金持ちだか何だか知らないけれどオレを連れて来たのはとんだ狸ジジイだった。ソイツはオレに家の仕事を押し付けてその出来が不満だったり、自分の仕事がうまく行かなければ暴力を振るう事も数え切れない程にあった。与えられたサイズの合っていないTシャツがいくら薄汚れ破れようと知らぬフリで今日も今日とて床を磨いていた。クソジジイ、誰に言うわけでもなく漏れた言葉は誰に拾われる事もなく空に消えた。冷たい水に雑巾を漬けて濯ぎ、余分な水分を絞る。キンキンに冷えた掌は痛みを齎し小さく舌打ちした。

今だけだ、そう言い聞かせれば込み上げた怒りも少しはマシになる。今日はカイショク?だかなんだかに行っているからどうせ酔い潰れて帰ってくる。いつものように酒が入れば呼び出されて理不尽な痛みを与えられるだろう。だが、その時ならば多少なりとも隙が出来るはずだ。その僅かな瞬間でアイツを仕留めることが出来ればオレは自由になれる。掠め取った小さなナイフをそっと胸に確認してまた床に雑巾を押し付けた。



「帰ったぞ。」
「……おかえんなさい。」
「ハッ、まだそんな事をしているのか?何をさせても仕事が遅くて役に立ちはしないな、お前は。」

そう吐き捨てて態とらしく土に塗れた革靴で先程拭いたばかりの床を踏み躙る。…テメェの家だし汚したきゃ汚せよ、クソが。言葉だけは何も返さずに下から睨みあげればふんっと態とらしく鼻を鳴らす。可笑しい、いつもならこんな態度を取ればすぐにでも殴りかかってくるのに。

「あら、どちら様?」

ジジイとは別の、女の声。目線を上げれば綺麗な女が居た。オレでも分かる程良い布を使ったドレスを身に纏い、こちらを見る。溢れそうな程大きな目がオレを捉えて小首を傾げていて、愛らしい仕草ってやつなんだと思う。

「なに、唯の小間使いだ。…それより、私の部屋はこっちだよ。ライア。」
「そうなの?頑張ってね、ボク。」

薄汚れたオレの頭を軽く撫でてその人はジジイの後を追う。…何故か知らないが少し、違和感のようなものを覚える。あの人があんなジジイになんの用事があるんだろうか?ああ…金、か。馬鹿みたいに金を集めて、宝石やら何やらを溜め込むのが趣味だしあの人もそれが目当てでのこのこ付いて来たのだろう。

「…殴られなきゃいいけど。」

ジジイの趣味は変わっている。今までだって連れ込んだ女はみんなボロボロになって泣きながら帰って行くのを何度か見た。それに対して何かを思うことはなかったけど、あの人は何か今までの女とは違うような、そんな感じがして。それが何故かはわからないまま兎も角床を磨く事にする事にした。…女が隣で寝てればジジイも少しは油断している筈だし、少し予定は変わったが逆にやりやすい。



午前1時、自室だと充てがわれた古ぼけて埃まみれの物置からそろりと這い出た。真っ暗な屋敷の中を足音を立てずに歩き始める。あれから大体2時間、流石に眠っているだろう。ライアさんとやらには悪いが決行するのには最適なのだから仕方がない。そんな事を考えているとジジイの部屋の辺りが騒がしい事に気が付いた。灯りが点いている、までは良かった。だが何故か発砲音が聞こえる。

何故?、そんな事を考えていると開いた扉から一人、男が飛んできた。至る所から血が吹き出て、もう呼吸はして居ないみたいだ。まさか、そう思ってからは何も考えられずにジジイの部屋に飛び込んだ。

部屋は至る所に血液が飛び散り、ゴロゴロとジジイの護衛を務める男たちが転がって居た。ふと目線をあげればふわりと舞い上がったカーテン、月明かりに照らされてキラキラと光る金髪、それから…美しい女。


「てん、し…?」
「違うわ。」

漏れた声に返事が返ってくる。数時間前に聞いたはずのその声。思わず目を見開くとその女はふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。

