青い春と呼べ
ひっそりと抱えたこの気持ちが誰の目に触れることもなく、墓場に入るのを私だけが知っていれば良い。少なくともあの男にだけは知られてはいけない。だからこそ、誰にも知られてはいけないのだ。それが女である私があの男の隣に居続けるたった一つの方法なのだから。
野宮自由という男は人を外見で判断はしない。加えて、一度の過ちで軽蔑することはないし、人当たりは良く損得感情で動くことはない。また、正義感が強いので女を消費コンテンツとして見る男に腹を立て、大雑把な括りで言えば女の味方とも言える。そしてそれを当然と思っている節がある。つまり、端的に言えば女ウケというものが非常に良いのだ。醜美の観点から見ても幼さの残る印象はあるが整った顔立ちだと思う。強いて短所を挙げるのなら少々小柄ではあるがそれを踏まえたとて、大した欠点にはならない。
そんな幼馴染は昔から面倒な女に好かれた。中学の頃から変わらないが相手も所詮中学生とでも言えば良いのか、本人への害が出る前に私が対処出来ていたのでまだ良かった。が、高校に入ってからはそうもいかない。クラスは分かれてしまったし、私と自由が幼馴染である事を知らない人間も多くなった。何より肝心のバレー馬鹿の幼馴染は勝利の女神を振り向かせるのに必死で向けられる好意に酷く鈍感だった。中学時代、有名な選手でいた為か注目されることにも慣れていることも一つの要因だろうし、幼い頃から男女問わず人気者だったこともある。流石に告白を受ければ好意には気がつくが、じゃあ今日から恋人にとはならない。バレーボールに出会ってからあの幼馴染の最も優先するべきことはバレーボールなのだ。
さて、そんな幼馴染へ向けられる数多の惚れた腫れたの何が一番厄介であるか。答えは一つ。自由に恋心を抱く女の大多数が気が弱く、男性経験のない、教室で一人で文庫本でも読んでいそうな女であるということ。一見無害そうに見えるが、そうではない。何故なら彼女たちは人との接し方や距離感を理解していない事が多いからだ。あの男がみんなに優しいのではなく、自分にだけ優しいと勘違いを起こす。そして自分に都合の良い方向にしか考えず、行き着く先はめでたくストーカーなのである。とは言え、鈍感な幼馴染もとある一件からは自衛をするようになったので幾分か心労は減った。その一件の女子生徒が今どうなっているかは、まあ、幼馴染が知る必要はないので伏せておく。
前置きが長くなったが、詰まる所、女の味方兼女性恐怖症予備軍である幼馴染の傍に居続けるには私は女で居ることは捨てなくてはいけないと、そういう話である。元々、この恋心は墓まで持っていくつもりだったので不都合もない。いつかこの気持ちが幼さから起こりうる勘違いだったのだと、白に包まれた幼馴染を見て思う日が来る事を祈っている。否、その日にやっと涙が流せることを祈っていると言うのが正しい。その為にも私のこの邪な感情は誰の目にも止まってはいけないのだ。誰かの目に止まれば噂話でも何でも、本人に伝わるのは避けたい。聞いたところで微塵もそれが事実であるとは思わないだろうが念には念を、失敗は許されない。…例えこれが、幼馴染のあの男に唯一吐いた嘘になろうとしても私はこの気持ちを悟られるわけにはいかない。
そんな風に過ごしていたというのに、どうしてこうなったのか。天からバケツをひっくり返したかのような雨が降り注ぐ。確かに今朝の天気予報では晴れだと言っていた筈なのになんの嫌がらせなのか。水分を含んだ制服が肌に纏わり付いて不快感を生むが、脱ぎ捨てるわけにもいかない。何故か、隣にはあの幼馴染が居るからである。学校と家の中間地点に値する公園の東屋に逃げ込んだは良いが雨は強くなる一方で、そのまま帰宅するべきだったと後悔の念が押し寄せる。何の意味も持たないが空を睨みつけるくらいしか出来ないので恨みを込めておく。
「悠、タオル使え。」
「………どうも。」
「放課後練用だから使ってねえっつの。」
未使用かどうかを考えていたわけではないが、生まれた間の言い訳を考える必要もなくなったので訂正せずに手渡されたふかふかのタオルを顔に押し付けた。あ、柔軟剤変わってる…美麗ちゃんが好きそうな匂いだ。
