帰宅後、すぐに姉さんと義兄さんにゴールデンウィーク中の外泊許可を求めた。こういうのは後回しにすればするだけなんて言おうだの何だの考えてしまって結局言い出せずに、双方に対して無礼を働く事になる。まあ、単純にここでダメだと言われたとしてもなんとでもなるからという打算があるのもまた事実だけれど。幼馴染たちの家に泊まると言えば許可は降りるけど、どうなんだろう。わざわざ泊まらずに遊びに行けと言われればそれまで。何はともあれ聞いてみない限りは結果は分からない。
「交際前の男女で泊まるのは…、」
「潔高くん。……喜雨ちゃんが十年後、後悔しないことなら許可します。」
「……はい。」
結論から言えば許可は降りた。正確に言うと義兄さんはダメだと言おうとしたが、姉さんがそれを止めた。でも本当は許可したくないんだろうな、と、姉さんを見て思う。いつも通りに見えるけれど、実家に居る時のような緊張感があって、口を噤む。怒ってるわけじゃない、それでも何かを堪えるような。言葉を詰まらせた私の前で、姉さんが居住まいを正す。
「……でもこれだけは聞かせてね。相手の方は、喜雨ちゃんにとってどんな人?」
「私にとって、…悪い人ではない、と思う。色んな意味でマイペースだし自分の中で決めたらそうするような、頑固な人でさ。結構振り回されてるなとは思うんだけど…でも、なんとなく嫌いになれなくて、無碍に出来ないような人というか……これだと先輩がどんな人かか。えっと、うーん…。」
何で言えばいいのか分からない、というのが本心だ。どんな人間なのかと聞かれれば結構するする出てきそうなんだけど、私にとってどんな人かと言われたら難しい。駿や空護のように一緒に居ると楽しいとか、姉さんや義兄さんのように安心するとか、そういうのとは少し違う。最初は殴ろうとして来たのに急に付き合おうとか言ってくるし、セクハラの限度を知らないのかってくらい触れてくるし、正直一緒に居て落ち着くって感覚はない。でも、
「私の事を見てくれる人、かなぁ。」
姉さんと義兄さんに心配も迷惑も掛けたくないと言ったからまだ明るい内に帰ろうと促してくれる。駿と空護と三人でお昼は過ごすと言ったから昼休みは避けてくれる。付き合わないと言った理由を聞いてその考えを否定せずに無理強いもせずにいてくれる。触れて欲しくない部分に不用意に触れる事はせず、それでも悩みがあれば聞いてくれる。…私が大切にしたいと言った人たちを、大切にしてくれている。
「付き合おうって言われて、最初は何言ってるんだろうって思ったんだけど…そこまで、嫌ではない、のかも、しれない。」
「そう…。」
姉さんはそれだけ言うと寂しそうに笑った。
「いつからいつまでお泊りなの?」
「その辺はまだ決めてない。二人の許可を貰ってから、と思ってた。」
「それじゃあ、五月一日から三日までの間にしてもらえる?その間はその先輩のお家に行ってもいいから。」
「わかった。…ありがとう、姉さん。」
義兄さんは最初に姉さんに止められてからずっと何も言わない。姉さんの小さな手を包むように握ったまま、何かを堪えるような顔をしている。酷く居心地が悪くて、逃げるように部屋に戻った。困らせてしまった自覚しているからどうしていいかわからなくて、そのままベッドへと沈む。
姉さんと義兄さんはどう思ったかな。二人が私に対して何かを強く言えないのも、分かっている。だからこそ二人に余計な心配もこれ以上の迷惑も掛けるつもりもなかった。実家の事、私の事、……あの日の事、見送った背中。蟠りは残っていないと、もう良いのだと思っていた。それでも優しい二人の柔い部分まで深く傷を残してしまった事実は変わらない。指先で額に触れる。目の前が赤に染まったあの瞬間、蹲って耐える事しか出来なかった痛み。指の腹に触れる小さな傷跡。でもこの傷も、あの日の事も二人は知らなくて良い。
ヴー、とポケットの中で端末が震える。義兄との距離感を測りかねてる駿か、課題が解けないと頭を抱える空護か。気怠さを感じながら端末を手に取ると通知が一件。表示される名前は、五条悟。嗚呼そうだ、泊まりの許可が降りたと連絡をしなくてはいけない。
【マカロンありがとうね。美味しかったよ。】
【いえ。あと泊まりの許可降りましたよ。】
【え?マジ?】
【5/1〜5/3までですけど大丈夫ですか?】
【大丈夫、僕も家の掃除するから丁度良いや。】
【それなら良かったです。】
ぽんぽんと返ってくる返事。ああ、泊まりならこの傷跡がバレないようにしなきゃ。でもそんなに気を張らなくてもわざわざ人の額をしみじみ見たりしないか。そもそも見えないようにと前髪をわざわざ切り揃えているのだし。仮に気が付かれたとしても美容師に言うように幼い頃に転んだとでも言えばいいだけだ。