「…悪魔よ。」

女は一つも汚れて居ない。だからこそ、この状況を作り出したのはこの人なんだとわかった。

「ごめんなさいね、これも仕事なのよ。」
「ひっ…!」

かつん、とヒールを鳴らして怯えるジジイに歩み寄る女にハッとする。思わず二人の間に割って入ればジジイが助かったと言わんばかりの声を漏らす。女は先程と同じように笑ってどうしたの?と問うてくる。正直、怖いどころの話ではない。最初の発砲音があってから立っている人間がオレとこの人になってからの時間はほんの数十秒。何をしたのかなんてわからないけれどそれでもオレが敵うはずがない事くらいはバカでも分かる。けど、オレがしたいのはこのジジイを助ける事ではないのだ。この人と敵対するわけではない、と思う。

「コイツはオレだの獲物だ!アンタには殺させねェぞ!」
「そうなの?じゃあ…これ貸してあげるわ。」

手渡された小さな拳銃。

「…S&WのM37よ。これなら坊やでも使えるでしょう?」
「っ、使える…と思う。」

思ったよりも軽いな、とかそんな感想しか出てこない。ぼんやりとその銃を見ていると後ろからガタッと音がしてジジイが逃げ出そうとしているのが視界に入って、逃すと思った瞬間、掌の重みが消えて二発分の発砲音と叫び声が屋敷に響いた。どうやらこの人がジジイの両膝を撃ち抜いたらしい。呆気にとられてその様を見ているとまた掌に小さな拳銃が乗せられた。それから女は両膝を付いてオレと目線を合わせると後ろから抱き抱えるようにして構えの形を取らせ、耳元に言葉を吹き込む。

「こうして、狙いを定めて…弾は残り三発。頭、心臓を撃ち抜くことができれば一発で仕留められるわ。即死をさせたいのなら鼻の先を狙いなさい。少なからず反動が来るだろうから肩抜かさないようにね?」

出来る?と囁かれた声に一度頷く。女は立ち上がると何やら手を動かす。すると暴れて居たはずのジジイの動きがぴたりと止まった。何かが起きたのは間違いないようだがオレからすれば暴れているよりかは狙いやすくなった事だし不満はない。強いて言うなら煩い、と言うくらいだった。意識を集中させる為に目を閉じてひとつ、大きく息を吸い込む。それからゆっくりと目を開いて照準を合わせる。頭、心臓…鼻先。ぴたりと眉間に合わせて引き金を引いた。


乾いた音が響き、断末魔もなくジジイの体は大きく揺れてそのままぐったりと動かない。本当に死んだのか?不安でいっぱいになっていると女はクスクス笑って体をこちらに寄せる。

「心配なら残りも打てばいいわ。それ私のじゃないし。」

ぴ、と拳銃を指差すから頷いて次は心臓を狙って撃ち込む。体は衝撃で揺れたけれどそれ以外は何もなかった。一発残ったけれどもう触る気にはならない。びりびりと痛む掌に耐えられなかったのだ。これが所謂護身用と言えども流石にオレの力と比べれば強いものは強い。

「……なあ、アンタ…。」
「うん?」
「そこの引き出し、金庫の鍵が入ってる。宝石は隣の部屋。でもそこは指紋認証だから…ジジイの人指し指持っていった方が良いよ。持ってきたいものあるなら、好きにしていいと思うし。」

一息に吐き捨てるように言えばぱちくり、目を瞬かせる。さっきまでの冷たい目じゃない。もしかしたら今は素なのかもしれない。女は少し考えてからわかったと口にして物色を始める。それをぼんやりと見ているとまた女はオレの前に膝をついた。

「ねえ、キミ名前は?」
「…なんで聞くの?」
「いいじゃない、教えてよ。」
「…レオネ。レオネ・アルバーニ。」

ぼそぼそと喋ると満足そうに笑ってオレの手を握った。びっくりして手を引き抜きそうになったけれどなんとか堪える。

「レオネ、私に付いてこない?」
「は?」
「丁度一人で色々やるの飽きてきたとこなの。ファミリーでも立ち上げよっかなーって思ってて…一応下っ端は集まり始めるんだけどね、右腕っていうのかしら?そう言う人が居なくて。あなたが居ればいいなって。」

にこにこと笑う女の本心はわからないし、付いて行っていいのかなんて今のオレには全くわからない。今より酷い生活が待っているかもしれない。けれど不思議と首を縦に振って居た。女は嬉しそうに笑って準備しておいで、と言った。何となく足早に部屋に戻ってみるけど特に必要そうなものは無く、着替えとしていた数着の服を引っ掴んで倉庫と化したそこから適当な鞄を見繕いそれに詰め込む。貴重品すらないのはどうなのかと思わなくもないけれど今までの生活を考えれば特に不思議でもない。それからさっきと同じように足早に元・ジジイの部屋に戻ればよくわからないブランドの鞄にぎゅうぎゅうに色んな物が詰め込まれている。多分お金になりそうなものとかなんだろう。

