ずっとずっと憧れだった。競技は違えど私は彼以上に尊敬する人なんて居ない。

初めて彼の試合を見たのは私が中学生の時、お兄ちゃんの応援に見に行った高校バレーの試合だった。お兄ちゃんを応援しに行った筈が別の高校の試合を夢中になって見ていた。

1人だけ違うユニフォームに小柄な体格。誰よりもボールに執着してギリギリのボールも味方に届けるその選手は私の心を奪った。その後のお兄ちゃんの試合なんてロクに頭に入らなくて直ぐにその選手を調べた。お兄ちゃんには呆れられてしまったけれど。



それから13年、干支も一周する程の時間があり何があったのか、憧れの野宮選手と交際する事になった。何をどう考えても自分の人生の全ての運を使ったとしか思えないし、寧ろそれでも足りないのではないかと思う。大学時代の先輩で野宮選手の高校の同級生だったらしい菊川先輩は笑いながら祝福してくれたが絶対巫山戯てる。あの人は昔からそういう人なのだ。

話を戻すが、13年間他の男なんか目に入れていなかった私は男性経験というものが全く無い。野宮選手以外を男として認識していなかったし何だかんだと私自身もボクシングの練習だ試合だとバタバタしていた事もあり女としての経験値はほぼゼロなのである。化粧や服装などそういった事であれば自分一人で何とかなる部分はそれなりに磨いてきたつもり。テレビに出る機会もあるし何が楽しいのか<ボクシング選手の生活に密着>など巫山戯た記事などもあったり雑誌でインタビューを受けたり、そんな事もあり見た目に関してはそれなりに女子力は身に付けた。

が、男性経験だなんて一人で努力して何とかなる問題ではない。野宮選手とお付き合いするまでキスなどの粘膜的接触は疎か人と手を繋いだことすらない筋金入りの処女である。この歳になって男性経験がないというのは考えものであるが。インタビューでも何て答えたら良いかわからずに口篭ってしまった。好みの男性ならば野宮選手だと脊椎反射で答えられるのだが。


詰まる所、私は男性に耐性がない、という事だ。


「実ちゃん?」
「ひ、ひゃい?!」
私の部屋でローテーブルを挟んで正面に座っていた野宮選手…ではなく、野宮さんが不思議そうに私の目の前で手を振る。変な声が出た私を笑いながらこっちを見ている。その目は優しくてドキドキしてしまう。

「ぼーっとしてるけど大丈夫?ケーキ美味くなかった?」
「だ、大丈夫です!ケーキもとても美味しいですし!その、緊張…してしまって。」

尻窄みになってしまった言葉もキチンと最後まで聞き取ってくれた野宮さんは少し驚いたような顔をしてまた笑った。

「いい加減慣れるかと思ったんだけどな。まだ緊張すんだ?」
「ただでさえ男性には慣れてませんし…何より憧れの野宮選手ですし…緊張しない筈がないと言いますか…!」
「その前に一応俺ら恋人なんだけどな。」

くつくつと笑いながら野宮さんの大きな手が私の頭を撫でる。少し乱暴な手付きに胸がキュンと高鳴る。私たちの立場上余り公の場ではデートが出来ずこうして家でのデートを重ねて何回目だろうか。キスだってした。緊張して硬直する私を野宮さんは何時でも優しく待って、緊張を解してくれる。手を繋ぎ、唇を合わせるのは心地良くて好きだ。

頭を撫でる手が滑り頬を撫でた。かたん、と音がして野宮さんが此方に近寄る気配があり、ぎゅっと目を瞑ると軽い音がして唇が重なる。直ぐに唇は離れて頬から手が離れる。それが何だか寂しくて目を開き手を無意識に掴んでしまう。

「…実ちゃん?」
「え、あ、す、すいません!」

慌てて手を離すと野宮さんは笑ってそっと指を絡めた。背は私の方が高いけれど手は断然野宮さんの方が大きい。関節が節だった男の人らしい手は私の好きな部分で触れる度に自分が女だという事を知らしめる、大きな手。思わずうっとりとその手を見てしまう。

「実ちゃん、そっち行っても良いか?」
「へ?は、はい!どうぞ!」

元気よく言えば野宮さんは一度手を離して隣に腰掛けた。それから「ん。」と手を差し出され、恐る恐る手を重ねれば指を絡めるように手が繋がる。じわじわと顔に熱が集中して鏡を見ずとも自分が赤面していると分かった。