このまま眠りたい、二人と顔を合わせたくない。ずっと居心地が良いと思っていたこの家にいるのがなんだか酷く息苦しい。五条先輩の返信は、しなくてもいいか。寝ていたと言えばそれに対して深く問いただして来ることはない。あの人はそういう、踏み込んで欲しくない事に無遠慮に踏み込んできたりしない。嗚呼、頭が痛い。誰にも会いたくない。でも、駿と空護に会いたい。
翌日、体を起こすと嫌な予感。風邪でも引いたのか?と思う程の気怠さと頭痛。額に触れてみるけど熱はなさそうだし他の不調もない。きっと休みたいと言っても姉さんたちは許してくれるだろうけれど、早く駿と空護に会いたい。さっさと身支度を済ませて、用事があるからと二人に言い訳をして家を出た。嘘を吐きたくはないけれど、姉さんたちと向き合いたくもなかった。少し早かったので幼馴染たちが合流する公園まで向かうと二人が揃っていた。居るはずのない私を見た瞬間ぎょっとして、慌てて駆け寄って来る。
「どした!?」
「顔色悪いよ、大丈夫?」
「へーき、ちょっと寝不足。」
幼馴染たちの顔を見て安心したからか、頭痛が少しだけ楽になった気がする。相当酷い顔をしているのか、駿の手が頬に触れる。触れ慣れた、少し冷たい手が心地良い。
「駿、どうしたんだい?」
「義兄さん。」
なんで夏油先輩が居るんだ。いや、居るに決まってる。此処は駿の家の近くで、その家には夏油先輩も住んでいるんだから。一緒に登校するんだろうか、明日からなら構わないからせめて今日は遠慮したい。私は駿と空護の癒し成分を摂取したいんだ、今日は五条先輩と合流してくれ。
「うちで良ければ少し休んでいくかい?」
「ただの寝不足なので大丈夫です。」
「ンでも、やべェ顔してるぞ?」
「元々こんな顔よ、何言ってんの。」
「喜雨、ちょっと座ろう?」
そんなか、そんなに酷い顔してる?それともこの幼馴染たちが過保護なのか?抗議しようとしたけど視界が回る感覚がして、ふらつく体を二人が慌てて支えてくれる。
「熱は?」
「ないと思う、貧血かも。」
「喜雨、揺れたらごめんなァ。ちょっと大人しくしとけよ?」
夏油先輩と駿のやりとりが遠くで聞こえる。ぼうっとしていたら駿のブレザーに包まれて、何かを問う前に体を襲う浮遊間。空護の両腕に包まれているから、多分抱き上げられたのだろう。私よりちっさいくせに。三人分の鞄を持ち上げた駿の手がまた触れる。その手は気持ち良いのに、きもちわるい。胃の中をぐちゃぐちゃに混ぜられたみたいだ。寝てろ、という空護の声を皮切りにふつりと意識が途切れた。
起きたら見知らぬ部屋。此処どこ、と起き上がると頭に激痛が走って結局その場に蹲る。気持ち悪さは粗方なくなったけど、相変わらず頭痛いし視界がブレる。とりあえず勢いを殺して辺りを見回す。てっきり保健室か空護の家かと思ったけれど違うらしい。もしかして駿の部屋か?引っ越してから一度も踏み入れて居ないから、それなら納得なんだけど。
「あ、起きた?」
聴き慣れた声がした。でもその慣れは、ここ一週間での話だ。
「…五条先輩?なんで?」
「なんでも何も此処僕んちだし。とりあえず水分摂ろうか。ポカリ買ってきたけど飲めそ?」
「はい…。」
先程の過ちを繰り返さないようにゆっくりと起き上がる。キャップの空いたペットボトルにはストローが刺さっていて、受け取ってそのまま口に含む。冷たい水分が喉を通ってちょっと咽せそうになったけどなんとか堪える。飲み変わった物を手渡せば五条先輩がベッドヘッドに置く。飲める時に飲んでおこう。
「……何があったか聞いていいですか?」
「僕も聞きたい。でも喜雨ちゃんが寝てる間の事なら話せるよ。」
先輩がベッドの縁に座って事情を説明してくれる。曰く、私が気を失った後に夏油先輩の判断で此処にと提案したらしい。五条先輩は既に家を出ている時間だったと思うのだけれど…聞いてみたら既に学校の最寄駅まで着いていたのに話を聞いて態々戻って来てくれた、と。すいません、と頭を下げようとしたらまた痛みに襲われたので後で纏めて謝ろうと思う。
「…施錠してないんですか?」
「してるよ?傑が合鍵持ってるだけ。」
「あ、成る程。」
「弟くんが言うには熱はないって。貧血だとは思うけど…とりあえず寝ておきな。」
「や、学校行かなきゃ。義兄さんたちに迷惑掛けちゃう。」
自分で言ってから、昨日の事がこびりついた記憶みたいに頭を過ぎる。勝手に学校を休むなんてしたら迷惑をかけてしまう。ああでも空護たちに事情を説明してないから学校に行く時にもう姉さんたちに伝わってるかもしれない。…あれ?でもそれなら私は家で起きる筈じゃないか?