「あら、終わった?早いのね。」
「終わった…ええと、」

そういえばオレはこの人の事をなんと呼べば良いのか。そんな事を考えてると女は笑ってまたオレの視線に合わせる。

「マリア。マリア・ジェンティーリよ。」
「マリア…さん?」
「さっきと名前が違うのが気になる?」

こくん、と素直に頷くとくすくす笑う。それから人差し指を立ててそれを自分の唇に当てた。

「ライアー…つまり嘘、よ。」
「あ!」

納得した?と聞かれて何度も頷く。マリアさんは満足そうに立ち上がって緩慢な動きで先程諸々詰め込んだであろう鞄を手に取りオレに手を伸ばす。恐る恐るその手を取れば一緒に屋敷を出た。それからよくわからない真っ黒な車に乗り込んだ。キョロキョロと落ち着きのないオレをマリアさんは楽しそうに見ていてなんだか気恥ずかしくなって大人しく椅子に座る。ベッドにと与えられていたソファなんかよりもずっとずっと柔らかくてなんだかいい匂いのする車内に突然眠気が襲って来て促されるままに眠りについた。


それから車が一度止まったが起こされることはなく二度目の眠りに落ちる。また暫くして車が動き出して今度は車が止まるのと同時に起こされた。

「着いたわよ、レオネ。」
「んん…どこに?」
「今日から貴方のお家になるところ。」

車から降りて目の前の建物を見るとジジイの屋敷の三倍はありそうなくらい大きな館がそこにあった。あんぐりの口を開いているとまた手を引かれてその館の中へと連行される。彼方此方に人がいて、マリアさんを見ればみんな頭を下げた。それから暫くして一つの部屋に辿り着くとマリアさんがその扉を開け放つ。ベッドとデスク、ソファとガラステーブルやクローゼットしかないその部屋に一歩入り込むとマリアさんは笑う。

「此処、レオネの部屋ね?」
「は!?広くね!?」
「こんなもんよー。あ、そっちがバスルームとかね?」

簡単に部屋の中の説明を受けるま上手く処理できずにいるとマリアさんが忘れていた、と鞄を漁る。さっきの物が詰まったものではなく小さなハンドバッグだ。私物、なのか?そう言えば初めて会った時もそのバッグを持っていた気がする。マリアさんは鞄の中から一つの箱を取り出してオレに差し出してきた。

「…なにこれ?」
「一緒に来てくれたからプレゼント。それから…はい、これ今日の分ね?入り用の物とかあるだろうから今日のは先に渡しちゃうわね。」

箱とは別に厚みのある封筒を渡された。中身は恐らく現金だろうが…これを貰うような事をした記憶はない。

「や、これは…。」
「いやねえ、私のアシスタントしたでしょう?これは貴方の仕事に対する正当な賃金よ。」
「……わかった。」

ずしり、と重たい封筒に少しばかり申し訳なさを感じながらもとりあえずはきちんと受け取っておく。マリアさんは満足そうにして一つ頷いた。箱の方を開けてみても良いか聞けば構わないというのでちょっとだけ震える手で箱を開けばそこにはドッグタグ。箱の中で光るそれはちゃら、と音を立てて揺れる。

「これ、は…。」
「ふふ、家族になってくれたでしょう?だからお近づきの印ってやつかしら。…つけてあげる。」

背後に回ったマリアさんが音を立ててネックレスを取り出して首に腕を回してネックレスをつけた。首元で揺れるそれになんだか落ち着かない。冷たい筈の金属が何か暖かく感じられて目頭が熱くなった気がして乱暴に目元を拭う。家族、か。

「…ありがと、ございます。」
「敬語は辞めて?家族なんだから。」
「そっ、か?」

よく出来ました、そう言って彼女は笑った。元気な子が増えるように先ずは頑張らなくちゃね、そう言うマリアさんはやっぱり天使みたいで悪魔と言われた意味は分からなかった。が、この人は天使ではないと気が付くのはもう少しだけ先の話。