「どうすっか。」
「どうしようもなにも帰るしかないでしょ、ここまで濡れたらもう変わんないって。」
今日が体育でもあればジャージの一つでも持っていたが残念ながらお互い持ち合わせはない。幸いにも今日は金曜日、制服が濡れたとてなんとかなるだろう。思わず漏れた溜息を聞いた自由が徐ろに鞄を漁り、タオルと同じように差し出されたバレー部指定のジャージ。
「着とけ、女が体冷やすな。」
ほら、と続く。頑固なこの男の事だ、受け取り着替えるまで伸ばした腕を下す事はないだろう。ていうかあんた試合前なんだから自分で着なさいよ、とは思うけれど言っても納得しないのは分かりきってるので諦めて受け取った。シャツの上に重ねて着ていたカーディガンを脱いでから有り難く羽織りジッパーを上げる。鞄の中に入れるわけにもいかないのでスクールバッグの肩紐辺りに引っ掛けておけば良いだろう。
「お前この後の予定は?」
「何もないけど、なんで?」
「うちのが近いから雨弱くなるまでうち来いよ。」
「んー、そうする。」
いくら想い人とは言え幼馴染、つい先週も泊まりに行ったばかりなのでこれくらいはなんて事ない。二つ返事で頷き、2人でまた雨粒の降り注ぐ道を駆けるようにして自由の家へと向かった。
だがここで予想外の展開、何故か自由が鞄から鍵を取り出している。美麗ちゃんは?と聞けば、今日から家族旅行だとあっさりと返された。自由は部活があるから行かなかった、なんて言いながら私を家へと招き入れる。幾ら気兼ねない幼馴染とは言え男女で2人きりとは…、そんなんだから変な女に付き纏われるんだぞ、という言葉は飲み込んで玄関へと足を踏み入れた。
自由は私が入ったのを確認して家の鍵を閉め、タオル取ってくるから待ってろとずぶ濡れのまま家の中を進んで行った。スカート絞れそうだな、なんて思いながらぼんやりと待っていれば程なくしてタオルを持った自由が戻ってくる。
「とりあえずシャワー浴びて来い。」
「いや、あんたが先入りなさいよ…試合前でしょうが。」
「着替えとけば平気だろ。ほら、行って来い。」
反論する間も無く背中を押されて脱衣所へと押し込まれ、結局は溜息を吐き出す事しか出来なかった。とりあえず、さっさと済ませなくては。随分と重くなった服を脱いで浴室へと踏み込んだ。
「お先頂きました、ドーゾ。」
「おー、入ってくるわ。部屋行ってて。」
「んー。」
タオルで髪に残った水分を拭き取りつつ玄関を見渡せば置いた筈の鞄がない。どこへ行ったかと思ったがリビング敷かれた新聞紙とタオルの上にちょこんと置かれていて、少しだけ笑ってしまった。鞄の中から携帯と昼に買ったペットボトルを取り出して後は放置。ずぶ濡れのカーディガンは今頃自由の手によって洗濯籠行きだろう。
自由の部屋で携帯を操作しながらレモンティーを飲みつつ待っていれば然程時間も掛からず自由がドライヤーを片手に部屋へと戻ってくる。使うだろ?と差し出されたドライヤーをありがたく受け取って髪を乾かしていく。肩につかない程度の長さしかない髪はそんなに時間をかける必要もないから気楽で良い。ついでに乾かす気が微塵も感じられない幼馴染の髪も乾かしてやった。
「悠、今日泊まってけば?」
「なに、雨止まないの?」
「明日の夜まで続くってよ。」
傘を借りるなり、迎えを呼ぶなりすれば良いの筈だが何故かそれを提示しない。だが、この男が考えている事は手に取るようにわかるので後頭部を叩いておいた。
「夕飯作ってくれって素直に言いなさいよ。」
「バレた?」
決して自由は料理が出来ない訳ではない筈だが、今日は気分が乗らないらしい。美麗ちゃんの事だから多分、冷蔵庫に何かしらの食材はあるだろう。やけに楽しそうな幼馴染を横目に仕方がないので夕飯を作る事にした。
なんだかんだと過ごしていればあっという間に夜も更けて時刻は凡そ22時。そろそろ健康優良児の幼馴染は眠気を感じる事だろうから布団を出さなくては、なんて考えていたその時、轟音が響き、眩い光をカーテン越しに感じて、そして電気が消えた。
「ブレーカー落ちたか、これ。」
「っぽいね。」
