ガンッ!と何かが壁にぶつかる音が鼓膜を揺らす。驚いて肩を弾ませる間もなく、叫び声が聞こえて来て何事かと音が聞こえた方向へと足を進めた。喧嘩、だろうな。大凡の原因は想像に容易いけれどだからといって放っておいても仕方がない。本当は音の方向じゃなくて教師を呼びに行くのが正解なのだろうけれど、入学して数日の私が頼れる教師が誰かなんて知りもしないし。担任教師は女性で、喧嘩に巻き込むべきではないだろう。否、そんなことを言ったら私が向かうのもアウトなんだけど。
そろ、と部活棟の裏を覗き込むと背が高い二人組が見えた。白い髪が重力に逆らいそこかしこに散らばるやけに背の高い男と、白い男程ではないが背が高く体付きが逞しい男。何故目に入ったかといえば、その二人が先輩と思われる男子生徒を蹴り飛ばしていたからである。いや、めっちゃ飛んだ。白い人細いのにどこにそんな脚力を隠してるのか。制服を着崩しているから何年生かも分からず、かと言って此処で見守って居ても…足蹴にされた男子生徒が呻き、ぼんやりと此方を見て、唇が小さく動いた。
「先生!こっちで喧嘩してます!」
出来るだけ、響くように。身を隠してからそれだけを意識して声を上げる。叫んでからすぐに窓の空いた教室へと飛び込むようにして入り、向こうから見えないようにと身を潜めて声を殺す。少しすれば私の声が聞こえたのか、走るような足音と低い怒声が聞こえた。とりあえず、数名の男子生徒の救出に成功したらしい。別に助ける義理はないのだが、あのままだと死にそうだったから。結果的にあの二人組が前科者になるのも防げたので、まあ、上々だろう。そういえば飛び込んだこの部屋は、と視線を彷徨わせるとどうやらただの空き教室だったみたいで、胸を撫で下ろす。窓から飛び込んでも叫び声が上がらなかったから人がいないだろうとは思って居たけれど、悲鳴すら上げられない程に怯えさせてしまった訳ではない事も確立した。
特に意味はないけれどスカートを払ってから立ち上がる。さて、待たせてしまっている二人と合流しなくてはいけない。適当な言い訳を考えながら扉に手を掛けると鍵は掛かっていなかったのか軽い力でそのまま開く。と、同時に。目の前に誰かがいる。この教室に用事でもあったのだろうか、空き教室なら不良の可能性がある。制服を着てるから教師の可能性はないなぁ…なんて思いながら顔を上げて、息を呑んだ。
さっきの、白い人。
「君でしょ、さっきの。」
「……はあ。」
「なんで邪魔するかなぁ、楽しくなって来てたのに。」
軽く肩を押される、転ぶ程じゃない。ただ、教室内に戻される程度の力だ。明らかに不良の類いであるこの男と空き教室に二人きりとはなんとも危険ではあるが、走って逃げる余裕はなさそう。そもそも目の前に居るのは一人だけだから、逃げた先でさっきの黒い方が待ち構えていたらと思うと得策とは思えない。まあ、殴られるくらいで済むなら良いかと諦めにも似た感情で教室内へと戻る。というか、馬鹿みたいに長い脚でどんどん距離を詰めて来るから反射的に後ろに下がってしまうのだけれど。トン、と壁に背中がついてとうとう逃げ場がなくなったのだと知る。どういう道を使ったら目の前に現れることが出来たのか少し気になる所ではあるけれど確実に今考える事ではないからこれは後回し。一年には知られてない最短ルートがあるとかそんなのだ、きっと。あ、じゃあどのみち逃げたとしても捕まるのはすぐか。意味ないな。
「聞いてんの?」
「…聞いてますけど。」
「じゃあ返事。なんで止めたわけ?」
漏れそうになった溜息を飲み込んで顔を上げる。私も女としては背が高いけれど、頭ひとつ分は大きいから見上げるのも首が辛い。幼馴染よりも背が高いのは珍しいというか、慣れないというか。サングラス越しでは目元はよく見えないけれど、この辺りには違いないと視線を合わせる。
「邪魔したつもりはありませんよ。ただ、助けてくれと、目が合った人に言われたので。」
「は?」
「ですから、目が合った人を優先しただけです。結果、そちらの邪魔になったのかもしれないですけど。」
明らかに苛立ちを含んだ表情。でもその目は慣れてる。そのまま目線を逸らさずに居たら避ける間もなく利き手側の手首を掴まれて、コンクリート剥き出しかってくらい硬い壁に押し付けられた。普通に痛い。まあ、この硬さに頭を打ち付けられるよりかはマシ。
「君さ、僕のこと知らないの?」
「入学したばかりなので残念ながら。」
「ふうん。」
