目の前で動きを止めた五条先輩に逃げるなら今だと体を引くけれど、腰と後頭部を抑えられたままだから簡単に抜け出す事が出来ない。暴れている間に唇が触れちゃいそうで、大きな動きが出来ないのもあるけれど。五条先輩に声を掛けようと口を開くと、目の前にあった唇が口の端に押し付けられる。
「………そう言えば僕が止まるって、思ってる?」
「は、い?」
「どうせ冗談だろうって。無理矢理は良くないかな?と思ってるだけで、僕はいつでもキスしたいと思ってたのに。」
ちゅ、ちゅ、と、軽い音を立てて何度も頬や鼻先に唇が押し当てられる。なに、なにごと。混乱する頭とは別に、何度も落とされる口付けに顔に熱が集まって動きが鈍くなるのが自分でもわかった。五条先輩の声は抑揚もなく、その言葉たちが偽りなのだと思いたいのにそれすら許されないような、そんな感覚。
「本当はさ、男の家であんまり無防備で居るのは良くないよってお説教だけのつもりだったんだよ。幼馴染と違って君のことをそういう目を見てるって事をちゃんと自覚して欲しかったのに。でも、でもさぁ、…前回は今は嫌、今回はこれはやだ、って、なに。」
「五条先輩、っ、ちょっと、聞いてください、」
「いつならして良いの?どういう感情なら、僕は君を愛して良いの?」
至近距離で水色の瞳と絡む。白銀の睫毛に縁取られた、綺麗な宝石に見られると本心まで見抜かれてしまいそうでぎくりとする。せんぱい、と漏れた声は情けない程震えていて、相応するように体まで震えた。前回も今回も、反射的にそう思ったから伝えただけで私は何故そう思ったのかということ自体考えないようにしていたのだと気が付く。本人ですら分からないのだから五条先輩にだって分からないのは当然で、私が理解していない事を知らないからその疑問を私に投げ掛けてきているだけだと、頭では理解はしているのに。言葉を詰まらせた私に五条先輩は小さく舌を打って、そのまま背中と膝裏を取られて体が浮く。朝もこうやって浮遊感に包まれた。でも違う。空護と、この人は違う。向けられる好意の種類が異なるのだから当然なのに、私はそれにすら気が付いていなかった。
ろくな抵抗も出来ず、黙りこくった五条先輩にされるがままにいれば先程まで身を寄せあって眠っていたベッドに寝かし付けられた。背中が柔らかなマットに押し付けてられ、脚の間に割り込まれた膝に逃げ道が完全に閉ざされたことを悟る。せめて口頭で済ませたい、無理なんだろうとは思っても諦めきれない。
「先輩待って、逃げないからちょっと離れてくださ、」
「ねえ、喜雨ちゃん。」
「っ、」
「僕ね、待ては嫌いなんだ。目の前に出されたのにそれを眺めてるだけなんてのは性に合わない。手を出されたくないなら自分を好きな男の、…僕の目の前でそんなに無防備になっちゃダメだろ。」
「無神経だった事は謝ります、だから、先輩、お願いだから、」
「傷つけたいわけじゃない。でも、ご褒美くらいくれたっていいでしょ?」
先輩の真っ白な手首に緩く巻き付いたチョーカーが揺れるのを視界の端で捉える。あの時の五条先輩は、どうしてたっけ。なんて言ってたっけ。私は、なんで、嫌だったんだっけ。
「先輩と、こんなの、嫌です、」
「どうして?ここでキスしたってキスしなくたって、どのみち僕たちは付き合うんだよ?」
「……好きに、なりたい、」
五条先輩が目を見開く。何を言ってるのかって顔をして、私の顔を見るから気不味くて恥ずかしくて、顔なんて見ないで欲しいと思う。それでも此処で逃げるのは、不誠実だから。
