私の運命を変えたのは



一人で任務に就くことはもう手慣れたもので、任務の合間に後輩たちの様子見をしたりアドバイスをしたり、それももう慣れたこと。それでも少しずつ積もった疲労感に大きく息を吐き出して肩を回す。普段から身に付けているナイフたちが重く感じて、自室に戻ればそのまま上体を倒してショートブーツを脱ぎ、揃えて置いておく。スリッパに履き替えただけで足取りが軽く感じるものだ。軽くなった足でキッチンとリビングを通り過ぎ、仕事部屋へと割り当てた部屋に入る。上着をチェアの背凭れに掛け、一つひとつなるべく丁寧に取り除いて手入れ用のスペースへと置いていく。ホルスターに収まっているだけでも結構な数で、太腿に回したベルトやスカートを止める役割も担うベルトにも通したケースを取り除き、漸く全てが外れる頃には体が随分と軽くなった。チェアを寄せ腰を下ろして机の上に並んだナイフに手を伸ばして刃が欠けていないかを一通りチェック、数本限界が近いものがありこれはすぐに取り出せる位置にして投げる用にしよう。体を伸ばせばやっぱり溜息が溢れた。

「…お茶飲も。」

気怠い体を動かしてオープンキッチンへと足を運ぶ。小鍋に水を注いで沸騰させている間にティーポットに緑茶の葉を適当に入れる。紅茶も飲むしとこっちにしたけれど、やはり緑茶を飲むなら陶器の急須が欲しい。でも十分すぎる広さとはいえ一人暮らしのようなものだし、学生の頃から使っている小さな食器棚じゃ少々収納スペースが…買い換えれば良いのだが組み立ての事を考えるとどうにも踏み切れない。困っているわけじゃないからティーポットのまま、緑茶を淹れている。急須を買うならまずケトルとかやかんとか買うべき?いやでも困ってないし、だったら食器棚の上の小さなスペースにあるコーヒーメーカーを新調したい。今時のカプセルで色々な味が楽しめる物も良いけれど、昔からあるシンプルな物でも良い。ああ、そういえばこの間調べた時に出て来たプレートとミニオーブンだったかが付いている、一つ三役みたいな多機能コーヒーメーカーがあった。彼の分を含めた二人分の朝食は問題なく作れそうだしスペース的にも今使っているトースターを処分すれば問題なく置けそう。今月の給料が振り込まれたらあれを買おうかな。いやでも、多機能のコーヒーメーカーの為に折角買ったあのオーブントースターを処分するのは嫌だな。多忙を言い訳に先送りにし続けているホームベーカリーも買いたいし、…いや、急須は?ていうか食器棚を買い換えたら解決するんだって、私。


ぐるぐると答えのない問答を繰り返していれば小鍋の中でボコボコと沸騰していたから慌てて火を止めティーポットに注ぐ。ピッタリの量を作ったつもりだったけど沸騰させ過ぎたのか少し少なくなってしまった。まあ、良しとしよう。せめてもと用意した湯呑みを取り出してトレーに乗せ、仕事部屋まで戻りPCの邪魔にならないスペースへと置く。再度チェア腰を下ろし、湯呑みへとお茶を注ぐ。勧められて用意したL字型のデスクは使い勝手が良くて気に入っている。なんとなく湯呑みを持ったままぼんやりと意識をその辺に彷徨わせながら一口。まだ熱いけど、飲めなくはない。お風呂に入りたい、ひと休憩したらお風呂に浸かって体を清め、ストレッチをした後にお気に入りのクリームで丁寧にマッサージをしよう。それから、忙しい婚約者…違う、この間籍を入れたからもう夫か。彼にメッセージでも飛ばしてみようか。シャツの胸ポケットから煙草を取り出して一服、コーヒーにすれば良かったかな。なんて思いながらも緑茶は美味しいから許される。煙草とは合わないかもしれないけど甘い物食べたいかも。…あー、クリームがたっぷり入ったたい焼きが食べたい、無性に食べたい。ふわふわと漂う紫煙を見つめながら出掛けるか否か、真剣に考える。作る程の気力はないのだ。彼が来るなら買って来てなんてお使いを頼むけれど私以上に忙しかった筈で、三日程音信不通のまま。


「クリーム……。」

思い描くべきはたい焼きにたっぷり詰まったカスタードクリームのはずなのに、私の頭が考えるのは生クリームの方だ。柔らかくて、甘くて、すぐに溶けてしまう。そんな、あの人みたいなやつ。生クリームよりカスタードクリームの方が絶対美味しいって思うのに、今恋しいのは生クリームの方で。否、生クリームというより、

