恋愛幸福論
大好きだって気持ちに嘘偽りはない。私が彼に夢中になったのは中学生の時で、ただのファンだった時間だけでも13年あって、そこからお付き合いをしてから約2年。15年って相当長いよなとか、生まれたての赤ん坊も義務教育を終えるじゃないかとか色々考えたら重すぎて自己嫌悪がして来た。ビックリした顔はしても引いたような表情をしなかったゆうさんの心の広さには感謝しか覚えない。私がその立場だったとしたら感謝を通り越して一抹の恐怖を覚えている。寧ろ怖すぎるだろう。人生の半分以上を追っ掛けされ…辞めよう、我ながら不審者過ぎる。憧れという感情だったとしても怖い。自分を客観視するのは大切だとコーチが言っていたけれど、これは違う。言えることがあるとすれば本当にごめんなさい、ゆうさん。
そんな風に1人で反省会をしつつも録画したサイエンスホールディングスの試合を再生してしまうのが私なのである。もう何十回と見た試合なのに毎回律儀にハラハラしてしまうのはファンの性だろうか。1度目はボールを追うのに必死になって、2度目からは選手の動きを追うのに必死になって…やっと試合自体に集中出来るのは3度目以降なのだから困ったものだ。ふと、画面にアップになった1人の選手。遠くから見て分かる大好きなその人に思わず一時停止をしてそっと画面に触れた。この背中が思っていたよりずっと大きいと知った時に私は何度目かの恋に落ちたんだっけ。
猫みたいな目、跳ねやすい少し癖のある髪、男の人にしては丸い輪郭、ボールを上げた時に少しだけ吊り上がる口角、チームを救う大きな手…少しだけ意地悪な時の顔も、私を軽々と持ち上げる逞しい腕も、困ったように私の頭を撫でる掌も、大好きな所はいっぱいある。この2年間でもっともっと好きになって、好きな所が増えて、知らない事を知って。小さなものから大きなものまで沢山の大好きで胸が埋まっていくのが少し怖いくらい。それだけ自分が自分じゃなくなるみたいで落ち着かないのに心地好いからまた困ってしまう。
「ゆうさん。」
思わず零れた彼を呼ぶ声に熱が篭ってるのが自分でもわかった。会いたいな。今すぐ彼に抱き着いて困ったように笑いながら髪を撫でて欲しい。私みたいに大きな女が飛び付いても少しも揺らがないのはもう知っている。チームに居ても、私の前に居ても頼り甲斐があるんだもん、本当に狡いなあ。
そのまま画面に釘付けになっているとピロン、と音がして思わず体を跳ねさせてしまった。バクバクと高鳴る心臓の辺りを抑えながら画面から手を離して携帯を取って、通知音の正体を見る。ゆうさんからのLINE?時間を確認するともう練習が終わる頃で、お疲れ様の連絡かとトーク画面に切り替えると凡そ想像通りの文章。
『今練習終わったよ。今何してる?』
『お疲れ様です!録画していた試合を見ていました。何かありましたか?』
返信をしてからすぐに既読が付いて、返信を待っていると画面が真っ暗になって、通話を知らせる画面に切り替わる。びっくりして思わず携帯を落としそうになったけれど何とか応答に触れて耳に当てる。声がひっくり返りそうになったけどそこは許して欲しい。
「は、はい!」
「ふはっ、突然ごめんな。今時間へーき?」
「う…大丈夫ですよ。どうしました?」
すぐ耳元から聞こえるゆうさんの声にさっきの通知音よりも胸が煩い。声聞きたかったからさ、なんて事ないように言われた言葉に耳まで赤くなるけれど電話だからきっと彼にはバレない。付けっぱなしのテレビを消してから目を閉じるとすぐそこにゆうさんが居るみたいで心臓は壊れそうなのに凄く落ち着く。膝を擦り合わせてから腕で抱え込んで、その声に集中する。ゆうさんの口から出るのはチームメイトや今日の練習の話で、でもひとつも聞き漏らしたくなくて。彼の声が聴けることが嬉しくて仕方なくて思わず口元が緩んで笑ってしまうのだ。
「ふふ、」
「実ちゃん?」
「…いえ、幸せだなあって。」
貴方は知らないでしょう、貴方が私の名前を呼んでくれるなんて言葉に出来ない程の奇跡なのだと。貴方は笑うでしょうか、他愛もない話をしてくれるのが私で嬉しいのだとそう思う事を。貴方は知らなくて良いのです、今の私の気持ちが幸せだなんてそんな言葉では表すことの出来ない程の気持ちだなんて。でも、私は貴方と一緒に居ることが幸せだと、それだけは知っていて欲しいなんて我儘でしょうか。