「見てくるから待ってろ。」
携帯を片手に部屋を出て行った後ろ姿を見送り、一応ネットで天気の情報を集めてみる。どこのサイトを確認しても朝まで雷雨と書かれていて頭を抱えていると自由が戻って来る。
「朝まで続くらしいから切ってきた。冷蔵庫開けらんなくなったけど。」
「私まだ布団出してないんだけど?」
「俺のベッド使えば?」
欠伸混じりに返されて頭が痛む。多分、ソファで寝る気なんだろう。それじゃ疲れは取れないし、スポーツ選手に強いる事ではない。暗闇の中手を伸ばして自由の手首を掴んで引く。
「じゃあ寝るよ。」
「なんで引っ張んだよ。」
「自由のベッドなんだから自由が使うべきでしょ。ていうかソファで寝たら風邪引くし。この天気だから寒いわよ。」
自由は考え込むように小さく唸り声を上げたが納得したのか眠気に負けたのか大人しくベッドに乗り上げてくる。幾ら2人とも小柄であってもシングルサイズのベッドに2人で寝転べば窮屈さはあるけど諦めて。背中が触れるが、この程度でもう胸は高鳴らない。それに安堵しておやすみ、と声をかければ少しだけ掠れた声で返される。30分もしないで隣からは規則正しい寝息が聞こえてきて、そこでやっと体を反転させる事が出来た。暗闇に慣れた目で寝顔を覗き込むと幼稚園の頃から変わらない、余りにも無垢な顔をして寝ているからつい笑ってしまう。……変わらないんだよね、あんたは。起こした上体を戻して、目を瞑った。
微睡み始めた途端、腹部に感じる僅かな重み。まさか、と思うけれどこの狭いベッドで自由以外が触れる筈もなく。恐る恐る目を開いて、視線を移せば幼馴染の腕が私の脇腹の辺りに乗っている。寝返りの拍子にこの接触事故が起きたようだ。普段なら別にこれくらいの接触で動揺はしないけれど、なんだか今日はダメだ。この男とどうかなりたいだとか、そんな願いはもうとっくに飲み込み消化した筈なのに。首元に触れる自由の吐息にむずむずとした感覚を覚えて居た堪れない。ぐるぐるとし始めた思考を落ち着けようと深く息を吸い込んだ、直後。腹に乗った手が何を思ったか、引き寄せる。背中に感じる体温と体幹を捕らえる腕。
あれ、これ、抱き締められて、
そこまで考えて飛び出そうになった悲鳴を口元を覆って堪えた。起こすわけにはいかない。起きた所であ、悪いとかそんな軽いもので終わるのは重々承知だし、それはそれで都合が良い。この状況を得したと感じられたら良かったのだが、生憎こちとら初恋を拗らせてる身で、逆に追い詰められているような気分になる。嫌なわけではない、決してそういった感情はないけれど頭がパニック寸前なんだよ、どうすんのよ、これ。ていうかなんで態々引き寄せたの、このバカ。抱き枕を抱いてないと寝れないってか?初耳だわ。
「んー…ん?」
何かの評論家が如く頭の中が言葉でいっぱいになり始めたと同時に唸り声が聴こえて思わず思考が止まる。が、慌てず騒がず秘儀、狸寝入り。私は寝ているという体を装い瞼を伏せたまま静かに呼吸を繰り返す。背面だから自由の様子は見れないけれどこのまま腕を離して再入眠してくれることを祈るばかりである。ドキドキと弾む心臓に意識が持っていかれそうで、バレないようにと固唾を飲む。数度聞こえた微かな唸り声が止み、自由の腕が体ごと動く。解放されるのかと細く安堵の息を吐くが、次の瞬間。首筋に吐息が触れて今度こそ悲鳴が漏れた。
背後から抱き締めるようにして腹に回した手を自分の体に密着させ直した幼馴染は、無事私の項に顔を埋めたまま再入眠を果たしたようである。いっその事先程の物凄く小さく抑えた悲鳴で起きて欲しかったのだが、最悪の事態である。素肌に触れる唇が擽ったくて、思わず膝を擦り合わせてしまいなんだか居た堪れない。服越しに触れる体温が心地好さと緊張をもたらしてくるから頭はもうパニック状態で、今にも泣き出したいくらいだ。
「……帰れば良かった…。」
思わず溢れた言葉は誰に届くこともなかったけれど、仕方がない。兎も角、今後は泊まるとしても美麗ちゃんのベッドを借りる事にしようと心に決めて高鳴る心臓をそのままに思考を投げ出したのだった。
_______
おまけ?
