いつも通りの朝。傑が居ない朝にも四日目にして慣れてきた。まあ、一人暮らしで誰かがいる方が可笑しいんだけど。面倒くさいと思う前に手早く準備を済ませる。少し前ならまだ寝てる時間だけど、あの子と過ごせる時間には限りがあるからとこうして朝から行動してる僕って偉い。朝なんて十分程度しか話せないのに、その十分の為にこうして生活してるんだから笑えない。それに放課後の一時間があるだけなのに朝から準備を済ませて面白くも何ともない学校に行き、退屈な授業を受ける。僕らしくないのは分かっているけれど、欲しい物を手に入れる為なら少しくらいの我慢はしてあげよう。
欠伸を噛み殺しながら電車に揺られ、学校の最寄駅に着いた瞬間に端末が震えた。朝から連絡してくるヤツなんて一人しか居ないから画面も見ずに通話の応答ボタンを押して耳元に当てる。
「なに、傑。」
「ちょっとベッド借りるよ。」
「は?なんで?嫌なんだけど。」
「安心しろ、使うのは私じゃない。」
意味がわからない、と眉間に皺を寄せながら改札を通るけれど傑は何も気にしていないのか、そのまま続けた。
「お前の可愛い子が使うんだ、文句はないだろう。」
「は?あの子に指一本でも触ったら殺すぞ。」
「なんでそうなるんだ、最後まで聞け。朝会ったんだが倒れてしまったんだよ、私の家でも良かったけれど悟が嫌だろうと思って連れて来たと言うのに……悟、冷えピタの一つくらいは置いておかないか?」
「後ろで何ガサガサやってんのかと思ったらもう連れ来て…倒れた?」
「嗚呼、相当顔色も悪かったからね。今は悟のベッドでおねんね中だ。運んだのはあの、背の低い子だから私は指一本触れてない。…どうする?」
「帰るに決まってんだろ。」
話を続ける気にもならず通話を切って改札を通り直す。どうせ数分で来るだろうから電子掲示板を確認する必要もない。此処で急いだとしても意味がないと分かっていたけど落ち着くことも出来ずに階段を駆け降りた。
コンビニに寄ってポカリとゼリーとアイスを適当にカゴに投げ入れ、昼食もついでに入れておく。あの子は食べられるか分からないけど一応買うか?いや、起きた時に食べたい物か食べられる物を聞いて用意した方が良いな。やけにトロく感じる店員に悪態が出そうになったけれどここで文句を言っている方が遅くなりそうだから堪え、会計を済ませて家まで半分走りながら帰る。
オートロックに苛立ちながらマンションに戻って律儀に閉じた鍵を開けて入ると玄関には端に揃えてあるローファーが一つ。傑たちは学校に行ったのか。ていうか一人くらい残れよ、あの子になんかあったらどうしてくれる。アイスが溶けるかもとは思ったけれど、何よりも先に顔を見たくてビニール袋に詰められた諸々を玄関に放置して寝室に向かう。
うわ、本当に僕のベッドで寝てる。一時間前までそこで寝てたんだけど。硝子が使ってる部屋にでも通せば、…ダメだ、あの部屋はヤニくさい。そう考えると僕の部屋なのも納得だけど好きな子が自分のベッドで寝てるのに手出せないってどんな拷問だよ。とかなんとか色々浮かんできたけど溜息と一緒に吐き出して発散させ、ベッドに近寄る。近くに置かれたスクールバッグの上に畳まれたネクタイとブレザーとセーター…あとハイソックスかな。多分弟くんと空護だろう。楽な格好にさせている間に傑が僕に事後報告の電話して来たってとこか。