「……今日さ、泊まりに来ない?」
「へ!?」
「ダメ?」
ゆうさんにダメなんて言える筈ないでしょう、知ってる癖に。
「いえ、大丈夫ですよ。」
「ん、じゃあ迎えに行くから準備しておいて。ゆっくりでいいからね。」
わかりました、と返事をしてから1度通話を切る。少しだけ放心しかけたけれど慌てて携帯を机に置いてから準備を始めた。必要最低限に留めようと思うのに結局何だかんだと鞄に詰めてしまうのは何故だろう…。着替えを用意した所で下着を入れるのを忘れていた事に気が付く。下着を選ぶ時にやけに考え込んでしまうのは女の子特有なのだろうか。ふと先日雪ちゃんと買い物に行った際に購入した物を思い出してそっと手に取る。いや、でもこの下着黒なんだよね…重ねて普段使用している小さく見せるような性能はない。必ずしも見せる訳ではないとは分かっているのにどうしてこうも、いや、でも。一呼吸置いてからそのままポーチに詰めて鞄にしまう。下着、着替え、化粧品、ヘアワックス…ひとつずつ数えながら忘れ物がないことを確認してからチャックを閉めて着替えを見繕う時についでに選んでおいた服に着替えて軽く化粧をしておく。
準備出来ました、とゆうさんに連絡するとあと5分くらいで到着すると返信が来たので戸締りをしてから上着を羽織って玄関先の姿見で全身確認。よし、大丈夫。ヒールの低い靴を履いてから鞄を持って扉を開いた。
エントランスでポケットに入れた携帯が通知音を鳴らし、ゆうさんから連絡を知らせる。確認すれば到着したとの事で、慌てて外に出るとここ2年で見慣れた車が目の前に停まっていてゆうさんが車に凭れるようにして待っていた。少し足早に近寄ると此方に片手を上げてボストンバックを私の手から取りそのままトランクへと運んでくれる。いつも思うけれど、紳士的なんだよなあ。本当に私がこんな素敵な人とお付き合いしていていいのだろうか…。
「すいません、お待たせしました。」
「いやいや、俺今着いたとこだしね。ほら、乗って。」
そのままドアまで開けてくれる。どれだけ惚れ直せばいいのだろうか。なんて考えながら助手席に失礼させて貰うと私が乗り切った事を確認してから扉を閉めて運転席へ。声を掛けてくれて、ゆっくりと車が発進する。ここからゆうさんのお家まで車で10分から15分くらい。他愛もない話をしているとゆうさんが「あ。」と言葉を零す。首を傾げていると信号の停車に合わせてペットボトルの紅茶を差し出された。
「わ、ありがとうございます!」
「俺が煙草買うついでだし気にしなくていいよ。ちょっとぬるくなってるかもしんないけど…少しでもあったかい内に飲んでな。」
はい、と手渡されたミルクティーはまだ温かい。お言葉に甘えてペットボトルのキャップを開けて口をつける。甘いミルクティーにほっと一息つくとゆうさんが少しだけ笑っていた。子供みたいだったかな。ふとゆうさんは飲み物を買っていない事に気が付く。
「ゆうさんも1口どうですか?」
思い付くままに声を掛けてからハッとした。いや、これゆうさんに頂いた物だし、何より飲みかけだし!慌てて訂正する為に言葉を考えているとゆうさんの手が此方に伸びる。
「いいの?じゃあ1口貰おうかな。」
「……ど、どうぞ!」
私の心情を知ってか知らずか、ゆうさんは私の手からペットボトルを受け取りなんの躊躇もなく口を付ける。この年で間接キスだなんだと騒ぐのは自分でもどうなんだと思うので必死に平静を保とうとするけれど、口元に目がいってしまうからもうダメです。ありがとな、と手元に返ってきたペットボトルをどんな顔をして見れば良いかも分からずキャップを閉めてから両手で包む事しか出来ず、またなだらかに進む車内でゆうさんと言葉を交わしながら結局ミルクティーを飲むことは出来なかった。いつまでも処女みたいだな…なんて現実逃避をしながら、やっぱりゆうさんの顔は見れない。
ゆうさんのお家についてからまた他愛のない話をして、恐れ多くもご飯を作らせてもらって2人で食べて、軽く筋トレとストレッチをしてから順番にお風呂に入って。寝室に通されるのは未だに慣れない。慣れないというか緊張するというか…いや、それを慣れてないって言うんだろうけれども。ゆうさんが声を掛けてくれるまで1歩も進めないのは流石にどうかと思うよ、私。