鼻が擽ったい、くしゃみが出そうな感覚に不意に意識を取り戻せば目の前になにがある。なんだこれ、とまだ暗い部屋の中で目を凝らせばどうやら人の頭のようで、思考が止まる。思わず声を出しそうになったが嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いに昨晩の記憶が頭を過って幼馴染であることを理解した。が、なんだこの状況。
此方に背中を向けたまま、ぴったりとくっついて眠る幼馴染。こんな風に寝てたっけか?と記憶を辿るが互いに背を向けて眠った筈…つーかなんでこんなにくっついてんだ?と首を傾げるもそんなに考える事もなく、結論に辿り着いた。簡単な話だ、俺の腕が悠の腹に回っている。どうやら寝惚けた俺が悠に抱き着いたらしい。嫁入り前の女に何やってんだ、と咎める気持ちもあるがこのまま眠り続ける幼馴染になんとなくの違和感。警戒心が強く、眠りの浅い幼馴染が何故こうも大人しく腕に収まって居るのか。ガキの頃から一緒とはいえ、こんなんでも異性なのだから多少は抵抗するべきだろうに。まあ、コイツのこの細腕じゃ無意識とはいえ男の腕を払うのは無茶か。
好奇心だった。もしくは悪戯心でもある。なんとなく、幼馴染の体を反転させて此方に向かせ、腹を捕らえていた手で腰を取り腕に力を込めて抱き締めると悠は抗議するように小さく唸った。だが、罵声も呆れた声も俺の耳に届く事はなく起き上がる事もない。逆にもぞもぞと体を動かして収まりの良い場所を探し、居場所が見つかったのかまた小さく寝息を立てた。マジか、お前。仮にも自由業の一人娘がこんな警戒心ゼロで男の腕の中で寝て良いのか?なんて、自分でやったくせにケチつける俺も中々に酷いと思うが。
「…起きねーの?」
思っていたよりも、低い声が出た。意識したわけじゃないし、寝起きで掠れていただけかもしれない。それでもなんだか気恥ずかしくなって来た頃に悠の手が動いて、俺のTシャツを掴んだ。それから胸元に顔を埋めて、鼻先を擦り付けて来る。
くすぐってぇ。なんか、すげぇ、むずむずする。
気の強いこの女が、甘えてるみたいな仕草をするから、だからなんだか調子が狂う。物理的なモンじゃなくて心臓とか腹の奥とか、そういうところがむすぐったくて、落ち着かない。ふわりと香るシャンプーは俺の使ってるヤツで、彼女本来の匂いと混ざってなんだか変な気分になる。同時に出来心なんかで抱き寄せた事を心の底から後悔した。が、久々に見た幼馴染の健やかな寝顔に少しばかりの安堵を覚えたから全部が全部悪いことでもなかったかもしれない、なんて思ってしまう単純な男、俺。俺ばかり気恥ずかしいのが悔しくて思いきり細く小さい体を抱き締めると悠がまた鼻先を擦り付けて来る。
「お前ほんと俺のこと好きな。」
そんな風に無意識に溢した言葉に、俺自身が動揺して眠気を完全に吹き飛ばしたのは、もう30秒後の未来。
野宮自由という男は人を外見で判断はしない。加えて、一度の過ちで軽蔑することはないし、人当たりは良く損得感情で動くことはない。また、正義感が強いので女を消費コンテンツとして見る男に腹を立て、大雑把な括りで言えば女の味方とも言える。そしてそれを当然と思っている節がある。つまり、端的に言えば女ウケというものが非常に良いのだ。醜美の観点から見ても幼さの残る印象はあるが整った顔立ちだと思う。強いて短所を挙げるのなら少々小柄ではあるがそれを踏まえたとて、大した欠点にはならない。
