神より清い男
暴力表現含む
別に難しいようなことはない、小競り合い。別に彼を行かせる必要性は感じないが暇だから行くと聞かない男を見送り、数時間。戻ってきたと報告を受けて彼と同行した部下と並んで私の部屋の扉を叩いたのが数分前。目の前には右肩から腕の半ばまで裂けた、それを手当てもせずに傷を剥き出しの彼と、多少の砂埃程度が付着しているだけの見慣れない顔をした部下であろう男。
「ボス、報告なんだが…。」
「そんなものはどうでも良い。その傷は?」
「あ?…ああ、ちょっと掠っただけだ。」
肘をついて指を組み、部下の一人を見れば居心地が悪いとばかりに視線を散らばせ落ち着かない様子で、ちらちらと彼を見ては口をまごつかせる。…うん、そうか。一人で納得すれば机に掛けた杖を手に取って立ち上がり二人の前へと歩む。そうして、背筋が伸びた名も知らない部下の顔面を目掛けて杖を振り落とした。鈍い音が部屋に響いて、隣で彼が頭を抱えるのを視界の端で捉えたけれど仕方ないよねぇ。杖で脚を打ち、痛みで膝をついた部下の顔面に膝を叩き付けてもう用事のない杖を放り投げた。顔面を覆って何やら言葉にならない事を言っているけれど、何を言っているのか此方が受け取れなければそれは言っていないのと同義。そのまま肩に足を掛けて後ろへと倒し、膝で鳩尾を抑え込み殴打を繰り返す。しまった、手袋が汚れた。それでも掌の傷を彼以外に見せるつもりはない、後で変えれば良いか。呻き声のようなものを上げていた筈のソレが反応を示さなくなったので、一度立ち上がって思い切り踵で喉元を踏みつければ漸く反応を示した。数分前とは随分見た目が変わってしまったような、否、こんなものだったか。喉が潰れたのか口から聞こえるのは変な音で、もうぴくりとも動かない。呆気ない、水でも掛ければその意識を取り戻すか。視線を散らばせるも手頃そうな物は視界に入らない、さてどうしたものかと思ったタイミングで頭を抱えたままの彼が口を開く。
「…おい、やりすぎじゃねぇか。」
「野良犬がいつから私に意見出来るようになった?」
間髪入れずに返してやれば彼の表情に怒りが滲む。そうだねぇ、お前は私に野良犬扱いされるのが一等嫌いだから。それでもコレは私が一番嫌な事をしたお前への罰だよ。
「私は十分に躾けたつもりだったんだけれどね。幾ら噛みつこうが引っ掻こうが、可愛い私の犬ならばと甘んじて受けて来たつもりだよ。…けれど残念だが躾が足りてなかったようだ、お前にも仕置きが必要だねぇ。」
カツン、カツンと彼に近寄る。怯え等の感情はなく、先程私が野良犬呼びしたことに余程怒っているようだ。そもそも普段なら私が何がしようが彼が止める事は一部を除きない。何故今日、このタイミングで止めに入ったのか。苛立ちが止まることもなく。体格差を含め私が彼に勝る物はない、だが、力なんて関係ない。わざと使えない脚を軸にすれば彼は私に何も出来ないのだから。ゴッ、と鈍い音がして関節を蹴られ片膝を付いた彼の頭を踏みつける。力が入らない、使い物にならない脚だが彼にばかりは良く効く。
「私は自分の所有物に自分以外が傷を付けるのが許せないんだ。お前が一番よく知っているだろうに。」
「っから、話を…、」
「ローランド、お前は犬の中では賢い部類だと思っていたよ。それは群れで生きてきた故の賢さだろう。…けれど此処まで私の機嫌を損ね続けるのは才能なのかな?」
ぐり、と踏みつける脚に力を込める。この程度の力ならひと払いだろうに、己の残した傷だからと振り払えない馬鹿で健気な男だ。少しばかり気分は晴れるが腹の奥で燻るドス黒い感情が全て晴れることはない。別段自分の物を痛め付けて喜ぶ趣味はないのだけれどねぇ。…従順なだけの犬も要らないが馬鹿なだけの犬はもっと要らない。ああ、でも此処で媚びない辺り馬鹿なだけではないのかな。少しは私の性格を理解しているようだ。ぐ、と彼に見えるように手袋の端を噛んで外して焼け爛れ皮膚の引き攣った掌の傷を見せてやると唇を噛み、眉根を寄せる。
「私はお前だけを愛しているよ。他の人間がどうであろうと構わないと思っている。けれどね、目に余るのなら私は愛するお前に躾をし直さなければならない。わかるね?」
「っ、オレは、」
