顔で席を立つ。その声色は誰が聞いても上機嫌で、俺はまんまと名前の策略にハメられたのだと気付いた。

「それじゃまたね、銀さん」

その言葉を最後に名前の足音が離れていく。ガラガラと開いた扉がピシャリと音を立てて閉まる。それでも暫くの間、俺の顔から熱が引くことはなかった。

「……マジかよあの女」

またいい逃げしやがった。