そんな幼馴染は昔から面倒な女に好かれた。中学の頃から変わらないが相手も所詮中学生とでも言えば良いのか、本人への害が出る前に私が対処出来ていたのでまだ良かった。が、高校に入ってからはそうもいかない。クラスは分かれてしまったし、私と自由が幼馴染である事を知らない人間も多くなった。何より肝心のバレー馬鹿の幼馴染は勝利の女神を振り向かせるのに必死で向けられる好意に酷く鈍感だった。中学時代、有名な選手でいた為か注目されることにも慣れていることも一つの要因だろうし、幼い頃から男女問わず人気者だったこともある。流石に告白を受ければ好意には気がつくが、じゃあ今日から恋人にとはならない。バレーボールに出会ってからあの幼馴染の最も優先するべきことはバレーボールなのだ。
さて、そんな幼馴染へ向けられる数多の惚れた腫れたの何が一番厄介であるか。答えは一つ。自由に恋心を抱く女の大多数が気が弱く、男性経験のない、教室で一人で文庫本でも読んでいそうな女であるということ。一見無害そうに見えるが、そうではない。何故なら彼女たちは人との接し方や距離感を理解していない事が多いからだ。あの男がみんなに優しいのではなく、自分にだけ優しいと勘違いを起こす。そして自分に都合の良い方向にしか考えず、行き着く先はめでたくストーカーなのである。とは言え、鈍感な幼馴染もとある一件からは自衛をするようになったので幾分か心労は減った。その一件の女子生徒が今どうなっているかは、まあ、幼馴染が知る必要はないので伏せておく。
前置きが長くなったが、詰まる所、女の味方兼女性恐怖症予備軍である幼馴染の傍に居続けるには私は女で居ることは捨てなくてはいけないと、そういう話である。元々、この恋心は墓まで持っていくつもりだったので不都合もない。いつかこの気持ちが幼さから起こりうる勘違いだったのだと、白に包まれた幼馴染を見て思う日が来る事を祈っている。否、その日にやっと涙が流せることを祈っていると言うのが正しい。その為にも私のこの邪な感情は誰の目にも止まってはいけないのだ。誰かの目に止まれば噂話でも何でも、本人に伝わるのは避けたい。聞いたところで微塵もそれが事実であるとは思わないだろうが念には念を、失敗は許されない。…例えこれが、幼馴染のあの男に唯一吐いた嘘になろうとしても私はこの気持ちを悟られるわけにはいかない。
そんな風に過ごしていたというのに、どうしてこうなったのか。天からバケツをひっくり返したかのような雨が降り注ぐ。確かに今朝の天気予報では晴れだと言っていた筈なのになんの嫌がらせなのか。水分を含んだ制服が肌に纏わり付いて不快感を生むが、脱ぎ捨てるわけにもいかない。何故か、隣にはあの幼馴染が居るからである。学校と家の中間地点に値する公園の東屋に逃げ込んだは良いが雨は強くなる一方で、そのまま帰宅するべきだったと後悔の念が押し寄せる。何の意味も持たないが空を睨みつけるくらいしか出来ないので恨みを込めておく。
「悠、タオル使え。」
「………どうも。」
「放課後練用だから使ってねえっつの。」
未使用かどうかを考えていたわけではないが、生まれた間の言い訳を考える必要もなくなったので訂正せずに手渡されたふかふかのタオルを顔に押し付けた。あ、柔軟剤変わってる…美麗ちゃんが好きそうな匂いだ。
「どうすっか。」
「どうしようもなにも帰るしかないでしょ、ここまで濡れたらもう変わんないって。」
今日が体育でもあればジャージの一つでも持っていたが残念ながらお互い持ち合わせはない。幸いにも今日は金曜日、制服が濡れたとてなんとかなるだろう。思わず漏れた溜息を聞いた自由が徐ろに鞄を漁り、タオルと同じように差し出されたバレー部指定のジャージ。
「着とけ、女が体冷やすな。」
ほら、と続く。頑固なこの男の事だ、受け取り着替えるまで伸ばした腕を下す事はないだろう。ていうかあんた試合前なんだから自分で着なさいよ、とは思うけれど言っても納得しないのは分かりきってるので諦めて受け取った。シャツの上に重ねて着ていたカーディガンを脱いでから有り難く羽織りジッパーを上げる。鞄の中に入れるわけにもいかないのでスクールバッグの肩紐辺りに引っ掛けておけば良いだろう。