「先輩のこと、ちゃんと好きになりたい。大事にして貰ってる分、大事にしたいんです。ご褒美とか、勢いとかじゃなくて、…好きだから、キスがいい。先輩のこと何も知らないのに、好意を仇で返したくない。」
「今はそれで良いって言ったでしょ。」
「言ってましたね。…最初は確かに、拒否権なんてなかったですけど、でも、そこから先輩はちゃんと聞いてくれました。いつも気紛れで強引だったけど、でも、逃げ道は用意してくれた。貴方を知る時間を、くれていた。」
強引に話が進んだ事ばかりだと思う。それでも、先輩はいつも選ばせてくれた。それに至る理由も教えてくれたし、どれだけ強引でも最後は私の話を聞いてくれる。それに好意に胡座をかいていたと思われても可笑しくないくらい甘えていた私を受け入れて、助けてくれていた。
「五条先輩を好きなのか、わからないんです。曖昧なままここでキスして、先輩のことちゃんと考えられないのは嫌です。」
喜雨ちゃんにとってどんな人なの?と、問うた姉さんの気持ちは分からない。それでも、それは確かに意味を持つ質問だったのだと思う。そしてそこに意味も持つ筈の私の答えは酷く曖昧で、返事というにはお粗末すぎる。あの時答えた、私の事を見てくれている人。でもそれは姉さんだって義兄さんだって駿だって空護だってそうだ。五条先輩と四人との違いを私は説明出来ないし、なによりもその違いを理解が出来てない。何が違うのか、四人とは出来ないけれど五条先輩となら出来る事があれば、それが恋なんじゃないのか。
「せんぱい、おねがい、」
もう少しだけで良い。貴方を知るには、一週間という時間は短過ぎる。一月なんてそんなに差はないのかもしれない。それでも、少しでも五条悟という人間を知ってから、向き合いたいと思うのは我儘だろうか。
「……狡いよねぇ。煽ってるようにしか聞こえないのに、そんな気は少しもないんだもん。」
「先輩?」
「酷い子。」
瞼に口付けが落とされて、そのまま五条先輩が視界の端へと消えていく。ベッドが軋む音がして、隣に寝転ぶ先輩を見て身体中に詰めていた力が抜ける。視線だけで隣を覗き見るけれど、先輩は片腕を目元に乗せていたからどんな顔をしているのかまではわからなかった。
「怒って、ますか。」
「んーん、怒ってない。生殺しだなとは思ってるけど。」
「…すいません。」
「ほんっと、思い通りになってくれないよね。」
「そう、ですか?」
「あの言い方じゃ、僕のこと好きって言ってるようなものなのに。」
「は!?」
何を言い出すんだと抗議の為に体を起こすと腕の隙間から水色とかちあい、びくりを体を硬直させてしまう。とても綺麗だと思うけど、やっぱり、見透かされるみたいで少し苦手かもしれない。五条先輩が片腕を伸ばして、それが後頭部を包み引き寄せられる。軽い力だったけど意図していないタイミングだった事も相まってそのまま五条先輩の胸元に倒れ込む。
「とはいえ、ご褒美なし?」
「う…、キスとか、そういうの抜きでなら……。」
「じゃあ、夕飯作って。今日はそれで許してあげる。」
「はい、何が良いですか?」
「新妻っぽくて良いね、ソレ。」
「何言ってるんですか。」
「あ、体調悪いんだった。やっぱ違うのにしようか。」
「もう大丈夫ですよ。」
胸元に乗せた私の頭を撫でる手が心地好い。触れ合う体温とか、大きな手とか、そういうのは結構好きだ。でも駿や空護の温もりや手も好きだからこれは判断基準にならないと思う。ていうか私、二人とはキスくらいなら出来そうな気がするんだよね。するかはさておき。それくらい、二人は私に近くて大切な存在。…でも、そんな二人と同じ土俵に立ってる五条先輩って案外私の中では大きな存在になっているんじゃないだろうか。あれ?じゃあ好きってなに?
