失恋上等
「銀八ってどれくらい目悪いの」
そう言いながら国語準備室のデスクに向かう視線に無理矢理入り込む様に顔を覗き込んだ。
珍しく小難しい顔をして小テストの採点に励むその姿を見ているのも、なんだか独り占めしているようで気分が良かった。けれどそれが数十分も続くと飽きてしまう訳で。要するに私は銀八の邪魔がしたかった。長い間下を向いていた銀八の視線が上がると、ゆっくり私を捉えた。
「近い」
「ぐえ」
あまりにも近い距離に銀八は容赦なく私の顔を鷲掴みにすると、元の位置まで頭を押し戻した。レディの顔になんて事するんだ。大人っぽく思われたくてせっかく化粧して来たと言うのに、変な声まで出たし。台無しだ。
「てかお前はなんでここにいんの?授業中だろーが」
「体調不良」
「なら保健室行け、ここはお前の暇潰しの為の教室じゃねェぞ」
「硬いこと言わない。それに先生は生徒の質問には答えるべきだと思うんだけど?」
「先生のこと呼び捨てにするクソガキを俺は生徒と看做しませーん」
出ていけと言うように銀八は手でしっしと私を追い払う。
相手にされてないのは分かっていた。そんなの今に始まったことじゃない。だからこんな事でめげる訳も無ければ、授業へ戻るつもりも毛頭なかった。
相手にするのも面倒な不真面目な生徒。銀八にとって私なんかそんなもんだろう。ただでさえ生徒の私が教師である銀八の恋愛対象に入る事など奇跡に等しい。そして奇跡はそうそう起こらない。叶わぬ恋だと分かっているからこそ私は今を満喫する。後悔なんか真っ平御免だ。命短し恋せよ乙女というし。
それでも少しでいいから私を見て欲しいと思うのも事実。だから一瞬でもいいから銀八の気を引きたくて、私はちょっかいを出し続ける。
ペケだらけの桂の答案を採点する銀八の顔へゆっくり手を忍ばせ、隙をついて銀八の眼鏡を奪い取った。「あ」なんて間抜けな声を上げる銀八に口元が緩んだ。ざまあみろ。
「おいコラ返せ」
「ねぇこれいくつに見える?」
「3だろ、ボヤけててもある程度は見えんだよ。いいから返せ」
「2だけど」
身長差があるとはいえ、椅子に座る銀八とデスクに寄りかかる私では私の方がリーチが長かった。伸びてくる手をヒョイとかわし、反対の手で数字を作って見せる。
ぼやける視界を必死に捉えようとしている銀八の眉間は皺が寄っていて、レアな顔が見れてラッキーとすら思った。
「本当に目悪いんだ」
「何がしたいんだよお前、いいから返」
「じゃあさ」
「人の話聞けやコラ」
青筋を浮かべる銀八を気にも止めず、デスクに手を付いて顔を近づけた。さっきと比べれば随分と遠い距離だけど、ただの教師と生徒にしては近すぎる程の距離。
「私が今どんな顔してるかわかる?」
「は?んなもん知るかよ」
「近付くから見えたら言ってよ」
そう言ってぐい、と距離を縮めた。相変わらず銀八の眉間の皺はとれない。
「こんくらい?」
さらに距離を縮める。私には銀八の瞳の中に写る自分の姿だって、銀八のまつ毛の生え際だってなんだって見えるのに、銀八にはまだ私が見えない。いつになったら私は貴方の目に写る事ができるの、なんてね。
「ねえ、見え───」
そう言ってさらに距離を縮めようとした時、意識が疎かになってた手元から銀八の眼鏡が奪われた。「あ」なんて間抜けな声をあげたのは今度は私の方。
「はい残念でした〜。邪魔すんならとっとと帰れマセガキ」
眼鏡をかけ直すとあっという間にテストに戻る視線。「ちぇ」と悪態を吐くものの帰ろうとは思わなかった。
あとちょっとだったなあ。けれどそのあとちょっとが遠い。物理的距離が近づいたってなんの意味もない。なんで私は生徒なんだろう。そんな事考えたって仕方ないのに、視線が下がる。俯いて、落ち込んでいるのがバレて子供扱いされるのが嫌で、誤魔化す様に意味もなく爪を眺めた。
「知ってっか?俺は近視だけじゃなく乱視も悪ィんだよ」
「それ普通に目が悪い人とどう違うの?」
「普通よりもっと目が悪ィって意味」
教師とは思えない雑な説明だなと思いながらも別に近視と乱視の違いなんかどうでも良かったから「ふうん」と興味なさげに生返事をした。けれど続く銀八の「だから」の声で話には続きがあるのだと思い、視線を銀八に向けようと思ったその時、突然後頭部をぐいと引き寄せられる。うわ、と声を出して回転した視界が定まると焦点が合わないほど近くに銀八の顔。今度は髪の毛、せっかく可愛くしたのになんて考える暇もなく。
「こんくらい近付かないと見えねェの」
私は近すぎて見えないと思ったのにここまで近づかないと見えないなんて、人間の視力は不思議だ。
今、銀八には私がさっき見ていたまつ毛の生え際とか、瞳に映った自身の姿とかが見えているのかと思うと、どうしようもなく擽ったい気持ちになった。
鼻と鼻が触れそうな程近い距離。あと少しで一線を越えられる。越えた先には何があるだろうと考えるが早いか動くのが早いか、あと数センチの唇の距離をゼロにするべく私は重心を前へ倒した。
けれど私の思惑は敵わず、後頭部に回っていたはずの銀八の手が私の顔面をまた掴んだ。「ぐえ」と2度目の変な声。だから化粧が台無しなんだってば。
「何しようとしてんだお前」
「生徒揶揄うとか最低」
「大人揶揄ってんのはお前の方だろ」
「別に揶揄ってないし」
「あ、そ」
タイミングが良いか悪いか、キンコンカンコンと授業終了のチャイムが鳴った。まるで夢から現実に引き戻された気分だ。
銀八は採点途中のテストをトントンと纏めると、横に置いてあった教材を手に席を立つ。次の時間は授業があるらしい。どこのクラスかわからない生徒達を羨んだ。もう少し一緒にいれば何か変わったかもしれないのに。
「生憎俺ァ生徒に手出す趣味はねーよ」
「やっぱり揶揄われたの私じゃん」
「どーだか。3年後の自分に聞いてみな」
意味を噛み砕き、飲み込んだ瞬間勢いよく顔を上げた。教室を出る直前の銀八に「それってどういう意味」と叫ぶ様に問いかけた。
片足一本、廊下に出た銀八がギリギリ立ち止まり、振り返る。きっと今、彼の瞳に私は写っている。
「意味がわからねェなら精々勉強するこった」
ガラガラと音を立て教室の扉が閉まる。
3年、3年、と何度も頭の中で繰り返す。その頃の私は成人していて、そしたら相手にしてやらない事もないって意味と思っても良いのだろうか。
学生の私にとって3年なんて遠い未来。銀八はそれだけの時間が経てば私が諦めるとでも思っているのかもしれない。もしそうだとしたら相手が悪かったと言わせてやろう。生憎私は諦めが悪い。これで3年後に銀八か結婚でもしてたら生徒たぶらかしたクソ教師として訴えてやる。
「よぉっしゃー!俄然やる気出てきたー!」なんて叫ぶ私の声は、休み時間中の学校の雑音に紛れて消えた。覚悟しとけよクソ教師。