酷く優しい男だと思った。触れる手はいつだって傷付けないようにと気を遣い、暖かい。愛される事を知らなかったこの男に愛を教えたのが自分だと思うと言いようのない満足感すら覚えるくらいには俺もこいつを愛しているのだけれど、どちらの愛が大きいかとか、そういう事は考えたことがない。だって、俺の愛と乃愛の愛は類が違う。

俺は割と平和主義な方なんだろう。過去の恋人からは平等愛だと言われた事がある。だからお前に愛されたとしても自分が特別だとは思えないのだと。酷く優しい癖に特定の愛情を寄越す事はしない残酷な奴だと。そう言われたのはもう何年も前の事だ。今でも友人としての付き合いはあるが数年振りに会った俺にアイツは言った。お前は変わったな、と。あの時は何を言っているのかと思ったが今なら分かる。そして、それは同時に自分の中で何かが変わったと自覚する瞬間でもあったのだ。愛される事は十分に知っていたし、愛する事もそれと同様に知っていた。が、特別な愛とやらを俺に教えたのは愛される事を知らなかった男だと言うのだから一層の事面白い。


付き合い始めて早くも四年、結婚してから一年が経った。時の流れは早いがそれを助長するかのようにここ一年は沢山の出来事があって、入籍したのがつい先日かのような気分になる。結局、三回はやる羽目になると言われていた結婚式は一度も出来ずにいる事に気が付いたのは数日前の事だ。なんというか、本当に凄いところに嫁いでしまったものだと笑ってしまう。別に入籍自体は終わっているので結婚式がしたいだとかそういう感情はない。嫁という立場といえど女ではないので憧れだとかそういう感情はない、一切ない。どうしてもやるというのであれば、隠居生活になった時にでも二人でひっそりやれればそれで良い。乃愛が俺と夫婦である事はもう認められているのだから。


「考え事?」
「んー、ちょっとな。」

くしゃり、と緩いパーマの掛かった髪を乱すように撫でてやるとなんだよ、なんて言葉だけは乱暴な癖に嬉しそうに笑うから愛しさが込み上げて前髪を掻き上げて丸い額に口付けを落とす。大きな掌が頬を包んで目を瞑ると唇同士が触れて何度も啄むように口付けながらくすくすと笑い合う。嗚呼、なんて可愛いヤツ。抱いてしまいたい気持ちが無いわけではないが、抱くよりも抱かれる方が好きだ。砂糖水よりも甘くて蜂蜜よりもとろとろとした愛撫は緩やかに思考を奪い、そうして乃愛以外は見えなくなる。その瞬間が俺は好きだった。愛しい人以外が見れなくなる、そんなのは幻想だと思って居たから。本当に予想しきれないというか予想の斜め上を行くヤツ。

「…龍はさ、多分オレが居なくても生きてけるよな。」
「は?」
「なんとなく、そう思った。」


唇が離れたと思えばそんなことを言うから目を丸くしてしまう。何言ってんだ、とは思ったけどそれ以上を言葉にするつもりはないのか俺の首筋に甘く噛み付きながら甘える。仕方ないので自分で考えるから噛むのやめろ、勃つ。

「俺、お前と離れるつもりないけど。」
「んー、分かってる。別れるとか言い出したらどんな事してでも止めるけどそういうんじゃなくてさ。」
「サラッとなんつー事言ってやがる。」

どういうことだろうか。愛するという事がどういう事を教えたのは紛れもなく乃愛だ。愛される事、愛する事を覚えたがそれは乃愛も同じで、そうならコイツだって同じように俺が居なくたって生きていける。確かに前にオレより先に死ぬなとか何とか言っていたけれども。駄目だ、考えたってよく分からない。何より思考の邪魔が続いている、寧ろ悪化している。首筋が熱い程の舌で撫でられてさっきから考えが上手く纏まらない。態とらしく筋を撫でるピアスが決定打。このままだと考えることすら出来なくなりそうなので体を離そうと身動ぐがあっさりと押さえ付けられる。