「お前この後の予定は?」
「何もないけど、なんで?」
「うちのが近いから雨弱くなるまでうち来いよ。」
「んー、そうする。」
いくら想い人とは言え幼馴染、つい先週も泊まりに行ったばかりなのでこれくらいはなんて事ない。二つ返事で頷き、2人でまた雨粒の降り注ぐ道を駆けるようにして自由の家へと向かった。
だがここで予想外の展開、何故か自由が鞄から鍵を取り出している。美麗ちゃんは?と聞けば、今日から家族旅行だとあっさりと返された。自由は部活があるから行かなかった、なんて言いながら私を家へと招き入れる。幾ら気兼ねない幼馴染とは言え男女で2人きりとは…、そんなんだから変な女に付き纏われるんだぞ、という言葉は飲み込んで玄関へと足を踏み入れた。
自由は私が入ったのを確認して家の鍵を閉め、タオル取ってくるから待ってろとずぶ濡れのまま家の中を進んで行った。スカート絞れそうだな、なんて思いながらぼんやりと待っていれば程なくしてタオルを持った自由が戻ってくる。
「とりあえずシャワー浴びて来い。」
「いや、あんたが先入りなさいよ…試合前でしょうが。」
「着替えとけば平気だろ。ほら、行って来い。」
反論する間も無く背中を押されて脱衣所へと押し込まれ、結局は溜息を吐き出す事しか出来なかった。とりあえず、さっさと済ませなくては。随分と重くなった服を脱いで浴室へと踏み込んだ。
「お先頂きました、ドーゾ。」
「おー、入ってくるわ。部屋行ってて。」
「んー。」
タオルで髪に残った水分を拭き取りつつ玄関を見渡せば置いた筈の鞄がない。どこへ行ったかと思ったがリビング敷かれた新聞紙とタオルの上にちょこんと置かれていて、少しだけ笑ってしまった。鞄の中から携帯と昼に買ったペットボトルを取り出して後は放置。ずぶ濡れのカーディガンは今頃自由の手によって洗濯籠行きだろう。
自由の部屋で携帯を操作しながらレモンティーを飲みつつ待っていれば然程時間も掛からず自由がドライヤーを片手に部屋へと戻ってくる。使うだろ?と差し出されたドライヤーをありがたく受け取って髪を乾かしていく。肩につかない程度の長さしかない髪はそんなに時間をかける必要もないから気楽で良い。ついでに乾かす気が微塵も感じられない幼馴染の髪も乾かしてやった。
「悠、今日泊まってけば?」
「なに、雨止まないの?」
「明日の夜まで続くってよ。」
傘を借りるなり、迎えを呼ぶなりすれば良いの筈だが何故かそれを提示しない。だが、この男が考えている事は手に取るようにわかるので後頭部を叩いておいた。
「夕飯作ってくれって素直に言いなさいよ。」
「バレた?」
決して自由は料理が出来ない訳ではない筈だが、今日は気分が乗らないらしい。美麗ちゃんの事だから多分、冷蔵庫に何かしらの食材はあるだろう。やけに楽しそうな幼馴染を横目に仕方がないので夕飯を作る事にした。
なんだかんだと過ごしていればあっという間に夜も更けて時刻は凡そ22時。そろそろ健康優良児の幼馴染は眠気を感じる事だろうから布団を出さなくては、なんて考えていたその時、轟音が響き、眩い光をカーテン越しに感じて、そして電気が消えた。
「ブレーカー落ちたか、これ。」
「っぽいね。」
「見てくるから待ってろ。」
携帯を片手に部屋を出て行った後ろ姿を見送り、一応ネットで天気の情報を集めてみる。どこのサイトを確認しても朝まで雷雨と書かれていて頭を抱えていると自由が戻って来る。
「朝まで続くらしいから切ってきた。冷蔵庫開けらんなくなったけど。」
「私まだ布団出してないんだけど?」
「俺のベッド使えば?」
