愛は呪いなのだ
原作未来、捏造まみれ
数ヶ月前に入院したばかりの女性は酷く窶れていて、美しい青色は何も映していない。硝子玉のようだ、と漏らした同期はここ数日、姿を見ていないけれどどうなったのだろうか。彼女に関わり過ぎてはいけない、それでも彼女に傷を残してはいけない。そんな風に言われてから私たちも随分と気を張る日々が続いていて、いつのまにかあの病室には殆どの人間が近寄らなくなっていた。
「不気味ね」「また誰かに話しかけているわ」「気をやってしまったのね」「引き取り手がいないと聞いたわ」
そんな噂が飛び交って、それでも彼女はなにも言わない。否、なにも聞いていない。彼女の瞳は誰も映さず、そして誰の声も彼女の鼓膜を揺らす事は出来ない。それをまた不気味だと言う人間が現れては消えていく。
「愛染さん、今日は天気が良いですよ。」
「……。」
「朝食は食べられませんでしたか。食べられそうな物はありますか?果物でも良いのですが。」
「……。」
彼女は私の言葉に視線の一つも寄越さない。飲まず食わず眠らずを続けた彼女の腕につい先日まで繋がれていた点滴は、発作を起こした彼女が己の体に針を刺し続けたことが原因で外された。せめて果実の一つでも、とは思うのだがテーブルに置かれたトレーは何一つ手が付けられていないままだ。
美しい人だっただろう、と思う。毛先がくるんと丸まった艶のある髪や、白い肌、白と黒に映える青い瞳。長い手足に均一の取れた体。さぞ異性の目を奪ったであろう彼女は、今は痩せ細りその瞳は、美しい硝子玉のよう。
「……きょうは、」
「愛染さん?」
「てんきがいいから、めがいたいかもしれない。」
ぽつり、と漏れた言葉。久しく聞いていなかった、誰かに語りかける為の音だ。僅かに開いた窓から入る風がカーテンを揺らして、彼女の髪が揺れる。数日前ならきっと、靡いて綺麗だったろうに。彼女の髪は今はザクザクと乱暴に切られて、ちぐはぐな長さだ。切り揃えるにも刃物を見せれば奪い取られて彼女の体に傷が残る事を考えればどうすることも出来ない。
「たまには、ふたりで、」
そこで言葉は途切れる。彼女の瞳孔が揺れ、まずいと思った瞬間にはもう手遅れで悲鳴のような声と食器が床に散らばる音が病室に響いた。抑えつける為に伸ばした腕は弾かれ、そうして虚空が此方を見据える。
「こないで、かえして、わたしの、わたしの、」
音を聞いて慌ててやって来た医師が鎮静剤を打って、そうして彼女はまた意識を手放す。栄養を摂取させる為にも点滴を繋いで…どんどん起きていられる時間が少なくなる。発作は夜にだけだったのに。はたき落とされた手を見つめていると、同僚が駆け寄って来て安否を問うてくる。私の安否じゃなく、彼女の安否を確認するべきなのに。
彼女は呪術師だったという。私も詳しい事はわからないけれど、その中でも弱い人間ではなかったと。見舞いに来る人間たちはいつも真っ黒な服を着ていて、そうして彼女の姿を見ると眉根を寄せて唇を噛んだ。大事にされていたと、一目でわかる。一人の女の子は彼女を見て泣き出した。ある男の子は謝罪を繰り返した。そして、気の弱そうな男性が、酷く後悔したような顔をしていた。
閉鎖的な世界で生きる彼女に何人もが何度も顔を見せに来たけれど、彼女は誰一人としてその瞳に映さなかった。否、受け入れなかった。それでもたった一人、彼女が掴みかかった人間が居る。男の子だった。彼は彼女のされるがまま、静かにその声を聞いていた。
「あいたい、ひとりはいやだ」
そう言って、彼女は崩れ落ちた。こんなものは防衛本能だ。記憶に留めておいたら壊れてしまうから、だから忘却する。それでもそれは確かに彼女の心を蝕み、少しずつ壊れていったのだろう。
「ひとりにしないで」
「わたしもつれていって」
そう言って自分の体に爪を立てる彼女を止めた時、不意に気が付いた事がある。彼女の首に掛かった、ネックレス。ちゃりん、と音を立てたそれにトップはなく、三つの指輪が揺らめいている。サイズは異なるものの、全て同じデザインのそれらがきっと彼女の心を蝕む要因の一つだろう。