「なんで逃げようとすんだよ。」
「お前が言ってる事を理解したいから考えてえんだよ、首やめろ。」
「んー…。」


生返事かよ。とか思ってたら言葉にする気になったのか舌を這わせるのをやめて俺の髪に顔を埋めるようにして擦り寄る。背中に腕を回してやればぎゅう、と力が込められてぎゅうぎゅうと抱き締められる。甘えてんのか、可愛いなコイツ。

「…オレが今見てる景色とか、覚えた味覚とかは全部お前を通してだと思うワケ。龍が居なけりゃオヤジらと旅行とか考えらんなかったし、飯が美味いと考える事もなかったと思う。龍と会ってなけりゃ組が望む頭にはなれただろうけど、普通のっつーの?そういう人間にはなれなかったのかなとか、そんな感じ。」
「それで何で俺がお前が居なくても生きれるになんだよ。」
「だってオレが龍にやれた事ってないだろ。形に残る金で買えるモンなら幾らでも与える事が出来るけど目に見えないモンとか、そういうのはオレはお前にあげらんねぇじゃん。生活の一部をっつーのは、オレには無理だし。」

どうやらごちゃごちゃと色々考えているらしい。口にして頭の片隅に留めておいた形のないあやふやだった筈の感情が不安だと自覚したのか深い溜息を吐き出して俺の肌に触れる。さて、なんて返すのが正解なのか。


「つまり?」
「オレはお前が居ないと生きてけないから捨てるな。あと龍もオレがお前に執着してるのと同じくらいオレに執着しろ。」
「命令かよ。」

くつくつと喉で笑えば乃愛が拗ねたみたいな顔をしてこっちを見る。笑うのを辞めて乃愛を抱きしめるようにしながらうーんと考える。別に捨てるとか捨てないとか、そういうのは考えた事はない。いや、一回本気で離婚届は書いた事あるけどあれは仕方ない。不可抗力だ。普段はそんな事を一切考えないし、寧ろ執着しているのは俺の方だと思っていたからそんな風に考えているとは、とどこか他人事のように考えてしまう。柔らかな髪に触れると乃愛が目を合わせて来る。エメラルドグリーンの瞳はまだ拗ねてるみたいな色を灯しているからそっとその近くの泣き黒子に口付けを送った。

「俺別に、お前が居なくても生きてけるとかじゃねえよ?お前が死んだとかなったら後追いしてやるつもりだし。」
「ふうん?」
「それと、お前は自分は目に映らないものはあげられないとかいうけど愛情とか執着とか、そういうのも目に見えるもんじゃないだろ。俺は乃愛がくれる愛情とか、そういうのがあるから強く在ろうって思えるし頑張ってるつもりだけど。」

そう言えば乃愛はまだ納得していないような顔でふうん、と漏らす。なんと言えば今思ってる事がそのまま丸ごと伝わるのかは俺にはわからないけれど夫という立場であるコイツが不安だと言うのであればそれを拭いたいと思うのは妻としては当然の心理なわけで、あまりない語彙力の引き出しを開けていく。博愛主義だなんて綺麗なものではない、乃愛に向ける感情は決して全てが真っ当なものではない。独占欲だってあるし理不尽な感情を抱く事も少なくはない。でもそれを伝えてもコイツが望む答えになるとは到底思えなかった。ではどうするべきか。

「目に見える変化は確かに乃愛のが大きいかもしんねえけどさ、俺だって確かに変わった。特別なんてないと思ってたけど俺の中じゃやっぱりお前は他と違う。他の人がした事なら許せる事もお前がしたら怒るような事もあるし、その逆だってある。お前にしか許さない事とか。優しさが愛情の全てじゃないだろ?対等だと思ってるから俺はお前に怒る時はあるし喧嘩になる事もあるだろうよ。それが悪い事とは思わない訳ね。」