「お前への躾は何が一番効くんだろうねぇ。ローリーのようにお前自身を痛めつけてもきっと反省しないだろうなぁ。…ああ、ハロルドやアルジャーノンのようにするのも手か。私が傷を負えば少しは反省するのかな。例えばこの傷のない方の目、コレを抉り出してお前に食わせるのはどうだろう。」
「やめろ…!」
「私の犬だという自覚がまだ足りないお前が悪い。」
手袋のついたままの手を自分の眼球に伸ばし、眼窩へと指を食い込ませれば足元で大人しくしていた彼が勢いよく立ち上がり、私の両手首を抑える形で倒される。今は背中を打ち付けた痛みすら感じない。ただ、私の上に跨り息を切らし必死になる彼の姿に満足感すら覚えた。
「やめろって、言ってんだろうが…!」
「野良犬風情が私に何を意見する?」
「オレはお前の犬だ…!」
「なら何故私の知らぬ場所で、何処の誰とも分からない相手に傷を付けられている?それともその傷が私にどう思われるかわからなかったと?お前が?そんな馬鹿な犬なら要らないよ。」
「悪かった、もうしねぇから、…だから、やめてくれ。」
私の手首を掴む彼の手が震えている。それはどんな感情なのか。揺れるオパールグリーンの瞳をぼんやり眺めて、深く息を吐き出す。抵抗する気はないので力は最初から入れていない、それでも彼が手首を掴む手を緩めるつもりはないらしい。
「ローランド。」
「…なんだよ。」
「愛しているよ。」
突然の私の言葉に一瞬力が緩む、そのまま体勢をひっくり返して逆に押し倒して様々な感情を混ぜこぜにしたような表情を見下ろす。随分と久しく晒していなかった素肌で頬を撫でれば、大きく体が弾む。このざらついた感触で彼に触れるのはいつ振りだろうか、息を呑むのが分かる。いつだかに彼の無茶で負ったこの怪我をどう思っているのか、聞いたことはない。というよりも、聞く必要すら感じない。その程度で離れる相手ではないと知っている。それは私も、ローランドも。
「頼むから、…もう自分の体に傷を付けるな。」
「それはお前次第だねぇ。」
「もう下手はしねぇ、お前のモンに傷は付けねぇ。」
「…良いかい?私の作ったここの中で私のものはお前だけだ。他は有象無象に過ぎない。」
「そういう所は直せ。」
頬に触れた手に彼の唇が押し付けられる。気持ちの良い物ではないだろうに。まあ、私にとっては飼い犬の残した愛しい噛み跡に過ぎないが。傷へと口付けたまま、吸い上げてキスマークを付けたのだろうと思う。普段は傷どころか、跡の一つも残さない彼がこうして跡を残すのは気分が良い。ゆっくり立ち上がるが無茶したからか脚が痛む、放り投げた杖を探すがそれよりも前にローランドが私の前に自分の意思で跪き、彼の立てた膝に靴ごと乗せて私の存在価値の薄い脚へと口付ける。ふらつかない程度の時間でソレは終わった。
「野良犬だった俺を人間にしたのはトニー、お前だ。…また薄汚ぇ野良犬に戻してくれるなよ。」
「……そうだねぇ、お前が望むのなら私はそう在れるようにしよう。」
「脚、動かねぇだろ。あんま無茶すんな。」
ひょい、と抱えられてソファへと運ばれる。私がボロ雑巾にしたソレを一瞥すれば彼はさっさと別の部下を呼んで処理させていた。呼ばれたハロルドとアルジャーノンはローランドと私を見て、そのまま軽い会釈と共にボロ雑巾をどっかに持って行ったのでソファに深く腰掛ける。落ちていた杖を彼が持ってきて、私の手の届く範囲へと置く。少しひしゃげてしまったが、まあ別段問題もない。なんなら予備もある。正面のソファに乱暴に座った彼へと視線を向ければ、ジッと此方の意図を探るような目をしている。いつも通りの彼のようだ。
「…報告しても?」
「構わないよ。」
つらつらと並ぶ、低い声で紡がれる言葉たちをぼんやり聞きながら、彼を見る。あの傷は残るだろうか、残ったら許せる自信がないなぁ。さっさと報告を終わらせて朝陽の所に行かせたいのだけれど。私に残る傷なんてどうでも良い、その他大勢がどんな目に遭おうと私の眉は一つも動かないだろう。それでも、この犬が傷を作ってくるのだけはどうにも許せない。私に出逢う前の、既に残る傷にすら胸の内を言いようのない不快感が占めるというのに。ああ、そういえばジェリーの所に良いのが居た気がするなぁ。彼に貸しを一つ作るとしても綺麗に治させるべきか。
「おい、聞いてんのか。」
「聞いているよ、無事終わったのだろう?」
「…結果しか聞いてねぇだろ。」