「あと二人からそれぞれ伝言。まず空護から、お姉さんたちは上手く誤魔化しとく、ってさ。」
「へ?」
「弟くんからは、事情は分からないけれどとりあえずは秘密にしておくから大人しく寝ておくようにって。」
「……そう、ですか。」
空護は家の事情も全部知ってる、駿には詳しい事は言ってないけど体調が最悪な状態でも二人に会いに行った事で姉さんたちと何かがあったことは察してくれたんだろう。事情を全く知らないであろう先輩まで巻き込んでしまった事にも頭が痛いけれどとりあえずは大人しくしておけという総意に甘えておこう。あと夏油先輩にもお礼をしなきゃ。
「もしかして僕んち泊まるのに喧嘩した?」
「喧嘩、ではないです。」
「でもなんかあったんだ?」
「……わかりません。」
普段はきっと触れてこないだろう、五条先輩すら疑問をぶつけてくるのだから今の私は相当酷い顔をしているんだろう。ネイビーのシーツを握り締めていると大きな手が私の手を包む。あったかい、五条先輩の手。
「……昔の事なんですけど、姉さんたちは私に罪悪感があって。だから、私がしたいと言えば了承してくれます。」
「うん。」
「今回もそんなに心配されるような事はないと思ったんです。付き合っていない異性間で泊まりとか、幼馴染で良くしてたから。でも、姉さん達は酷く心配していました。姉さんたちのその顔を見て、自分が言ったのは良くない事なのか、って。」
「まあ、僕は下心があるから二人とは違うけどね。」
「私は、私の我儘を通す為に姉達を傷付けたんでしょうか。」
さっき飲んだ水分なんてなかったんじゃないかってくらいカラカラに乾いた喉から漏れる言葉は掠れていた。ただの自己嫌悪だ、と思う。姉さん達に対して隠し事はしたくないし、余計な手間を掛けたくない。だって、私は、
「……邪魔してるのに。」
居候なのだ、結局。姉さんと二人暮らしならばまた違ったのかもしれないけれど、二人は結婚している。夫婦水入らずで過ごせる筈の家に居座っているのは私で、だからこそ余計な事はしないと決めたのに。二人が私の事を大事にしてくれてるのは分かってる、罪悪感だけで家に招いてくれたわけじゃないと知っている。それでも、それでもだ。
「喜雨ちゃん、大丈夫。」
「ッ、」
「家に帰りたくないなら此処に住んで良いよ。傑もそうしてたし。」
「でも、」
「そんな顔してる好きな子を放っておけると思う?」
「でも、姉さんたちになんて言えば、」
五条先輩の腕が背に回る。刺激を与えないようにと気を遣ってくれたのか、いつもみたいに引き寄せる事はせず、ただ優しく抱き締められただけ。甘い匂いがして、何度もこの匂いに包まれた筈だけど、初めてこの匂いが五条先輩の匂いなんだと気が付いた。
「とりあえず落ち着くまで此処に居な。お姉さんたちと話せるようになったら帰れば良い。その時僕も一緒に行くから、改めて僕から外泊許可貰うよ。ちゃんとご挨拶してるってだけで保護者からすれば安心できるでしょ。」
「いや、でも…義兄さんが、」
「うん?」
「うちの学校の、教師、で、」
「………なんか問題?」
「相手が先輩ってわかったら、ダメって、言うかも。」
義兄さんは気が弱そうに見えるし、実際気が弱い。それでも自分が譲れないと思えば絶対に譲らない。その結果が、今の私の保護者という立ち位置だ。二年生の担任をしているから私は校内では滅多に会わないけれど、五条先輩の事を知らない筈がない。
「んー、でもほら、僕今良い子にしてるし。」
「いや、今はでしょう?」
「うん。君と出逢ってからね。」
とん、とん、と一定を保って背を叩く手。赤ちゃんを寝かし付けるみたいな優しい手付き。じわ、と目頭が熱くなって視界が滲む。なんでこんな泣きそうになってるんだろう。ずっとずっと、泣いてなんかなかったのに。
「確かに僕は素行が悪いってタイプだったけど、喜雨ちゃんと付き合いたいから良い子にしてるでしょ?過去は変わらないけど、少なくとも今の僕は真っ直ぐ喜雨の事を愛してるよ。」
「せんぱ、い、」
「大丈夫。僕が喜雨がして欲しい事も欲しいものも全部叶えてあげる。僕に罪悪感なんてないし、喜雨もそんなものを僕に感じなくていい。」
「なん、で、」
「喜雨を愛してるから。…安心して良い、僕はずっと君の味方だよ。だから今は、おやすみ。」
額に優しく唇が触れて、ゆっくりと意識が遠のく。でも今度は落ちるようなものじゃなくて、余りある程の優しさと安心からくる柔らかなもので。眠気に襲われる中、強く感じた衝動に従って何かを掴んだ。