最後まで彼女が誰かの名前を呼ぶ事は一度もなかった。
「愛染さん、紅茶が入りましたよ。」
起きた彼女に発作はなさそうで、胸を撫で下ろす。紅茶を差し出すと彼女の顔が少しだけ動いて、細い指がポットに伸びる。角砂糖を摘んで、そうして紅茶の中に沈めていく。胸焼けがしそうな、決して美味しいとは言えないであろうその砂糖まみれの紅茶を彼女は口に含む。これしか摂ってくれないのは頭が痛い案件ではある。紅茶を飲んだ彼女は朗らかに笑みを浮かべ、そうして口遊む。何年か前に流行った曲だったと思う。対して名も売れていない、既に忘れられかけているバンドの曲を愛おしいという顔で歌う。
「いい曲ですね。」
返事はない。それでも良い。彼女が心穏やかに過ごせるのであれば、あの砂糖みたいな紅茶も、流行遅れのバンドの曲だって何でも良いのだから。彼女の歌うその声が耳に心地良くて、私も目を伏せた。
「喜雨さんに、会えますか。」
呪術師という人たちが彼女に会えなくなってから暫くして、突然言われた。いつもはガラス越しに彼女の寝顔を見て帰っていくあの泣き崩れていたポニーテールの女の子だ。今日の彼女は比較的落ち着いている、と思う。朝も紅茶だけだが自分からとれたし、発作も起きていない。それでも…余り、良いとは言えない。
「刺激になるような事は…。」
「大丈夫です。」
ハッキリと言い放ったその子は、私が頷くと病室に入っていく。ベッドの背を起こして、座っている彼女の横に椅子を寄せて、腰を下ろす。
「元気してますか。」
「……。」
「私たちは相変わらずで、バカも…まだ。でも絶対取り返すから。」
「……。」
「喜雨さん、」
「………けいこ、」
「え?」
「あのひとがいってた、おんなのこのこうはいが、ぜんいんの、…じゅぐのあつかい、を……なまえ、」
「まき、真希です。」
「……そう、まき…けいこを、やくそくして、それで…それ、で、」
ふつり、と。その体から力が抜けたのが見えて飛び出すけれど女の子の方が早くて、抱き止めた。それから随分と痩せ細ってしまった体を抱き締めて、そうしてベッドへと寝転ばせる。薬を投与した時のような穏やかな寝顔に胸を撫で下ろすと、少女は深々と頭を下げた。
彼女は何を失ったのだろう。きっとあの指輪たちと、薬指に収まる随分と大きくなってしまったエンゲージリングが全てを物語っている気もする。たった四つの指輪が彼女をこの世に繋ぎ止めていることだけは、分かったけれど。
「いじわるをいうの。」
「え?」
「あのひとたちね、いじわるなのよ。」
初めてだった。彼女ははっきりと、私に向かって言葉を放つ。動揺のあまり持っていた彼女の食事を落としそうになったがなんとか留め、テーブルに置く。彼女はそんな私を気にしていないみたいに、言葉を紡ぐ。発作で叫び過ぎてしまった喉から漏れる声は枯れていたけど、それでも優しい声音をしている。
「おいていったくせに、おいかけたらだめなんだって。」
「……だめ、ですか。」
「いきてって。わたしだけ、ひとりぼっちにして、」
続いた言葉に発作を警戒したが、彼女は穏やかな顔をしたままだった。何がきっかけになったのか、ぐるぐると思考を巡らせていると彼女は興味が失せたみたいに私から目線を外してまた外を見た。今日は、嫌味なほどによく晴れている。
「つれていってほしかったなぁ、」
「それ、は、」
「だれもいないの。みんな、もうあえないの。」
予想はついていたけど、全員亡くなったのだろう。もう会えない、それでも、彼女にだけは生きていて欲しいと願ったのだろうか。それがどんなに酷な事だったのか、今の私たちには分かっても今から死にゆく人間にはそうは思えないだろう。連れて行ってあげれば良かったのに、なんて無責任な事を思う。依存する程に傍に居たのなら、一人になんてしてはいけなかったのに。彼女はうっすらと笑う。