「せんせい、」
「こーら、もう先生じゃないでしょ?」
「っひ!なん、何でいるの!?」

後ろから覗き込むようにして目の前に現れた男に大きく肩が跳ねる。どくどくと早打ちする心臓を服の上から抑える私に楽しそうに笑って、左手に持っていた煙草を取り上げた恋人は何てことないような顔をして私の煙草を咥えた。鍵は閉めたのになんで?あ、彼には合鍵を渡してあるから…いやでもこの部屋の合鍵は渡してない筈…閉めてないのか?いやまて、この人出張に行くって言ってなかった?思考が纏まらず混乱したままの私に彼はケラケラと軽快に笑って煙草を灰皿へと押し付ける。

「ただいま、良い子にしてた?」

これお土産!と元気よく手渡された紙袋。なんかちょっとひしゃげてない?中を見ると宮城で有名な大福だった。紙袋に書かれた喜久福という文字を見て記憶を辿る。なんだっけ、大福の中にずんだクリームとその中に生クリームが入っていて、彼のお気に入りだったような…いや、そうではなく。

「良い子も何も貴方が私に割り当てた仕事をしていただけですよ…というか、帰るなら帰るって連絡出来ないんですか?」
「1秒でも早く妻に会いたいっていう、健気ーぇな気持ちが先走っちゃった。」

ハートだか星だかがつきそうな、ふざけたみたいな言い方をするから今度こそ大きな溜息が漏れた。目隠しで覆われた彼の目元は相変わらず見えなくて、だからこそ本音だとか本心だとかも分かりにくい。視線を隠す為に術師の中で目元を隠すのはベターだけど…そういった意図があるのかないのかはわからないけれど、私はあまりコレが好きではない。取って欲しくて手を伸ばすけれどあっさりと彼にその手を掬われる。

「僕さぁ、ちょおっと運動したから汗かいちゃって。お風呂借りていい?」
「私もお風呂行こうとしてた所だしいいですけど…。」
「じゃあ、行こっか。」

掴んだ手を引いて、そのまま私を立ち上がらせる。そのまま指を絡め取るようにして繋いだ男は真っ直ぐに自室にあるバスルームに向かっている。キッチンを通り過ぎ、手慣れたように進む足にまだ混乱が解けない。

「え?ちょ、なん?は?」
「ほらほらぁ、早く早く。」

存外広く作られたバスルームではあるがただでさえ背の高い私だけならまだしもこんな大男と二人で入るには随分と狭く感じる。それはもう実体験から知っている事で、思わず顔を顰めてしまうけれど悟さんはなんにも気にしてない顔で私の手を引き続けた。

「ていうか、湯船張ってない!」
「僕がやっといたから問題なっし!」

勝手に…!と思うけれど今更なので私は抗議の意味を込めて大きく溜息を吐き出すしかなかった。


何だかんだと丸め込まれるようにして服を脱がされ浴室に放り込まれ、爪先まで彼に洗われた私がげっそりしながら湯船に浸かれば悟さんは満足そうに笑って頭からお湯を被る。真っ白の濡れた毛束から水滴が滴り落ちて盛り上がった筋肉を伝う。なんだか色っぽい、水も滴るなんとやらってやつだ。このまま見ていたら揶揄われそうだし手持ち無沙汰だし、と凝り固まった筋肉を解すようにマッサージをしてみるがクリームがないと摩擦熱が生まれる。仕方ないから軽く揉む程度に留め、指先から前腕、上腕と辿りながらリンパを流す。地味に痛い。意識を逸らす為に始めた行動に夢中になりかけたタイミングで目の前を大きな掌が覆う。驚いて小さく悲鳴を上げたけど悟さんは何も気にしていないみたいで無理矢理私の背中側へと入るから仕方なくスペースを空けて、彼が湯船に浸かり切ると同時に腹に手を回され引き寄せられる。背中が彼に触れてなんだか少しだけ気不味い。