「実ちゃん?」
「……すいません、いい加減慣れたいんですけど…。」
ゆうさんがベッドに座って笑っているのを扉付近で蹲りそうになりながら見ていると両手を広げてくれる。おいで、と少しだけ掠れたような声で言われると脳みそが溶けちゃいそうで、気合を入れてからそちらに向かう。目の前まで行けばゆうさんが腕を引いてくれるから何とかベッドに上がることができた。ベッドに潜り込んで抱き締められると凄い、どうしよう、ゆうさんの匂いに包まれて死んじゃいそうだ。数時間前に抱き着きたいとか思ってたけど実際こんな状況になって背中に腕を回すのに緊張がとどまることを知らない。国際試合前の方がリラックスしている気がする。ゆうさんは慣れない私に慣れているのか気にせずに抱き締めてくれるから、震える手で背中に腕を回した。
「ドキドキし過ぎで死にそうです、って顔してる?」
「…………はい。」
「ほんと慣れないね、悪い事してる気分になりそう。」
小さく笑って、その振動が伝わってくる。ごめんなさいの一言に尽きる、本当に。また1人反省会を開催しそうになっているとゆうさんが私の髪に顔を埋めるのが分かって、思考回路が止まる。
「実ちゃん、俺と同じ匂いする。」
「シャンプー、借りたので…それですかね?」
「かもな。」
ドキドキするけど、でも、やっぱり優しいなあ。私の緊張を解こうとしてくれてるのが伝わってきて、胸の奥がぎゅうっとした。好きです、大好きです。その気持ちが伝わって欲しくて背中に縋った手に力が入る。時間にして1分程、無言が続いた。ゆうさんが体を動かして触れ合った体が離れる。顔を上げるとゆうさんの顔が近くにあって反射的に目を閉じると鼻先にキスを落とされて、肩を跳ねさせると次は頬。顔中に優しく唇が触れていき、最後に唇同士が重なる。一瞬だけで離れた体温に思わず追い掛けるとゆうさんの掌が私の後頭部を包んでまた唇が触れて、何度も触れ合うだけのキスが続く。今度こそ、脳みそ溶けそう。優しい掌が服裾から潜り込んで肌に触れたのを合図に口を薄く開いた。
「ごめんね、あんまり可愛い事言うもんだから。」
「…うう。」
ベッドで素肌を合わせながら寝転んでまた言葉を交わす。今日のゆうさんは、なんか、えっちだった。最中の途中からもはや何を言っていたかも思い出せない。口をまごつかせているとまた笑っていて、その目がなんだか擽ったくて恥ずかしくて顔を隠そうとするとゆうさんの手が頬に触れる。じっと見つめられて、目が逸らせない。
「好きだよ、実。」
なんてことないみたいに、当然みたいに言うから。一方通行じゃないって、言ってくれるから。じわじわと目が熱くなって視界が滲む。ゆうさんはずるい、私が何を思っていても簡単に不安も全部吹き飛ばしてしまう。泣き出した私に呆れたりせずに親指で零れた涙を拭ってくれて、また名前を呼んでくれる。
「実は?」
「…好き、大好きです。ずっとずっと、ゆうさんだけが大好きです。」
貴方は知らないでしょう、貴方に名前を呼ばれる奇跡を。
貴方は笑うでしょう、貴方の話を聞ける喜びを。
貴方は知らなくて良いのです、貴方を愛することが出来る幸せを。
貴方に知って欲しいのです、貴方に与えられる幸せは言い表せない程の幸福だということを。
「ゆうさん、」
「なあに?」
「ずっと、好きで居させてください。」
そう言えば彼はまたなんでもない事のように言うのだ。その言葉がどれだけ嬉しいか、知っている癖に。
「うん、ずっと好きで居てな。」
散々泣いて甘ったれた私を彼はこれ以上ない程に甘やかして、そうして私達は眠りについた。隙間なんてないくらいぴったりと寄り添って。愛することの出来る幸せを噛み締めて彼に抱かれたまま眠った私はこれ以上ないほどの幸福者だ。触れる少し高い体温と、優しい香りにまた少しだけ涙が滲んだ事には気が付かないで欲しいな。
翌朝、起きた私の頬を包んで、黒も似合うねと言ってくれたゆうさんの言葉を理解して物凄い勢いでベッドに潜り込んでしまった。ゆうさんが楽しそうに笑って毛布を剥がして、真っ赤な顔をした私を見て悪戯っ子みたいな顔をするから、また私は何十回目かの恋に落とされたのだった。
/きなこ