ぐ、と押し付ける力が強くなって堪らず眉間に皺を寄せる。小さく漏れた声も目の前の男は気にしていないようで身を屈めてこちらを覗き込む。身長差は結構ある筈なのに目の前に顔があるのはなんだか不思議だ。黒いレンズ越しなのにそれを感じさせない程の威圧感。
「女殴るのあんま好きじゃないんだよね。」
驚く程冷たい視線が私を捉える。ぞくりと背筋が凍るような、そんな感覚を覚えたけれど唇を噛んで震えそうになる脚を堪える。気を抜いたら崩れ落ちてしまいそう、でも、
「慣れてるので、気にせずどうぞ。」
強がりだ。強がりでしかない。先程見たばかりの鮮明な記憶から私を襲う痛みが慣れたもの以上な事は十分に分かっている。それでも、此処で謝ったり媚びたりすれば先程の行為を更に咎められる結果になるし、最低でもこの先この人が卒業するまで玩具にされて終わるだろう。それは、困る。これ以上姉夫婦に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。顔さえ避けてくれれば姉さんにも義兄さんに気が付かれない筈だし、この人も女を殴るのが好きではないのなら態々顔を狙ってはこないだろう。ギリギリと痛む手首はきっと痣か跡になる、でも、瘡蓋や腫れ以外なら何とでも誤魔化せる。嗚呼、でもあの幼馴染たちは…騙せるか、微妙だな。
「逃げようとしないんだ。」
「逃がしてくれるんですか?」
「まさか、僕怒ってるもん。」
面倒くさい、さっさと殴るなり蹴るなりしてくれたらいいのに。怒っていると言葉にするし視線もそう訴えているのにいつまでも行動に移さないのは私の謝罪待ちなのか。ごめんなさいと言わせてから許すわけないだろうと殴り掛かるつもりか。成る程、それは確かに絶望感が増すかもしれない。
「君みたいなタイプって殴るより犯す方が反省すんのかな。」
「……こんな所でレイプですか、良い趣味ですね。」
片膝が脚の間へと押し込まれて完全に身動きが取れない。正気か、と思うけれどさっきまで殴る蹴るの暴行に勤しんでいた男にいくら常識を説いても理解される気がしないが。別に初めてだからなんだと言うつもりはないし、訳の分からない男に囲まれて数人相手じゃないだけマシかもしれない。普通に生きていてそんな展開になるのかはさておき。この人が弱ければとっくに自由な片腕でブン殴って窓から逃亡するんだけどなぁ。身長に見合った大きな手が胸元に触れる直前、ぴたりと動きを止める。
「やめた。」
は?と言う前に手の拘束が解かれる。じくじくと鈍い痛みを残したまま自由になった手はそのまま重力に従って落ちる。張り詰めていた緊張が解けて脚の力が抜けて情けなくへたり込む。男の脚はいつの間にか抜けていたらしい。壁に背をつけたまま座り込んだ私の正面に男は座る。ヤンキー座りだ、なんて思ったのは現実逃避。
「名前は?」
「……愛染ですけど。」
「違う、下。」
「喜雨。」
「学年とクラスは?」
「1のC。」
こんな不良になに素直に答えてるんだ、と思う自分もいるが圧が凄くて誤魔化したり出来ない。隠した所で校内、上履きのラインで学年はどのみち誤魔化せないし、いつかバレるのも目に見えている。
「僕は五条悟。3年A組。」
「……はあ。」
「僕、君が気に入っちゃった。」
「は?」
こればっかりは本当に、無意識に漏れた。聞き返すにしてももうちょっと違った言葉があっただろうけどそんなもん出てくる筈もなく。目を瞬かせていると目の前の男、五条先輩の指がサングラスに掛かる。細い髪が僅かに掛かった瞳は宝石みたいに輝いていていつだかの図鑑で見たものによく似ていた。なんだっけ、パライバトルマリンとかいうやつだった気がする、なんて、ぼんやり思った。
「僕の彼女にならない?」
気に入った発言も理解が及ばないのに続いたものが更に頭を横からブン殴られたくらいの衝撃を持っていて、意味がわからな過ぎてそろそろ脳内のキャパシティが超えそうだ。とりあえず、兎も角、何はともあれ。助けて、幼馴染たち。
あまりの事に先程までの現実逃避が嘘のように思考回路が途絶えていると作り物みたいな綺麗な顔が目の前まで迫り来る。僅かに傾いた首に男が何をしようとしているのかワンテンポ遅れて気が付き反射的に目の前の肩に手を置いた、瞬間、
「おい、クズその一。」
開いたままの扉から聞き慣れない女性の声。ぴたりと動きを止めた男は私の手首を今度は柔らかく包み、…おい、なんでまた掴む。振り返っている間にさりげなく声の方向へと視線を向けた。気怠そうな表情で特に動揺もなく私たちを捉えている。あの人誰だ?声を掛けてきたところを見ると多分三年生、五条先輩の友達かなにか。だとしたらあの人も不良?助けを求めたいけど、ていうか今クズって呼んでなかった?
