揺らめく陰影


ミッドナイト先生の『ごめーん忙しくてその話するの忘れてた!聞いたまんまだから感六野ちゃん来年度からイレイザーのことよろしくねっ!』というなんとも軽い報告から相澤先生との業務が始まった。とは言ってもヒーロー活動との兼任であることに変わりはなく、また授業も始まっていなかったので、顔を合わせるのは週に2.3度だったのだが。それでも当初持っていた印象よりも随分とやわらかいものに変わったお陰で、引き継ぎを言い渡された時の心配なんていうのは何処吹く風になっていた。そして今日はいよいよ入学式だ。

入学式は事務員にも席が与えられており、毎年受け持ちの先生方の席の後ろが私たちの席になっているのだけれど、私の前の席は式が始まった今も空席のままだった。やっぱり今年もなのか、とぼんやりと考える。昨年の入学式では不自然に抜けた新入生の座席の塊に酷く驚いたものだが、二度目ともなれば人間慣れる。もはや影の雄英名物と言っても過言ではないんじゃないだろうか。私は未だ見ぬ1年A組の生徒達に『どうか君達に会えますように』と憐れみを添えて祈ったのだった。






入学式とガイダンスを終えて、今日は通常であれば半日で終わるカリキュラムだった為、定時が過ぎる頃には皆さん帰っていった。今日渡す筈だったガイダンス用の資料を眺めながら少し経った頃、いつもの気怠げな面持ちで職員室に帰ってきた相澤先生は、心なしか機嫌が良いようだった。

「これ体力測定テストの結果だから、まとめといてくれ」
「分かりました。...ん?20名分ですか?」
「そうだよ」
「今年誰も除籍にしなかったんですか!」
「なんだ知ってたのか」

知ってたも何も、昨年の今日は職員室中そのことで大騒ぎでしたからね!という言葉をぐぐっと飲み込んで、私は相澤先生に渡された資料を受け取る。もう定時は過ぎていたけれど、相澤先生が帰ってくるまでは様子を見ようと残っていた自分の判断にガッツポーズして、「明日でいいぞ」と言われながらも私はパソコンと向き合った。今日のことは今日のうちにがモットーなのでと返すと、相澤先生はそれ以上何も言わなかった。

「私、今年1年生には誰にも会えなかったらどうしようって思ってました」
「したくて除籍にしてるみたいな口振りだな」
「そんなことは無いですけど。ほら、相澤先生には実績があるじゃないですか」
「叶わないのに半端な夢を負わせること程、残酷なもんは無いだろ」
「まぁ、確かに」

幾ばくか経った頃、私が気まぐれに放った言葉に付き合って相澤先生は回答をくれる。引き継ぎから行われてからの約1ヶ月で分かったことは、相澤先生は思っていた程怖い人では無いということ。感情論より効率重視なのは間違いないが、そこには優しさが無い訳ではない。そして冗談にもある程度は返してくれるし、先程のように帰る時間の気遣いもしてくれる。ミッドナイト先生と自由にやり過ぎていた節があったので最初は心配でしょうがなかったが、今の環境も私には勿体無いぐらい良い環境であることには変わりなかった。

「もうそろそろ帰れるか?」
「もしかして待たせちゃってますか?私も後ちょっとなので、相澤先生帰れるなら帰って下さいね」

パソコンの画面から視線を逸らさずに返事を返すと、今日一番に不機嫌そうな溜息が耳に入って、咄嗟に顔を上げる。この約1ヶ月で分かったことがもう一つ。この溜息は私のミスを見つけたり、何かえらく気にくわないことがあったり、とにかくそういう類の、小心者の私には心臓に悪いものだということだった。

「.....一応君も女性なんだから、夜道ってことにちょっとは気を使え。それから定時で帰らなかったのは俺を待ってたせいだろ」
「は、はい」
「俺は自分が渡した仕事押し付けて帰る程薄情じゃないんでね」
「....はい、すみません」

分かったら早めに帰らせてくれると有難い。そう続けて私に缶コーヒーを渡した相澤先生は、そのまま黄色い寝袋にすっぽりと収まって、数分後にはスースーと寝息まで立て始めた。ちょっとこれは、考えていたのとは違う意味で心臓に悪い。相澤先生ってこんなにさらっと女性扱いができてしまう人だったのか、と失礼なことを考えた。こんなご褒美を貰ってしまったら先生が起きるまでに是が非でも仕事を終わらせなければと、どくどくと煩い心臓の音を無視しながら私はパソコンに向かい直した。


女性の前に『一応』という単語を付けられたことに気付いたのは、我が家のドアノブを回す頃だった。





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