欠伸混じりに返されて頭が痛む。多分、ソファで寝る気なんだろう。それじゃ疲れは取れないし、スポーツ選手に強いる事ではない。暗闇の中手を伸ばして自由の手首を掴んで引く。
「じゃあ寝るよ。」
「なんで引っ張んだよ。」
「自由のベッドなんだから自由が使うべきでしょ。ていうかソファで寝たら風邪引くし。この天気だから寒いわよ。」
自由は考え込むように小さく唸り声を上げたが納得したのか眠気に負けたのか大人しくベッドに乗り上げてくる。幾ら2人とも小柄であってもシングルサイズのベッドに2人で寝転べば窮屈さはあるけど諦めて。背中が触れるが、この程度でもう胸は高鳴らない。それに安堵しておやすみ、と声をかければ少しだけ掠れた声で返される。30分もしないで隣からは規則正しい寝息が聞こえてきて、そこでやっと体を反転させる事が出来た。暗闇に慣れた目で寝顔を覗き込むと幼稚園の頃から変わらない、余りにも無垢な顔をして寝ているからつい笑ってしまう。……変わらないんだよね、あんたは。起こした上体を戻して、目を瞑った。
微睡み始めた途端、腹部に感じる僅かな重み。まさか、と思うけれどこの狭いベッドで自由以外が触れる筈もなく。恐る恐る目を開いて、視線を移せば幼馴染の腕が私の脇腹の辺りに乗っている。寝返りの拍子にこの接触事故が起きたようだ。普段なら別にこれくらいの接触で動揺はしないけれど、なんだか今日はダメだ。この男とどうかなりたいだとか、そんな願いはもうとっくに飲み込み消化した筈なのに。首元に触れる自由の吐息にむずむずとした感覚を覚えて居た堪れない。ぐるぐるとし始めた思考を落ち着けようと深く息を吸い込んだ、直後。腹に乗った手が何を思ったか、引き寄せる。背中に感じる体温と体幹を捕らえる腕。
あれ、これ、抱き締められて、
そこまで考えて飛び出そうになった悲鳴を口元を覆って堪えた。起こすわけにはいかない。起きた所であ、悪いとかそんな軽いもので終わるのは重々承知だし、それはそれで都合が良い。この状況を得したと感じられたら良かったのだが、生憎こちとら初恋を拗らせてる身で、逆に追い詰められているような気分になる。嫌なわけではない、決してそういった感情はないけれど頭がパニック寸前なんだよ、どうすんのよ、これ。ていうかなんで態々引き寄せたの、このバカ。抱き枕を抱いてないと寝れないってか?初耳だわ。
「んー…ん?」
何かの評論家が如く頭の中が言葉でいっぱいになり始めたと同時に唸り声が聴こえて思わず思考が止まる。が、慌てず騒がず秘儀、狸寝入り。私は寝ているという体を装い瞼を伏せたまま静かに呼吸を繰り返す。背面だから自由の様子は見れないけれどこのまま腕を離して再入眠してくれることを祈るばかりである。ドキドキと弾む心臓に意識が持っていかれそうで、バレないようにと固唾を飲む。数度聞こえた微かな唸り声が止み、自由の腕が体ごと動く。解放されるのかと細く安堵の息を吐くが、次の瞬間。首筋に吐息が触れて今度こそ悲鳴が漏れた。
背後から抱き締めるようにして腹に回した手を自分の体に密着させ直した幼馴染は、無事私の項に顔を埋めたまま再入眠を果たしたようである。いっその事先程の物凄く小さく抑えた悲鳴で起きて欲しかったのだが、最悪の事態である。素肌に触れる唇が擽ったくて、思わず膝を擦り合わせてしまいなんだか居た堪れない。服越しに触れる体温が心地好さと緊張をもたらしてくるから頭はもうパニック状態で、今にも泣き出したいくらいだ。
「……帰れば良かった…。」
思わず溢れた言葉は誰に届くこともなかったけれど、仕方がない。兎も角、今後は泊まるとしても美麗ちゃんのベッドを借りる事にしようと心に決めて高鳴る心臓をそのままに思考を投げ出したのだった。
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おまけ?