呆れた顔の彼を一瞥し、いつの間にか用意されていた新しい手袋を手に取る。返り血が付着していて不快だったので変えようか、汚れた手袋はそのまま床へと放り投げた。もう片方もその辺にあるだろう。…ああ、後で汚れたカーペットを変えなくてはならないか。視界に入れる度に不快感が胸を占めるだろうから彼に明日にでも変えてもらうよう手配させるとしよう。
「カーペットは変えておいてくれ。」
「はいよ。」
「それから、今夜は私と眠るように。」
「寝かせる気ねぇヤツだろ、それ。」
「いいや?さっきので溜飲は粗方下がったからねぇ。抱く事は否定しないが、乱暴にはしないから安心して良い。」
「…一番安心出来ねぇな。」
「それより、機嫌取りの仕方は教えた筈だが?」
背凭れに体重を預けてそう言えば、彼は悔し気に唇を噛み眉根を寄せる。さっさと終わらせれば良いものを。それ以上はなんてことない顔して受け入れる癖にこればかりはどうにも慣れないらしい。
「折角カーペットを新調するんだ、今からお前の頭にアレを被せてもいいんだよ?」
「っ、だぁ!する!すりゃ良いんだろ!」
ちらりと視線を寄越した、私の気に入りのウイスキー。カーペットや自分が濡れることではなく、私の好んだソレが無意味に捨てられることを厭うらしい。訳の分からない男だ、と喉元まで出かけた言葉を飲み込んで急かすように机を指先で叩く。ローランドは書類の束を机に乱暴に放って、私の目の前に立つ。そこから長いのだけれど今日はこれ以上の催促はしないと決めて、赤茶に縁取られた睫毛を見る。あーだのうーだの、そんな事を言いながらも結局86秒の時間を掛けて、彼は私の足を跨いで膝で立つ。体格的にも体勢的にも、私は見下ろされる側だ。私に体重をかけないようにと注意を払っているようだが、別段問題はない気もする。が、急かさないと決めたのは私だからね。ゆっくりと彼の好きにさせることにする。
「…目、閉じろよ。」
「知らぬ内に随分と我儘になったものだねぇ。」
強請る通りに瞼を伏せてやる。どうせここからも長いのだ。だが、その予想を上回りすぐに彼の厚い唇が私の唇に触れる。厚みのある柔らかな唇、本当は今すぐにでもこじ開けてしまいたいが、今はその時ではない。ティーンでもしないような、触れては離れる程度の口付けが幾度か落とされた後、不意に彼の唇が私の目元の傷へと触れる。一直線に伸びたこの傷が一体いつからあったものかは明確に覚えていないが、彼は触れる程度の口付けを傷の上から下まで、きちんと行った。そうして漸く、私の首に腕を回して額を押し付ける。体重を掛けないように、慎重に。別に彼が座ったところで…とは思うが使い物にならない脚への配慮もあるのだろう。私は私の傷に無頓着だが、彼は私の傷を特別労わる。…きっとこれが正しく愛するという事なのだろう、と頭では理解していても自分がそうするかと言われればそれは無理だと断言できる。自分で言うのもなんだが、私の愛は非常に重く薄汚い欲の果てだ。彼のする、無垢な愛とは異なる。故に噛み合わない。…ああ、昔そんな話をしたら、ジェイクがそれはそれは嫌そうな顔をして私のコレは天性のものだから死んだとて直らないと言っていたっけ。
「優しく甘く、蕩かされるような愛をお前は望むかい?」
「絶対いらねぇ。」
見えていなくてもどんな表情をしているのか理解出来て、くつりと喉を震わせる。可哀想なローランド、愛の何かを知らない男に愛され、執着され所有される、哀れな男。いつでもこの手を払い己の生き易い群れを作れるだろうにそれを選択しない。その意図はわからない、逃げられる算段もないのにやるような男ではないから行動に移さないだけかもしれないが。…私を殺すのも、この男なら容易い筈。それをしないことが意味する、その理由は。
「今日はどう楽しませて貰おうか。」
「…いつも通りで、いいだろ。」
「それじゃあ面白くない。…そうだねぇ、今夜は私がお前の好きな場所を語り、愛でるなんてどうだい?」
「ぜってーやめろ。」
食い気味に答える辺り本当に嫌なのだろうが、そう言われるとやりたくなるのが男の性というもの。私の機嫌を損ねるのと同じくらい楽しませるのが得意な男だ、と笑えば苦虫を潰したような顔をする。夜が楽しみだねぇと、それだけ言って相変わらず無防備に晒された首筋に思い切り噛み付いた。