生暖かい風。そこにほんのり混じる冷気、秋の訪れ。
過ぎていく季節というのはどうしてこう、寂しい気持ちにさせるのだろう。全盛期は鬱陶しいくらい主張してくるくせに、去り際はなんとも素っ気ない。
  こういう、季節の変わり目、私は名残と、出会いを肌で感じながら、当てもなくぶらつく。近所の川沿いを歩いてみたり、遠く知らない場所まで彷徨ってみたり。
  今は黄昏時。まさしくそんな、黄昏たくなるような茜色の景色。センチメンタルな気分にノスタルジーがプラスされるような、不思議な高揚があった。
気がつくと、目の前に真っ赤に染まる海が広がっていた。夕焼けが海面を照らしてきらきら光っている。川沿いの末端まで来ていたらしい。
ーーー海、見に行こうよ
海、初めて見たのはいつだっけ。
ーーー早く、はやく
  ぼんやりとそんなことを思いながら、それでも私は、かじりつくように眺めていた。
  すると背後から、風に乗って耳に届く音楽があった。ふと、どこかで聞いたことがあるような、懐かしいメロディが記憶の底を掠めたような、そんな気がした。振り返ると、真っ直ぐに伸びる細い路地。何となく引き寄せられるようにそこらを数分うろついていると、古びた喫茶店を発見した。ひっそりと、両隣の店の隙間に隠れるようにしてあるその店内では、確かにあの音楽が流れていたのだけれど。
  はて、どういうことだろう?
顎に手を当て小首を傾げ、店の前で仁王立ちしてみる。
この微かに洩れる音を聞き取った
果たして名探偵のような推理はできそうにもない、潔く諦めて、私はさっさと開店のベルを鳴らした。
  アンティーク調で揃えられた、ひと昔前のテーブルセット。鼻をくすぐるコーヒーの香りとほんのりタバコの匂い。
  店内は閑散としていた。常連らしきおじさんがちらほらいるものの、何杯目か分からないコーヒーで入り浸っているような、怠惰な雰囲気が漂ってる。それを横目に見ながら、私は適当に彼らにならってホットコーヒーを頼んだ。ーーその時、違和感に気づいた。
ふと顔を上げたとき、視界の端に映った黒い影。異質な雰囲気。
  その違和感を、私が視認し、理解したときにはもう、それは目の前に来ていた。
「ナマエ、久しぶり」
「………クロロ」
  男はにこやかに片手を上げて、あたかもそれが自然なことのように向かいの席に着いた。
  これは一体、何という偶然かしら。郷愁に浸っていたから?懐かしの旋律に誘われたから?必然とも呼ぶべき偶然、同郷の男に再会するとは。
「猫舌はもう克服したのか?」
  目が合うと、男はからかうように口角を上げて言った。未だ驚きから目も口も開けたままの私はうんともすんとも答えない。それに焦れた様子もなく、男ーークロロは、自分も同じものを、と滑らかに注文した。
その一連の流れを呆けた顔で見守っていたのだが、そろそろ立ち直らねば、一方的な再会ムードにいよいよ付いて行けない。
「あ、えっと……、久しぶり」
「どうしてここに、って顔だな。なに、偶々だよ。海沿いを歩いていたら、ここに行き着いたってわけさ」
カップを傾けながら上目遣いにこちらを見やる。
クロロがあんまり平然とお喋りするものだから、パクパク慌てる自分がバカみたいだ
  私とクロロ、二人の間。窓から差し込む光の柱。ちらちら舞い散る埃たち。
でも、そうか、今は黄昏だもの。全然何にも、おかしくない。
「そう…そうなの。私は川沿いを伝ってここへ来たわ」
「へえ?それはまた。ああ確かここは、水の都と呼ばれているらしいね」
「ええ、そうよ。小さな街だけど、たくさん運河が流れてる。街並みもとっても綺麗なの。ねえ、クロロ、あなたにも見てほしいわ」
途端に饒舌になった私を見てクロロが笑う。
「そう。じゃあ、案内してくれるかい、お嬢さん」