「ふー、極楽極楽。」
「……年寄りくさいですよ。」
「違いますぅ、大人なんですぅ。」

完全に子供なんだけど、と喉まで出たけどこれを口にするともっと面倒なので大人しく飲み込んでおく。八つ上の筈なんだけど。彼らの方が余程、…いや、これは良くない。疲れているのか思考がちぐはぐだ。気を逸らす為のマッサージが効いたのか無駄な緊張はどこかへ行ったのでそのまま背中にいる彼に凭れ掛かる。私みたいな大きな女でもすっぽりと収まるのって凄いよなぁ。疲労感と安心感でいっそ眠気すら感じるが、風呂での睡眠は気絶なんだと親友に言われたのでなんとか意識を手繰り寄せた。

「一年生が増えるんだ。宿儺の器なんだけどまあ、喜雨ちゃんなら大丈夫だろうし適当に可愛がってあげてよ。」
「宿儺の器って…回収に行ったの恵ですよね?恵は大丈夫だったんです?」
「大丈夫大丈夫、硝子の治療も受けてるしね。」
「……うつわ、ねぇ。」


受肉したのか、最低な展開だったな。その場に居たのが恵だったからこうして高専に来てるんだろうけど。宮城から戻って来て、一頻りの説明や案内を終わらせてからこの部屋に来たのかな。私が部屋に居なかったらどうするつもりだったんだろうかとか色々考えるけれど、結論は出そうにもないのでそのまま意識の外へと放り投げる。彼の掌がお腹の辺りを抑え、後ろから顔を覗き込まれたので軽く首を傾けて視線を交えると悟さんは笑った。

「お風呂出たら会いに行ってみる?」
「や、流石に…貴方と同じ匂いさせて行くわけにはいかないでしょう。」
「気にしなくていいでしょ、どのみち僕の妻ですって紹介するんだから。」
「急がなくてもすぐに会えるでしょう。」


高専卒業後すぐに改めてされたプロポーズを受けたその日に入籍は済ませてある。結婚式も行わなくてはならないが今は忙しい時期だからまだ先の話だろうし…あ、暫く本家に顔出しをしていないから近い内に行かなきゃ。面倒くさいが御三家に嫁いだ身、多少の面倒は仕方がないと割り切るしかないのだ。うちはそれなりに長くはある、ざっくり言えば五条家の派閥だが御三家程の力はないし適当で良いんだけど。ていうか血筋で政略結婚とかどんな古い時代なのって、私平成生まれなんですけど。

お湯が跳ねる音を聞きながら瞼を伏せた。出会ったばかりのあの日を、今でも私は鮮明に覚えている。



8歳の時に結ばれた婚約。術師として有能な姉の代わりに差し出された、不出来な妹。五条の血を濃く残す為に充てがわれた術師として未熟な成り損ない。劣勢であればあるほど優勢遺伝子が色濃く残るとでも思ったんだろう。馬鹿みたいだと思いながら、それでも変わる事のない自分の運命に諦めを抱えて対峙した男は誰もが振り返るような派手さを持っていた。六眼と無下限を併せ持つ鬼才。そんな男が夫になるのだと言う。当時、向こうは16歳と遊びたい盛りだっただろうにわざわざ顔を出して貰えただけでも有難い話。こんな子供を差し出されて貴方の妻になる女とか言われても迷惑だっただろうに。窮屈な着物が昨日出来たばかりの傷を圧迫して痛いが、それを表に出す事も出来ずに堪える。

「なに、この子で良いわけ?」
「はい。不出来な娘ではありますが…家の存続の為にも長子は残したく…。」
「不出来、ねえ?」


サングラス越しの青い瞳が私を見る。この眼は術式が見えるんだっけ。私の術式なんて大した物じゃないから見られたとしてもそんなに困るものでもない。背が高いだけでも威圧感があるのに、顔の作りが綺麗だからことさら迫力がある。それでも泣き出す子供のような事はしたくなくて教えられた通り、にこりと笑ってみせる。引き攣るなんてみっともない真似はしない、他所行きの、朗らかな笑顔を保ってみせよう。


「本当に俺がこの子を貰っていいわけ?」
「勿論に御座います。出来損ないの人間を五条家に送り出す事になりました事に深く謝罪を…、」
「そういうのどうでもいいから。じゃあ、今日からこの子が俺の婚約者ね。後で変えるとかナシだから。」
「畏まりました。」


遇らうように退席して行った両親や、五条家の付き人が居なくなったタイミングで、頬杖をついたままの男が私を見る。背筋を伸ばし、笑みを絶やさずに居れば彼は面倒くさそうに手を振った。

