恒星のきまぐれ


季節外れの寒さを感じて、私は通勤に未だマフラーを手離せないでいた。4月には桜が満開に咲くはずの並木道にも、未だその予感は乏しい。春休み真っ只中の今日、この道を歩くのは私だけで、普段の喧騒が無いのがやけに物悲しい。早く日常に浸かりたくて足早に坂を通り過ぎると、今日おろしたばかりのプリーツチュールは騒々しく足元でたなびいた。

「おはようございまーす」
「はい、おはよう」

いつものガヤガヤとした雰囲気が無く、かつ挨拶には聞き慣れない声が返ってきたので驚いて顔を上げる。この時間には大体先生方も揃っていて、私の出勤順はどちらかといえば後の方なのだが、視界に入ったのはがらんとした職員室と相澤先生だった。

「あれ?今日、皆さん遅いですね...?」
「今日は職員も自由出勤日だろ。プリントも配られてた筈だが」
「あ、あー....そうで、した...」
「まぁ折角来たんだから仕事してけ」
「はい....」

相澤先生の鋭い視線と皮肉に肩を落としながら、コートをハンガーにかけて自分のデスクに腰掛ける。こんな風にプロヒーローと話をしてはいるが、私は昨年の冬に雄英高校に転職した、平凡そのものの事務員だ。
最初その求人を見つけた時は、『プロヒーローのサポートをするのは君だ!』なんていうちょっと響きの良い文句と、雄英という知名度にミーハー心をくすぐられ、記念受験みたいなつもりで応募を決めた。しかし気がつけばあれよあれよという間に面接は進み、最終面接ではあの有名な18禁ヒーローミッドナイトに「貴方、いつから来れるの?」なんてウィンクされてしまっては、普通の人間はイエス以外の返事はできないだろう。かくして名門雄英高校に転職した私は、入社からこの1年間、2年生を担任していたミッドナイト先生の事務処理サポートとして、事務員の仕事をこなしていた。




*



「相澤先生コーヒーいります?」
「ああ、ありがとう」

仕事の区切りがついたのは出勤時間から2時間程ついた頃だった。時計を見ると10時を過ぎていて、気分転換にコーヒーでも淹れようと相澤先生に声をかけると、思ったよりも優しい声色が返ってきて少し驚いてしまう。ヒーローという職業柄もあり、悪い人では絶対に無いと思うのだが、私は少しだけ相澤先生が苦手だった。
というのも入社当初からミッドナイト先生のサポートというのは決まっていたので業務であまり関わることは無かったし、何より他の先生方が随分フレンドリーなのに対して少しぶっきらぼうなきらいのある人なので、どうしても平凡な一般人としてはハードルが高いのだ。

「ミルクとお砂糖いりますか?」
「いや大丈夫だ」
「じゃぁ、どうぞ」
「ありがとう」

コーヒーを相澤先生の机に置くと、それきり未だ私と相澤先生しか居ない職員室はしんと静まり返る。何もお喋りをしに来たのではないのだからこれが正しいのかもしれないが、気まずいものは気まずい。これがミッドナイト先生やプレゼントマイク先生だったなら、お茶菓子でも出して小休止する場面だったろう。どちらか片方でも出勤してくれていれば、としょうもないことを考えたところでそそくさと自分の席へ戻ろうとすると、そういえば、と口を開いた相澤先生の言葉に私は思わず振り返った。

「ミッドナイト先生からの引き継ぎ、まだ来てないんだが何か聞いてないか?」

引き継ぎ、とは。私はミッドナイト先生から来年は3年生だから、より事務手続きも多くなるし宜しくね!なんて昨年の冬に言われたぐらいで、それ以上業務に関しては聞いていない。「引き継ぎって、なんの引き継ぎですか?」と返せば、更なる疑問が返ってきた。

「何って、来学期からのだろ」
「え?ミッドナイト先生ってそのままのクラスで3年生受け持ちですよね?」

小指がぴくりと跳ねる。

「感六野さん、何も聞いて無いのか」

嫌な予感がする。

「何の話ですか」

私の予感は当たる。


「君来学期から1年のサポートに移動。1年A組。担任は俺。はいどうぞよろしく」
「え」
「俺のサポートじゃ不服か?」
「そそそんな滅相も無いです!!!」

何が、一体どうして。
不服か?なんてまるで敵のようなセリフを口にした後に手を差し出したのは、全身を黒で覆い尽くした小汚いヒーロー。訳も分からないまま手を差し出したこの時、また無意識に力を込めた右手の小指は、もうすでにこの先を予感していたのかもしれない。


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