「硝子じゃん。」
「夜蛾センが呼んでるぞ。」
「え、クズその二は?」
「そのクズその二がクズその一を呼んだんだよ。」
クズクズ言い合ってる二人にそろそろクズがゲシュタルト崩壊しそう。すっかり役目を投げ出していた思考回路をなんとか持ち直す。多分、多分だけどクズその二とやらは先程の黒い方だろう。私が呼んだ教師に捕まって、そしてこの男が呼ばれていると。成る程、じゃあこれは私が私のことを助けたって事だな。とかなんとか、無駄な事を考え込んで居たら五条先輩は「早いなぁ」とか言いながらまた私の方に向き直った。腹が立つ程綺麗な顔が私を見る。いや、そういうの良いんでさっさと手離してどっか行ってくれ。
「仕方ない、今日はこの辺で終わっとこうか。」
「今日はってなんですか、次会った時がお前の命日的なヤツですか。」
「んなわけないじゃん、僕の話聞いてなかったの?」
なんの事だ、って考えてたのが表情に出てたのか五条先輩は口角を釣り上げて笑う。嫌な予感がして逃げようとしたけれど逃げ道は完全に封鎖されているし何より手首を掴まれてるしで逃げようがない。そうして藻掻く間もなく、男の人にしては厚い唇が私の頬に押し付けられて間抜けな軽いリップ音が部屋に響いた。なんで?
「付き合ってって、言ったでしょ?」
言われてないです。
「おいクズ、早くしろ。」
「はいはい、今行くって。」
今のやりとりを見ていたのかはわからないが、先輩と思わしきその人が急かすと五条先輩は今度こそ私の手首を完全に解放して立ち上がる。同じくらいだった目線が遠くへ行った事に僅かばかりの安心感を覚えた。サングラスをまた掛けて、そうして私を見下ろす男に先程とまでは異なる恐怖が脳内を占める。寧ろこっちの方が何倍も怖い。
「明日にでも返事聞きに行くよ。ね、喜雨ちゃん?」
「………いや、あの、困るんで…。」
「じゃ、まったねー。」
人の話を聞かずにさっさと教室を後にして行きやがった。本当になんなの?ぽかん、と呆けて居たら今度は目の前に女の人がしゃがみ込む。間接的に助けて貰ったのだからお礼をしなきゃと頭に過ぎるけれどそれより先に小さな手が私の腕を掴んだ。今度はなんだってんだ。
「保健室行くぞ。」
「え、と?」
「あのクズに掴まれてたろ、消毒してやる。」
冷やすとかではなく、消毒。言い方の問題で完全に五条先輩が菌扱いで少し笑いそうになってしまった。頬にされたキスについては見ていないのか…否、見ていたけれど触れないでいてくれるようだ。促されるままに立ち上がれば私より10cmは低いであろう先輩はそのまま軽く私の腕を引いてスタスタと歩き出す。痛みは感じない、優しい手。
「消毒ついでに冷やしておくか。」
あっけらかんと放たれたその言葉に今度こそ吹き出すように笑ったら先輩は素知らぬ顔をしたままで、そのまま二人で保健室へと向かった。その途中で私を探していたらしい幼馴染二人に発見され、一悶着あったのだがそれは良しとする。二人を見つけて安心したと同時に先程の嫌な記憶が思い出された。明日が来ないようにするにはどうしたら良いか、先輩と幼馴染に相談してみようと思う。