「もういいよ、ソレ。」
「はい?」
「そんな顔向けられてもキモイ、巻き込まれたのはお互い様なんだから良いでしょ。」
「…そんな。わたくしのようなフカンゼンのなりそこないが五条様の元へとつげる事自体、奇跡のようなもの。巻き込まれるなど、誇らしい事にございます。」
「……君の方が姉よりよっぽど有能なのに?」
「…へ?」

「大方、愛染の家と術式が違うから不出来だなんだって言われてたんだろうね。愛染の術式自体はそんなに強い物じゃないのに。ま、術式を使うのに呪力のコスパが悪いからそれで勘違いされたんでしょ。」
「あの、おはなしが良く…、」
「君の親はアホだねってこと。あと俺敬語とか嫌いだからやめて。鳥肌立つ。」
「……はあ。」
「妻になるんでしょ、じゃあやめて。夫が言うんだから家の人間より優先。俺がやめろっつったんだからやめろ。」
「わかった、わかったから…。」

変な男。さっきまでただ存在感のある恐ろしい人だと思っていたのに、そこらへんで見かける高校生みたいになった。まあ、年齢的にそうなんだけど。

「あと五条様とかやめて、悟でいいから。」
「さとるさん。」
「さんもいらないんだけど、まあいいや。」


大きく漏れた欠伸を隠しもせずにいる姿になんだか面白くなってきて、笑ってしまった。はっとして口元を抑えたが悟さんは大きな目を更に大きく、丸くしてから楽しそうに笑った。そっちの方が良い、と言った彼があの時どう思ったのかなんて私には分からないけれど、いつか彼が違う女性を見つけるまではこんな時間が続くのならそれは案外幸福なんじゃないかな、なんて痛みも絶望も忘れて、ぼんやりと思ったのだった。



「そういえば、あの時なんで私が選ばれたんです?」
「うん?」
「婚約者候補、沢山居たでしょう?」
「あー…写真とか資料見るの面倒くさくて何も見ずに一番年下って言ったんだよね。」
「うっわ。」
「そしたら九個下って言われて僕もビックリ。」

お湯が動いて、彼の腕が私の体を抱き寄せ直しては肩口に悟さんの唇が押し付けられてヒッ、なんて情けない声が出た。そんな私を気にするわけでもない悟さんの片手が私の胸へと触れて柔く揉まれるとなんだか酷く居た堪れないような気持ちになって、彼の手首を掴んで軽く引き抵抗を示すが特に効果を感じることはなく彼の手は変わらず私の胸をやわやわと揉んでいる。疲れてると柔らかい物に触りたくなるとかそういうの?それならそれと言って欲しいんだけど。

「あーんな小さい子がさ、こんな僕好みになってるって凄くない?」
「っ、悟さんの好みって、どんなですか。」
「勝ち気で泣かせ甲斐のある子。」
「最低だよ。」
「喜雨ちゃんが中学の時からずーっと我慢してた僕偉い!って褒めるとこでしょ。」
「……あの時か。」
「あの時からキスに弱いよね。すぐとろんってしちゃうの、今もだし。」
「ちょ、っ、」


悟さんの左手が私の顎を捕まえて無理矢理後ろを向かされて唇が重なり、何度も角度を変えて触れ合う。彼の長い舌が私の唇を舐めるからきっと口を開けという事なんだろうけれどあんなこと言われた直後だし嫌だ、と頑なに目と口を塞ぐ。けど、彼の右手が胸の突起を弾いたと同時に情けない嬌声が上がって口が開き、彼の舌が入り込んでくる。濡れた音が浴室で反響し、耳からも刺激が加えられてきつく目を瞑り直すと目の前の男が喉で笑う。こうやって彼の気紛れに振り回されてばかりなのは、ちょっと気に食わない。

「っ、は…もう、急に、」
「そんなとろとろの顔で言われても怖くないよ?」
「怒ってるんですけど。」
「まあまあ、これ以上はしないからさ。」


鼻先に口付けが落とされ、また悟さんの腕は私の腹に回った。なにがしたかったのと咎めようとしたけれど、それもどうせろくに彼の耳には入らないだろうから溜息を吐き出して悟さんの体に凭れかかるだけに留める。少しぬるくなり始めたお湯の中でぽつぽつと仕事の話を含めた言葉を交えながら、忙しくなる事は覚悟していれば彼の手が私の左手と重なった。二人分の指輪が視界に入って、まだ少し擽ったいけれど機嫌が良い夫にそれを言うのはなんだか悔しいからそっと、目を伏せて悟さんの声だけに意識を向けた。



タルト有馬す。