顔を覗き込むと薄ら残る隈と血の気が引いた酷い顔色が視界に入って思わず舌打ちが漏れた。なにこれ、なんでこうなってんの?昨日の放課後も何か考えてる顔はしてたけどこんなになるほど深刻な問題だったとは思えない。顔に掛かった髪の毛を指先で払ってやり、前髪を動かして額に触れる。うん、熱はなさそうかな。冷えピタ買ってくるの忘れたと思ったけどこれなら必要はなさそうだ。寝て少しは楽になると良いんだけど、と、なんの気なしに額を撫でたら不意に指先に何かが触れる。よく見るとそこには薄らとだけど、傷跡があった。決して大きくはないけれど結構深く切ったな。…まあ、問題はなんで喧嘩もしないこの子が額なんてそんな変な場所に傷跡を作ってるのか、だけど。暴力に慣れてるって言ってたのは本当だったのかと思うと腑が煮えたぎる。あー、マジで、相手誰だか知らないけど社会的にでも物理的にでもいいからぶっ殺したい。
「……ん、」
「喜雨ちゃん?起きた?」
「くうご、」
「こらこらぁ、誰と間違えてんの?」
「ねえさんには、いわないで、」
ぴたりと、止まる。姉さんって、今一緒に住んでる…保護者だっけ。暴力云々の話でなんか問題有りだとは思ってたけど家族関係か。一緒に住んでるのはこの子を守る為か、もしくは家族にバレないように連れ出してこの子に暴力を働いてるかの二択。…まだ情報が足りないな。
「…ねえさんは、しあわせになるの。にいさんが、してくれる。とうさんたちから逃がさなきゃ。」
寝言とも譫言とも取れるような、覇気のない声。普段から姉さんが兄さんがと言っていたけれど、実兄ではなく義兄ね。何となく事情が掴めて来た気がする。喜雨が薄らと目を開いて僕を見た。空護じゃないことに驚いたのか、それともきちんと見えていないのか、動き方を忘れたみたいなまま僕を見る。
「五条先輩にも、あやまらなきゃなぁ。」
「……なんで?」
「大事にしてくれてるから、」
「じゃあ、ごめんじゃなくてありがとうじゃない?」
「先輩は、くれるばかりだから。私ちゃんと返せないのに。」
「何か貰ってるの?」
「……いつも、欲しいもの、くれる。」
「…なんかあげたことあったっけ、記憶にない。」
「あとね、先輩と居ると、楽なの。心配かけないようにって、しなくていい、から。」
「……うん。」
「子供扱いもしないし、大人になってとも、言わないから。先輩の近くは、わりとすき。」
「女の子扱いはしてるんだけどなぁ。気が付いてるのかね、この子は。」
「でも、好きって、言ってくれるのに…返せないの、やだなぁ。」
「へ?」
聞き返した言葉に返事はない。話疲れて眠ったのか、それともただの寝言だったのか。寝言って返事しちゃいけないって言うけど大丈夫だったかな。いや、そんな事はどうでも良い。良くないけど良い。…好意を返す道理なんてないだろうと、頭の中の冷静な部分が言う。好意を受け取るのも受け取らないのも向けられる側が決める事であって、なにより貰ったからと言って必ず返さなくてはいけないものでもない。僕だって今まで切り捨てて来た方が余程多いし。あんだけ迷惑そうな顔をしておきながらそんな事を思ってたの、この子。
「律儀だねぇ。」
振り向かせるからとは言った。一ヶ月の間は待つけれどそれ以上は待たないとも。だがそれを置いておくとしても形式上とはいえ恋人関係を強制すると言った男に罪悪感を感じる必要はないだろうに。普通に考えればだけど。この一週間で随分と律儀で流されやすい事は分かっていたけれど予想より酷そうだね、これ。家庭環境が最悪だったと仮定して、この子が親元を離れたからといって反抗期を拗らせる事がないのは幼馴染の二人の存在だろう。素直な二人と一緒にいてある程度のガス抜きはしてるだろうし…あ、あと姉夫婦か。姉の方も多少なりとも似たような目に遭ってるという仮説を立てれば…物理的に守る役目を全う出来るのは義兄のみ。身長だけなら弟くんと間違えるだろう僕を空護と呼んだ辺り、弟くんは事情を全部知ってるわけではないのかな?