鼻が擽ったい、くしゃみが出そうな感覚に不意に意識を取り戻せば目の前になにがある。なんだこれ、とまだ暗い部屋の中で目を凝らせばどうやら人の頭のようで、思考が止まる。思わず声を出しそうになったが嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いに昨晩の記憶が頭を過って幼馴染であることを理解した。が、なんだこの状況。
此方に背中を向けたまま、ぴったりとくっついて眠る幼馴染。こんな風に寝てたっけか?と記憶を辿るが互いに背を向けて眠った筈…つーかなんでこんなにくっついてんだ?と首を傾げるもそんなに考える事もなく、結論に辿り着いた。簡単な話だ、俺の腕が悠の腹に回っている。どうやら寝惚けた俺が悠に抱き着いたらしい。嫁入り前の女に何やってんだ、と咎める気持ちもあるがこのまま眠り続ける幼馴染になんとなくの違和感。警戒心が強く、眠りの浅い幼馴染が何故こうも大人しく腕に収まって居るのか。ガキの頃から一緒とはいえ、こんなんでも異性なのだから多少は抵抗するべきだろうに。まあ、コイツのこの細腕じゃ無意識とはいえ男の腕を払うのは無茶か。
好奇心だった。もしくは悪戯心でもある。なんとなく、幼馴染の体を反転させて此方に向かせ、腹を捕らえていた手で腰を取り腕に力を込めて抱き締めると悠は抗議するように小さく唸った。だが、罵声も呆れた声も俺の耳に届く事はなく起き上がる事もない。逆にもぞもぞと体を動かして収まりの良い場所を探し、居場所が見つかったのかまた小さく寝息を立てた。マジか、お前。仮にも自由業の一人娘がこんな警戒心ゼロで男の腕の中で寝て良いのか?なんて、自分でやったくせにケチつける俺も中々に酷いと思うが。
「…起きねーの?」
思っていたよりも、低い声が出た。意識したわけじゃないし、寝起きで掠れていただけかもしれない。それでもなんだか気恥ずかしくなって来た頃に悠の手が動いて、俺のTシャツを掴んだ。それから胸元に顔を埋めて、鼻先を擦り付けて来る。
くすぐってぇ。なんか、すげぇ、むずむずする。
気の強いこの女が、甘えてるみたいな仕草をするから、だからなんだか調子が狂う。物理的なモンじゃなくて心臓とか腹の奥とか、そういうところがむすぐったくて、落ち着かない。ふわりと香るシャンプーは俺の使ってるヤツで、彼女本来の匂いと混ざってなんだか変な気分になる。同時に出来心なんかで抱き寄せた事を心の底から後悔した。が、久々に見た幼馴染の健やかな寝顔に少しばかりの安堵を覚えたから全部が全部悪いことでもなかったかもしれない、なんて思ってしまう単純な男、俺。俺ばかり気恥ずかしいのが悔しくて思いきり細く小さい体を抱き締めると悠がまた鼻先を擦り付けて来る。
「お前ほんと俺のこと好きな。」
そんな風に無意識に溢した言葉に、俺自身が動揺して眠気を完全に吹き飛ばしたのは、もう30秒後の未来。