  西に傾いた日が、私とクロロの足元にのっぽな影を作る。石畳みの道に赤とオレンジのれんが造りの家。それが、川沿いに永遠と続く通りを二人で歩いていた。
  私の中のクロロは灰色と、黒と、ほんの少しの赤(赤?)でできていた。だから何だか、夕日に染まる彼が不思議な光景に感じるのだけど。
ーーー海って、あかいの?
あの灰色の街。私とクロロの故郷。けれど唯一色を持った記憶、赤の、何だっけ?
ーーー違う、あれは夕日を反射してるんだよ
「ナマエ、お前は、変わったな」
「…え?」
不意に、クロロが言った。歩き始めてろくすっぽ会話もしていなかったから、驚いた。
「変わった…私が?」
おうむ返しに聞けば、無言の肯定。クロロがどういう意図で言っているのか、分からない。
「それは、何年も会ってなかったんだもの、変わらずにいる事なんて、できやしないわ。例えば、そうね、とっても熱いコーヒーをゴクゴク飲めるようになった、とかね」
よく分からないままに、得意げに答えれば、クロロは予想外だ、とでもいうように少し目を見開いてみせた。芝居がかっているけれど、何だか楽しそうにしているから、いいや。
「そう…それはきっと、いや、確かに大きな変化だ」
「でしょう?でも、クロロ、変わってない事だってもちろんあるのよ」
「へえ、それは、是非聞かせてほしいね」
「ええ、例えば、…例えば、、」
  言いながら、思考が渦のようにぐるぐる、とぐろを巻き始めた。自分で言い出してはみたものの、
ハテナ、私は一体あの時から、何を変わらずに持ち続けていたかしら。
  例えば、どうなんだとクロロの目が訴える。どうせ口だけだろう?という、空耳まで。
  いいえ、いいえクロロ、ちゃんとあるの。でも、上手く言葉に出来ないのよ。
正しい答えを出さないと、クロロがどこかへ行ってしまうような気がして、私はうんうん唸って必死に考えた。今度は逆回りにぐるぐる、
ーーーまた、見に行こう?
回り始めた思考の中で、
ーーーふたりで
いつかの赤がちらついた。ーーと同時に、
突き刺すような光が視界いっぱいに広がる。びっくりして、目を細めてそちらを見やると、建物の隙間から覗く、茜色。
「ああ、いつのまにか、一周してしまったようだね」
隣で呟くクロロの声に、まだあどけない少年の声が重なった。


  そこにたどり着く頃には、日はすっかり落ちてしまっていた。
  初めて見たとき、太陽は、海の底に沈んでしまったのだと本気で考えた。けれど私は悲しくも、寂しくもなかった。
あの時の私はクロロが一番で、二番目に海、その次が太陽。だから海が枯れたって、太陽が燃え尽きたって、どうでも良かった。
「ねえクロロ、あなたがここへ来たこと、きっと偶然なんかじゃないわ」
潮の香りが風に乗って運ばれる。クロロは少し目を細めた。
「…何故?」
「私、今やっと思い出したのだけど…、ああ、いえ、忘れてたんじゃないの。大切な思い出って、大事に大事にしまっておくじゃない」
「………」
「ねえ、だから、クロロ。私とあなた、ずうっと昔にもここへ来たことがある。…そうでしょう?」
私はまるで、秘め事を打ち明けるかのように、そうっと問いかけた。
ちっぽけな宝石箱から零れ落ちないように、恭しく。
そこに仕舞われているのはきっと、黄昏時の約束みたいに不確かで、繊細で、儚いもの。
クロロは少し目を伏せて、静かに口を開いた。
「俺にも、何か変わらないものがあるんじゃないかと、ふと確かめたくなったんだ」
さらさら、クロロと私の髪が、揺れた。
「……」
「ここへ来たのは、そうだな、必然だったのかもしれない」
「…確かめて、それで、どうだったの」
クロロは何も答えなかった。
何も答えず、ただそっと、私の頬に触れた。
その手があんまり冷たくって、私は無性に泣きたくなった。
「クロロ、ねぇ、ーー」
「温かいな、ナマエは」
「……」
「俺には少し、温かすぎる」

約束よ?
うん、約束
灰色の街を抜け出して、私の手を引くクロロ。小さくて、柔らかくて、あったかい。黄昏に揺れるその背中を、私は必死で追いかけた。

クロロ、あなたちっとも分かってない。
変わってしまったことなんて、路傍の石っころくらいどうでもいいことなのに、どうしてそんなに寂しそう約束を覚えててくれたことが、私には泣くほど嬉しかった
音もなく、クロロは夜の闇に消えた。
冷たい風が茜色の記憶を攫っていく。
あの日の少年は、もういない。

ないものねだり