「ぜんぶせんぶ、きらいよ。」
最後にそう言って、彼女はまたあの歌を口遊む。もう私の事は見えていないみたいだ。そして彼女が手を伸ばすのは、やっぱりあの砂糖水のような紅茶だけだった。
数日後、彼女は薬も飲んでいないのに全く起きてこなかった。まるで死んでしまったかのように、ぴくりとも動かず、それでも彼女の心臓は確かに鼓動を繰り返す。脳死という言葉が頭を過ぎる。この世の全てが耐えきれず、彼女の脳は生きる事を放棄してしまったのだろうか、と。だがどれだけの検査を試しても彼女の体は正常の一言に尽きたのだ。無論、長期間に渡る栄養失調や衰えた筋肉に関しては否めないが。そうではなく、彼女の体は生きることまでは放棄していないみたいだった。何故、と。そんな事を思った。何故彼女の愛した者たちはこんなにも彼女が生きる事を望むのか。こんな風に管に抱かれてまで、繋ぐべき命なのだろうかだなんて、看護師の風上にもおけない事を考えずにはいられない。
「愛染さん。」
最後に彼女の声を聞いたのは、あの日になってしまうではないか。きらいよ、と、そう言った彼女の言葉が頭の中でこだまする。
「生きる事は、難しいですか?」
答えなんてない。答えるはずもない。彼女は眠っているのだから。それでも迫り上がるこの気持ちを一人では抱えきれず、骨と皮ばかりになってしまった手を取った。
「貴女の想う人間は、貴女になにを言いましたか?」
故人の言葉は呪いだ。生き長らえる人間にとって、最後に残された言葉なんてものは愛でも何でもない。彼方がどういった感情から出る物であっても、受け取る側はそうあるべきだと言われてしまえば身動きの一つも取れない。呪いだ、縛り付けるだけの、押し付けだ。
「会いたい人には会えますか。」
私のこの言葉だって、届いてしまえば呪いだろう。私は彼女に生きて欲しい。このまま彼女が苦しみ続けるくらいならば全てを忘却し、彼女ではない何かになれればと思ってしまう。そんなものはエゴで、彼女が求めるなにかには成り得ないのに。それでも、それでも。
「愛染さんは、幸せですか。」
ぼろぼろと溢れる涙が酷く醜く思える。彼女の為だなんて言い訳でしかない。彼女の願いを私は知らないのだから。傷付いた心を、痛みを取り除く事が出来るのは彼女をこの世に縛る人間たちが吐いた呪いだというのに。彼女の本当の美しさを、私は知らないのに。
「喜雨さん!」
真っ黒な人たちが、部屋に雪崩れ込んで来た。みんな肩を上下させ、荒げた息のまま彼女の名前を呼ぶ。私には、その人たちが死神に見えた。それでも、彼女にとっては天使なのかもしれない。ゆっくりと手を離し、乱暴に涙を拭って頭を下げるとあの女の子が走り寄って来て彼女の手を掴む。まるで神様に縋るかのように。
「喜雨さん、ごめん、ごめんな、」
「っ、俺らが、」
「言うんじゃねぇ。んなこと言ったって喜雨センパイが起きるわけじゃねえだろ。」
かつん、と音がしてそちらを向けば見た事のない女性が居た。隈が酷い、嗅ぎ慣れた薬品の匂いに混じって微かに煙草の匂いがする。女性は一歩ずつ彼女に歩み寄り、指先で彼女の髪を払う。
「起きないのか。」
「……はい、身体的異常は見受けられません。」
「そうか。」
女性はそれだけ言うと彼女に触れる。きっと同業者か、どのみち医学に知識のある人間だろう。女性は一通り触れた後、大きく息を吐いた。原因不明の意識不明、あの人の頭にもきっと私と同じことが浮かんでいる。
「少なくともまだ生きてる。クズが戻ってくるまで寝かしておくのも手なんじゃないか。」
「っ、でも!」
「虎杖、お前がこんなに近くにいても起きないんだ。分かるだろ。」
そういえば、あの子は…あれ?でも、あの日に彼女が返してと言ったのは、黒髪の子だった筈だが。彼女の中で起因する何かがあるのは間違いないけれど、それはただの看護師である私にはわからない。
「喜雨さん。」