それから他愛もない話をしたりしながら2時間ほど経ち珈琲も冷めた頃、野宮さんが動いた。野宮さんの方を見ようと顔を動かしたらまた唇が重なった。手を握る手に少し力が入ってしまったが安心させるように野宮さんの手に力が入る。

重ねるだけの口付けを何度かしていると野宮さんの手が離れ私の腰を抱いた。それからもう片方の手が後頭部を覆い、腰を引かれてゆっくりと押し倒される。視界いっぱいに野宮さん、それから蛍光灯の明かり。野宮さんの舌が私の唇に触れて催促されるまま薄く唇を開けば舌が入り込み私の舌を捉えた。歯をなぞり上顎を舐められるとゾワゾワとしてつい体が震えて、生温い舌同士が触れて絡むと濡れた感触が心地良くてうっとりとしてしまう。

ぴちゃ、と水温が響く。顎が馬鹿になってしまったように口の端からは飲み込みきれなかった唾液が垂れる。薄く目を開けば野宮さんの顔が近くて直ぐに目を閉じてしまいそうになる。縋るようにその首に恐る恐る手を伸ばせば腕を回すように野宮さんの手が動いた。顔の横に置かれた腕は逞しい。


どれくらい唇を重ねていたのか、気が付くと窓の外は真っ暗だった。力が入らずに為すがままになっていると野宮さんの唇が離れて親指で私の唇を拭う。

「…ごめん、おっさんの癖にガッついた。」
苦笑気味に私の頭を優しく撫でる野宮さんにキュンと胸が高鳴る。もっとして欲しいとすら思ったのにそれを伝えて良いか分からずに視線を泳がせて居ると野宮さんは笑った。

「え、っと…ごめん、トイレ借りて良い?」
「はい、大丈夫で…?えと、あの…」

恐らく気が付かない方が良かった。が、さっきまで密着していた為、気が付かない事は無理でした。ごめんなさい。

「野宮さん、あの…」
「ん?どうした?」
「……続き、しません、か?」

顔を見られたくはない一心で野宮さんの首に腕を回して抱き着きながら呟きのような小さな声で問い掛ければ野宮さんの体が硬直した。

「……実ちゃん、意味分かってる?」
「け、経験はありませんが私だって27ですよ。意味くらい、きちんと分かっています。」
「あー…いいの?」
「野宮さんに、貰って欲しいです。」
「そっ、か…うん、ありがとな。」


頭を撫でられて抱き締められる。縋りつけば野宮さんの手が私の膝と背中に周りひょい、といとも簡単に持ち上げられた。所謂、お姫様だっこ。重いだろうからと慌てて居ると野宮さんの唇が頬に触れた。

「俺だって男なんだから女の子1人くらい持ち上げられるよ。落とさねえから大丈夫。」
「お、おも…重いですから!」
「重くねーって。練習中筋肉ダルマ抱えてダッシュしてんだぞ?実ちゃんなんて軽い軽い。」

そのままゆっくりとベッドに降ろされる。それから野宮さんが私に跨るようにして目の前に顔が寄る。ドキドキし過ぎて胸が壊れそうだ。

「あ、あの…電気…消しても、いいですか?」
「あー…うん、良いぞ。俺的には消さなくても良いけど。」
「恥ずかしくて死んじゃいます…!」

野宮さんは一度立ち上がりカーテンを閉めてからまた此方に近寄る。野宮さんがベッドに上がったのを確認してからリモコンで照明を落とせば真っ暗な空間になる。

「…なあ、実ちゃん。」
「は、い…。」
「緊張してるとこ悪いんだけどさ、一個お願いしてもいいか?」

手が触れて手の甲を指先が撫でて、その刺激すら体には毒な気がする。野宮さんからのお願いに答えたくて必死に頷くと目が慣れたのか見えたらしい野宮さんが言葉を続けた。

「野宮さんじゃなくてさ、名前で呼んでよ。自由だと呼び難いだろうからゆうとかで良いからさ。」
「………ゆ、ゆう、さん。」
「…ん、好きだよ。実。」


その後の事は、私の羞恥心の関係でお伝えする事は出来ないけれど兎にも角にも私の憧れの選手はコート上じゃなくても格好良くて頼りになる、素敵な男性であるとだけお伝えしておこう。


きなこ