頭の中で仮定を組み立てていたけど不意にアイスの存在を思い出して、大人しく玄関に向かう。買った物を冷蔵庫と冷凍庫に突っ込んで、ソファに投げたままになっていた部屋着兼寝間着に着替える。そういえばあの子、着替え持ってるか?一年体育あったっけ。なかったら貸してあげれば良いだけなんだけど。でも硝子の服だとサイズ合わなそうだからなぁ。僕の服だと大き過ぎる?いいや、本人に選んでもらおう。
鞄の中から半分存在意義を見失っていたルーズリーフを取り出してさっきまでの仮定を箇条書きで書き留めていく。父親は完全にクロ。たち、と複数形にしていたから一人ではないとして…母親か、祖父母か。くるくると手慰みにペンを回しながら喜雨の言葉を思い出していく。でもこれといって決定的な発言はなかった。少なくとも姉夫婦はなしとして…誰か一人は味方側なのかな。父親に逆らえず、それでも姓を変えることなく学校に通わせることが出来るとなると…まあ、なんとなく母親だと思うけどね、此処の人物。なんか証拠があるとかじゃなくて、ただの勘。
「あー、早いとこ引っ張って来たい。」
そんな面倒くさい事に態々首を突っ込みに行く必要なんてないんだよ、そもそも。男だったら大変だったかもしれないけれど、女ならさっさと籍を抜いてしまえばいい。その一つの手段として結婚とかいう便利な物があるんだからさっさと使えば良いのに。僕が卒業したらすぐ籍入れちゃいたいくらいなんだけどなぁ、二つ違いって便利。
書き殴ったルーズリーフを丸めてゴミ箱に放り投げる。ナーイスイン、ホールインワン。冷蔵庫に入れたポカリを取り出して、いつ買ったか覚えていない個別包装のストローを用意。とりあえず枕元に置きに行って、起きたら飲ませようかな。気を逸らしてないと寝てる彼女に手を出しそうになるから鼻歌を歌いながら寝室に戻ると、ベッドの上で蹲るような体勢のまま落ち着かない様子の喜雨が居た。
「あ、起きた?」
「…五条先輩?なんで?」
「なんでも何も此処僕んちだし。」
とりあえず水分、とキャップを開けてストローを刺したペットボトルを差し出せばのろのろと起き上がった喜雨がそれを受け取り少しずつ口に含む。まだ呆けたままだから今さっき起きた所なんだろう。ペットボトルをどうすればいいのか分からなそうだったから一度取り上げてからベッドヘッドに置いて座る。あ、座らなきゃ良かった。変な気分になりそう。
「……何があったか聞いていいですか?」
「僕も聞きたい。でも喜雨ちゃんが寝てる間の事なら話せるよ。」
幼馴染と合流してすぐに意識を失った事、傑の提案で此処が選ばれた事と必要そうな情報だけを掻い摘んで説明したけれど、恐る恐ると言わんばかりにその時の僕の居場所を聞かれた。隠しても仕方ないから僕が一度出て戻って来たと伝えたら物凄く渋い顔をしていたけれど、具合が悪いんだから気にしなくて良いのに。というか、君がいないあの場所に用事はないし。
「学校行かなきゃ。」
自分でそう言ったのに、途端に怯えてるみたいな顔をする。うーん、さっき話した事は覚えてないのかな。でも覚えてる?なんて聞いて踏む必要のない地雷を踏むのは避けたい。僕が守ってあげるから気にしないで好きなだけ休めば良いのにとは思うけど、今は僕の言葉よりも幼馴染たちの言葉の方が響きそうなので二人からの伝言だと傑から届いたメッセージの内容を引っ張り出す。伝え終わると同時に強張った体から力が抜けるのが見て取れる。悔しいなとは思うけどこればっかりは過ごして来た時間が違うんだから妬むだけ無駄か。まあ、妬むけど。
「もしかして僕んち泊まるのに喧嘩した?」