何度も彼女の名前を呼んで崩れるポニーテールの子は、見ているのも辛い程。それでも、この子達が今感じているものが、普段彼女の抱えるものとどちらが…否、辛さは人と比べるようなものではない。少なくとも、こうして眠っているのなら、彼女がこれ以上自分の体を傷付ける事も、苦しむ事もないのだと思うしかない。
「……さ、」
掠れた、聞き取る事も難しいほどの小さな声。全員が彼女を見るが、彼女はまだ眠ったままだ。何を伝えようとしたのか、周りの人達は息を詰めて、そうしてまた唇を噛んだ。眠っているだけなのだから、言葉を発する事もそんなに珍しいことではないはずなのに。ああ、もう、
「愛染さんは、きらいだと。」
「きら、い?」
「置いて行ったのに追い掛けてはいけない、連れて行って欲しかった、と。」
こんな事を言ってはいけない、頭ではわかっている。
「ひとりぼっちは嫌だと、発作の度に。…自傷を繰り返してはいましたが、どれも命に別状はないもののみです。誰かの"生きて"を、あの状態でも守り続けています。」
私が言葉を切れば、全員が私を見る。わかる、わかるよ。こんな事を言う看護師なんて信じられないよね。それでも、彼女がこの籠に入ってからずっと傍に居たのは私なんだよ。
「愛染さんが、望むものはなんでしょう。角砂糖に埋もれた紅茶も流行遅れのバンドマンの曲も、亡霊のように彼女の傍にある。」
呪いみたいね、と、それは言葉になったのだろうか。自分の中で渦巻くどす黒い塊が喉につっかえて息苦しい。その時、彼女の体が小さく跳ねて、そうして心拍が、ふつりと、
「愛染さん!?」
「愛染!聞こえるか!愛染!!」
女性と二人で駆け寄り心肺蘇生に切り替える。彼女の薄くなった体を圧迫する度に骨が軋む、きっと肋骨が折れているだろう。それでも諦めきれず、人が押し寄せる部屋の中で、その命を繋ごうとした。
「………縛りだ。」
女性が、呟いた。一生醒める事のない彼女の冷たくなった頬に触れて、泣き崩れる子供たちに言い聞かせるような、静かな声だった。
「五条の事だ、大方自分が死んだらこの子も死ぬように縛りを設けたんだろう。」
「そんなこと可能なんですか!?」
「当たり前だがそんなもん聞いたことない。だが、二人の中で縛りを設けたって話は聞いてる。元々他人との縛りは誓約だ。利害による縛りは呪術における重要な因子。破ると罰を受けるし、その罰はその時にならなきゃわからない。」
「そんな、」
「五条が死んだから愛染も死んだ。もしくは、五条と設けた縛りを破った罰か。はたまた、単純にこいつが生きる事を諦めたか。」
淡々と紡がれる言葉たちを聞いても私には理解が出来ない。縛り、呪術、誓約。それでも、そんな言葉たちをわざわざ理解しようとも思わない。彼女の手を取り、そうして私は膝をついた。
「愛した者と、同じ場所へ。どうか、どうか次は、一人になりませんように。」
嗚呼、結局私も、呪いを吐いた。
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「喜雨ちゃん、僕と縛りをつくろう。」
「なんですか、急に。」
「ただ結婚するだけじゃつまらないじゃん。だからさ、僕らにしか出来ないとびきりの縛りを設けよう。」
「言い出したら聞かないんですから…。で?何を求めてるんですか?」
「僕の心臓になって、僕の傍に居て。」
「いやいや、私ごときが貴方と常に一緒とか無理ですって。ていうかそれ縛りでもなんでもないじゃないですか。」
「僕が孤独を感じたらダメにしようか。」
「聞いて?」
「僕が死ぬ時は一緒に死んで。それ以外は死んじゃダメだから。」
「ああもう、わかりましたよ。例えどんなに離れていても、悟さんが死ぬその時には私も死にます。一人にしませんから。……全く、結婚の契り以外まで求めるんだから強欲ですよ、本当に。」
「そんな男に愛されちゃったんだから諦めてね。」
「諦め…じゃないですよ、私だって貴女のことを愛しているんですから。」