春、先取り
優しい日差しが恋しくなるような冬の日。マフラーに顔を埋めてみても肌を刺すような寒さを紛らわせる事は出来ない。真っ赤になった指先に息を吹きかけてみるものの結局大した効果は得られそうにないので諦めてコートのポケットに手を入れて中に潜ませたカイロを握りしめる。それにしても寒い。やっぱり今日はタイツにして来るべきだった、と朝方の自分をやや恨めしく思いながらも足を進める。踏み出した右足の方から薄い氷が割れるような音がした気がしたけれど聞かなかったことにしておく。やっぱり朝は寒い。
「…さむ。」
気を抜くとそれしか言えなくなりそう。口に出した所で気温が上がるわけではないし意味をなさない事は重々承知ではあるが無意識に溢れるからどうしようもない。こんなに寒いのが悪い、私は悪くない。酷く冷えた指先を拳を握り込んで誤魔化す。気休めのもならないけど何もしないよりは良い、と思う。温かい缶コーヒーの一つでも買っていれば僅かな時間でも暖をとれたかもしれない。二月も下旬、こんなに冷えるなんて予想外もいい所だ。今日に限って天気予報すら見なかった自分が悪いのだけれど。
「菜津未ちゃーん!」
「んあ?」
背後から声を掛けられ首から振り向けばニコニコと笑顔を浮かべた優希がいる。コートから覗く脚は相変わらずハイソックスのみに覆われていてコイツは寒さを感じないのかと少しばかり不安になった。見えないはずの尻尾がブンブンと降っているようにすら見えて寒さで頭が可笑しくなったかなと遠い目をしてしまう。
「おはよ、優希。」
「おはよ!今日も寒いねえ。」
隣に立って歩幅を合わせる優希の鼻先は真っ赤でなんだか笑ってしまう。寒さは感じるらしい。ふと優希が私の顔を覗き込んで来たからなに?と聞いてみればふわりと笑みを浮かべて私より一回り大きな掌が私の頬を覆って冷たいね、なんて笑う。優希の手は暖かくて頬を擦り寄せれば猫みたいと頬を撫でる。朝からバカップル宜しくいちゃついてる自覚はあるが決して優希と私はそういう関係ではない。特別懐いてくれているとは思うけれど、優希が私を見る目は純粋な好意で、憧れみたいなものだ。自分が勝てない相手、挑みたい相手…そんな感じ。卒業を間近にした私は自由登校期間に入ってはいるものの今日は卒業式の予行練習だとかで登校日。最近は学校がなかったので優希と一緒に登校するのは久し振りだけどそんな事は感じさせないくらい、彼女は変わらない。
「あー、めんどくさ。」
「菜津未ちゃんが今日来るのが意外だよ。卒業式まで来ないかと思ってた。」
「こんなの友達に会いに行くだけでしょ。くるみと最近会ってなかったし。」
「えー!私は!?私に会いに来てくれたんじゃないの!?」
「いや、あんたとは家で会える。」
「そうだけど…ていうかなんで今日置いてったのさ!」
優希とは同じ家に住んでいる。とはいっても私は最近家にいる時間が極端に短かったから殆ど顔を合わせる事はなかったけれど。自分の勝手で拾ってきたとは言え、邪な下心を向ける相手と一緒に生活出来るほど私は大人ではないし紳士でもない。この一ヶ月、いっそ見事なまでに生活リズムをずらして優希とは殆ど家で顔を合わせていない。無論、そこまで馬鹿ではないので突然襲い掛かったりはしないけれど純粋に慕ってくれる人間に対してこんな欲を抱いている自分にうんざりはする。久々の体温に喜んでしまったがこれ以上は危険なのでその手からすり抜けて右足を踏み出した。首を左に回して置いてくよ、と声を掛ければ何故か手を見つめていた優希が慌てたように私を追い掛けてくる。
「ねえ、菜津未ちゃんって家出るの?」
「んー、大学になるし一人暮らししようかなとは思ってるけど…でも流石に実家にあんた残してく訳にはいかないでしょ。」
「や、やっぱ私家出るよ!」
「馬鹿ね。高校生一人で不動産にでも行くつもり?」
最初は連れて行くつもりだったがさてどうしようか。別にうちの父親は優希の事を気に入ってるし、アパートの一つや二つ用意してくれるだろうけれど優希は嫌がりそうだし娘が一人暮らしするんだから一緒に住めくらいは言いそうである。家を継ぐかどうかすら決まっていないがとりあえず進学希望は受け入れてもらえた。但し、成績の上位キープは勿論の事、一単位でも落とせば即中退で家を継ぐのが条件だったけれど。私の我儘で優希を家に住ませている事もあり、基本的に父親の言うことは絶対だ。というか、私が家を継がないなら優希に継がせるとか馬鹿な事を言っていたので私に選択肢はない気がするけど。何が悲しくて極道入りしなくてはならないのか…というか、継いだら見合い結婚か。政略結婚には違いないのでそこに愛もクソもないので関係ないけれど子供を産まなきゃいけないのは些か憂鬱である。その立場に自分が入るのは構わないが優希は巻き込みたくないな。
「菜津未ちゃん?」
「あ、ごめん。考え事してた。」
「大丈夫?難しい事考えてたでしょ。」