やべえ、何が言いたいかわかんなくなってきた。特別って事が伝えたいだけなんだけど。

「お前んちに嫁いだ以上、弱音とかそういうのは外で漏らしちゃダメだから必然的に狭い世界で生きてかなきゃいけなくて、でもお前は俺が店やってんの許してくれてるじゃん?そういうとこで愛されてんだなーってのは思っててさ、じゃあ俺も何か返したいって思う。出来るなら何倍にもして。そんで、その返した分をお前が喜んでくれるんならいいなーとは思ってる。だからつまりアレだ、うん。」
「どれだよ。」
「うっせ、自分でも何言いたいかわかんねえんだよ。」

乃愛はくつくつ笑って俺の髪を撫でた。ゆっくりでいいよって穏やかな声音を耳元に吹き込まれて少しばかり焦りは拭われたが一瞬思考回路はぶっ飛びかけたから良かった事なのか悪い事なのかいまいちわからないが。一つ息を吸い込んでからバラバラになった言葉たちをなんとか形にしていく。大事、特別、愛。伝えたい言葉は沢山あるのに上手に伝わる気がしない。さて、どうしたものか。

「じゃあさ、オレが聞くことに答えてよ。」
「ん。」


「オレと出逢ってなんか得した?」
「得とかは考えた事ないけど、世界が広がったとは思う。固定概念が無くなったっつーか…大事な人っつーのがどういうもんなのか知ったかな。」

「嫌な思いした事は?」
「自分の心の狭さを自覚してうんざりする。」

「一番嫌な思い出は?」
「お前が怪我したの隠されたヤツ。お前が悪い訳じゃないけどこれはまだ許してねぇからな。」

「嬉しかった事はある?」
「数え切れねぇ程あるけど一番はお前が源二さんやアレックスさんと和解出来たこと。」

「オレの好きなとこ10個教えて?」
「欲張りかよ。えーっと…我儘な癖に変なとこ臆病なとこ、俺の事優先してくれるとこ、ガキみてえなとこ、甘やかすの上手ぇとこ、体調崩した時に俺にだけ甘えに来るとこ、頑固なんだか柔軟なんだかわかんないとこ、人嫌いの癖に俺には傍に居るのを許してくれるとこ…今何個だ、あと三つか。あー…対等に扱ってくれるとこも好きだし、抱き締める時に頭撫でてくれるの、最後は…俺が良いって言ってくれるとこ。」

「嫌いな所は?」
「嫌いっつーか、一人で抱え込もうとするとこと頭に血がのぼると周り見えなくなるとこはいけ好かねえ。偶に言葉が足りない時はあるけど嫌いって程じゃねえしな。」

「オレに愛されてる自覚ある?」
「愛されてないなら今ここには居らんねぇだろ。お前のモンっつー自覚もちゃんとあるよ。」

「オレのこと好き?」
「愛してるよ。それはずっと変わんねえ。」

「じゃあ最後な、今夜抱いてもいい?」
「久し振りだから沢山愛してくれよ、ハニー?」


悪戯っぽく笑う乃愛の首に腕を回して揶揄うみたいに、戯れみたいに唇を重ねた。付き合って四年、一緒に住んで二年半、夫婦になって一年。まだまだ共にした時間は短くてお互いが相手の全てを理解することなんか出来やしないけれど伝える手段は何も言葉だけではない。タチ専だった俺がお前にだけあんな姿見せるんだからそれはもう立派な愛情表現ってやつだろう。愛だの恋だの、それは決して綺麗で幸せな事ばかりではない。自分の醜さを知り、伝わらない感情を持て余して胸を傷める事だってある。それでも、お前がそれを受け入れてくれるというのなら悪いことばかりではないのだ。

「乃愛からはないんだな。」
「言わなくてもわかってる癖に言わせてぇの?」
「聞きてぇよ、俺はお前がくれるもんなら全部欲しい。」
「一番熱烈じゃん。…愛してる、龍。」


そんな、年に一度で人生に一度しかない結婚記念日の話。


きなこ