コレは昨晩からの疑問。喜雨からの連絡は基本簡素ではあるがあそこまで端的な返信は初めてだった。何かあったのだとすれば心当たりはそれくらい。喜雨が唇を噛んで、小さく声を漏らす。姉妹喧嘩とかした事ないのか、姉や義兄が自分に対してどう思っているのかを考え始めてドツボにハマった、っていうのが僕の見解。ていうかわざわざ許可を取って、それを言ったのが我儘だと思ってるんなら彼女は彼女なりに僕の家に泊まりというのを楽しみにしてくれてたって事じゃない?さっきは気が楽なんだと言っていたけれど、結構前向きにお付き合いを視野に入れてるらしい。まあ、後ろ向きでも強行突破するけど。
「……邪魔してるのに。」
「喜雨ちゃん、大丈夫。」
「ッ、」
「家に帰りたくないなら此処に住んでいいよ。傑もそうしてたし。」
「でも、」
彼女が今何を考えているのか、なんとなくの察しはつく。帰りたくないなら帰らなければいい。どのみちその内一緒に住む予定なんだから、それが前倒しになったところで構わないし。寧ろ僕的にはそっちのが良い。一緒の家に帰るなら朝早くから準備する必要はないし、放課後の時間に制限なんてない。好きな時に好きなだけ触れられると思えばこれ以上ないくらい好条件なんだけど。そんな事を考えてるなんて微塵も気が付いてない喜雨を腕の中に閉じ込める。どれだけ回復したのか分からないからゆっくり、刺激を与えないようにと心掛けて背中に手を回す。
「とりあえず落ち着くまで此処に居な。お姉さんたちと話せるようになったら帰れば良い。その時僕も一緒に行くから、改めて僕から外泊許可貰うよ。ちゃんとご挨拶してるってだけで保護者からすれば安心できるでしょ。」
「いや、でも…義兄さんが、」
「うん?」
「うちの学校の、教師、で、」
「………なんか問題?」
「相手が先輩ってわかったら、ダメって、言うかも。」
口をまごつかせながらシーツを握り締めて、腕の中で小さく震える体。どうしたら良いかな、と思ってとりあえず背中を叩くことにした。どれくらいの力だろ、えーと、こんくらい?隙間なく体をくっつける。あ、やべ、具合悪いのに僕香水付けてる。匂いキツかったらごめんね。
「大丈夫。僕が喜雨がして欲しい事も欲しいものも全部叶えてあげる。僕に罪悪感なんてないし、喜雨もそんなものを僕に感じなくていい。」
だからもうおやすみ、と額に口付ける。その傷跡すら君を愛しいと思う一つなのだと伝えたくて。気が付いているかはわからない、それでも僕が伝えたいから伝えるだけだ。自己満足?利己主義?好きに言えばいいさ。僕がこの子が欲しいと言うのを止めて良いのはこの子だけだ。
くて、と体を預けて来た。あれ?このまま押し倒して良いやつか?と思ったけれど眠っただけみたいだ。残念。このままでは体が辛いだろうと静かに寝転ばせ、離れようとした、が。スウェットを掴まれている、それはもうガッチリと。
「喜雨?」
ダメだ、完全に寝てる。無意識に掴んだんだろうか。無理矢理この手を解く事も出来るけれど…それはなんかしちゃいけない気がする。流石に体勢が辛いからそのまま横に寝転んで、腕の中に招く。うん、少し顔色が良くなった。もう少し寝かせて、ご飯を食べさせたら体調は問題ないだろう。それにしても、驚く程にリラックスしてくれちゃって、まあ。自分を好きだという男の家のベッドで爆睡出来ちゃうこの子には少しだけお仕置きが必要かな。起きたら覚えておけよ。僕も寝るけどその間に覚悟決めておくように、と届くはずもない事を思って、腕の中の体を抱き直して目を閉じた。
あ、着替えさせるの忘れた。