難しい事というか、なんというか。なんとなく口に出す気にはならなかったから家の事、とだけ言っておく。優希はうーんとか唸りながらぽつり、と呟く。
「菜津未ちゃんはさ、お家継ぐの?」
「多分ね。」
「……そっかあ。」
「嫌だな。」
「は?」
「だって、そしたら菜津未ちゃんは誰かと結婚しちゃう。」
ドキリとした。考えていたことを見透かされたと思ったのと、私が結婚する事を嫌だと思った事に浅はかにも揺らぎ掛けてしまう。いやでも落ち着け、どうせ優希の事だ。1番構ってくれる憧れの人間が離れてしまうのが寂しいとかそういう感じだろう。じゃなければおかしい。そんな、両思いだなんてあるはずないのだから。
「只の家のための結婚なんだから別にあんたに構えなくなるわけじゃないし良いじゃない、そこは。」
「……ない、」
「え?」
小さな言葉は聞き取れず優希の顔を見ようとすればその目は真っ直ぐ私を捉える。内側まで見られてるみたいに真剣な目。ごくり、と生唾を飲み込むと優希の手がコート越しに私の手首を掴んだ。
「良くない。菜津未ちゃんが私だけの菜津未ちゃんじゃなくなるなんて嫌だ。」
「なに子供みたいな事言ってるの。」
「子供でも良いよ。菜津未ちゃんが形だけだとしても他の人のになるなんて耐えられない。」
何を言っているのか。いや、もしかしたら優希の中で私は彼女を初めて受け入れた人間なのかもしれない。気分で言うのならそう、お母さんが再婚するのを嫌がる子供みたいな。頭では分かっているのに自分の好きな相手からそんな事を言われて動揺しない程、私は鉄仮面ではない。どうすればいいのかと視線を逸らすけど名前を呼ばれてしまうとそちらを向いてしまうから何の意味もない。さて、どうしたものか。
「優希、あんたそれ嫉妬みたい。」
「嫉妬だよ。」
「……本当にどうしたの。」
とりあえず手首を離してくれないだろうか。冷たい風に当たると氷のように冷たくなる事は優希だって知っている筈なのに。それなのに優希は手首も、視線も離さない。つり目気味の目に見つめられて小さく溜息が漏れた。
「分かってる癖に。」
「何がよ。」
「…私が菜津未ちゃんの事好きなの、知ってる癖に。」
「は?」
なんて言った?理解力が追い付かない。優希は拗ねたみたいに唇を尖らせてる。いや、待って。あんた私のこと好きだったの?だからそんな拗ねてるの?
「いや、初耳ですけど…。」
「え!?」
「懐いてくれてんのは知ってたけど…。」
「っ、そ、うだったのかあ…。」
優希がしゃがみ込む。髪の毛から覗く耳が真っ赤で何となく可愛い。こういう時どうしていいかわからないからとりあえず目の前にしゃがみ込んで優希の名前を呼ぶ。
「……ここ最近避けられてたから、バレてたのかと思ってた。」
「それ、は…その。」
「そうじゃないならなんで避けてたの。」
じい、とこちらを見る。その目は少し潤んでいて傷付けてしまった事を知った。でも、今実は両思いでしたとか言っても私の未来は変わらないのだから真実を言う事は優希の為にも私の為にもならないんじゃないだろうか。そこまで考えてぐっと息を飲み込む。
「別に、避けてないよ。」
「嘘。」
「…避けてたとして、優希はなんて答えが欲しいの?私も優希が好きだよって言っても、結局付き合えないよ。私は組を継ぐんだから。」
「二人で継げばいいじゃん。」
……何を言っているんだ、この子は。
「おじさんに、菜津未ちゃんが好きだって知られてる。」
「は!?」
「…菜津未が良いなら二人でって、言ってくれてる。だから、家の事とか考えなくていいから菜津未ちゃんの答えを頂戴?」
なんだそれ、私が知らないところでなんていう話が出てるんだ。ていうかなんで受け入れてるんだ、うちの父親は。情報過多過ぎて頭が追いつかないけれどいつまでも優希を待たせる訳にはいかない。…いいのかな、好きだって言っても。ぎゅうっと唇を噛み締めていると優希の手が手首を離してゆっくりと私の手を握る。
「菜津未ちゃん。」
「……ああもう、逃してあげらんないからね。」
「っ、うん!」
ぱあっと明るくなる表情に余分に篭った力が抜けた。いいよ、もう。どうせ好きなんだし親の了承を得る事にも成功してるし悩む必要はないか。養子だなんだの話にはなるだろうけれどそんな事はその時になった時に優希と一緒に考えればいい。立ち上がるように促して二人で手を繋いだまま、またゆっくりと足を進める。随分話し込んでしまったから遅刻決定だな。私は良いけど優希は大丈夫なんだろうか。
「あ、梅の花だ。」
「本当だ。もうそんな時期ねえ。」
「はは、しみじみしちゃうね。」
優希の黒い髪が揺れる。小さな梅の花と優希はなんだか似合ってる気がした。春といえば桜なんだろうけど、今日の日を忘れたくはないし梅の花も十分春の花だし。君が連れてきた春を手放さなくてはならない未来にならないように繋いだ手を握り直して引っ張った。
小さな梅の花と、大きな幸せ。暖かな胸で春先取り。
きなこ