「先輩、凄く不躾で信じられない程無神経な質問していいですか?」
「はいはい、なあに?」
「好きって、どんな感情ですか?」
「それ君のことが好きな男に聞くこと?それともあれ?今から体に教えてやるよ待ち?」
「違います。…その、経験がないもので、何が正解かわからないというか。」
「僕も初恋みたいなものだから参考になるか…何より男女差も個人差もあるだろうしさ。」
「一般論でも良いので。」
五条先輩は唸りながら首を傾げる。胸元からその様子を覗き込んでたら、先輩の指が私の髪を掬って、落とす。やっぱり、この人は私が投げ掛けた質問に毎回ちゃんと答えてくれるんだよなぁ。
「キスしたいとかセックスしたいと思ったら?…まあ、この辺は性欲だから感情がなくても出来るけど。」
「身も蓋もない…。」
「"したい"か、"出来る”かの違いだよ。女の子なら四六時中頭から離れないとか些細な事も知りたいとかじゃない?その辺はよく聞くよ。」
「したい、と、できる…成る程。」
確かに、駿や空護とキスは出来るだろうけど、したいと思った事はない。それは恋ではなく友情だからだろうか。髪を指に絡めてくるくると巻き付けて遊び始めた五条先輩に抵抗もせずにうんうんと考え込んで居ると視線を感じて意識を手繰り寄せる。なんだろうと思っていたのが顔に出たのか、分からないけれど先輩の口が開かれた。
「独占欲とか、かな。」
「…独占欲、ですか?」
「自分だけの人で居て欲しい、弱いところを見せるのも凭れてくれるのも自分だけが良い。そんな感じ。」
「五条先輩は、独占欲からですか?」
「そうかも、最初は気に入っただけだと思ってたんだけどね。いやぁ、こーんなイケメン捕まえてお預けするのなんて喜雨ちゃんくらいだよ。」
「どくせんよく……。」
「あ、聞いてないし。」
独り占めしたい、かぁ。そういえばいつだかに五条先輩が女子の先輩に囲まれてた。あの時は声を掛けたらいけないだろうと通り過ぎたけど…いやでもその姿を見たくなかったからかと問われればそうではない。単純に、他の先輩たちに目を付けられたくなかっただけだ。ただでさえ後輩は先輩から怒りを買いたくないんだから当たり前だろう。長い物には巻かれろというし、…その理論なら私はとっくに五条先輩に媚びへつらって付き合ってるんだろうけど。自分のことなのに分からなくなってきた。ていうかなんで私はこんな事考えてるんだろうか、好きだと言われたのだって眠る前の、……あれ?
そういえば、キスしたいだの抱いて良いかだの、そういったことは簡単に言うけれど…そういう、直接的な愛情表現的な言葉を掛けられた記憶が殆どない。彼女にならない?とか付き合おうとかとだけ言われて、好きだとは言われてない。なんでだろう。さっきの口振りからして気に入ったから彼女にしようと思ったのは事実だろう。そして、その中で好意に変わった、と。成る程、わかんない。
「先輩、あの、」
「ん?」
「……今日、寝る時なんですけど…、」
「ああ、大丈夫。キスもしないしそれ以上もしないよ。」
「あ、はい。」
聞こうかと思ったけど、やめた。どのタイミングで好きになったんですか?なんて聞くのはあまりにも野暮だろうし、それを聞いたからといって私が五条先輩に対しての感情を確立させる為に必要だとは思えない。それならば、わざわざそんな事を聞くのは正しい判断ではないだろう。好きになったタイミングより、今彼がどう思っているかの方が大切だし、多分。
「口にはしないけど、他はいい?」
「それダメって言ったらどうするんです?」
「服の中に手突っ込んで弄る。」
「うわ、どっちに転んでもセクハラ。」
「どっちがいい?」
「………頬とかにキスで。」
そういえば五条先輩が髪から手を離して、呼ばれる。なに、どうしろと?と疑問符を浮かべていると乗って、とこともなげに返されて思わず首を傾げた。でも五条先輩は気にしてないのか急かしてくる。意味わからないってば。というか、さっきまでパニックになってたから気が付かなかったけれどズボンがリビングに取り残されたまま。今は大きなスウェットが隠してくれているけれど、流石に見えちゃうと思うんですが。太腿とか下着とか、人に見せるような場所じゃないから流石に恥ずかしいし見せたいものでもないんだけど。
とは思うものの、このまま悩んだりしているだけだと強行突破されそうだし事態が悪化しそうなので大人しく、腹の辺りを跨ぐ。膝を開く関係でどうしても中が見えそうで、片手で上から抑える。なお、五条先輩の腹筋へのダメージは考えないものとする。見下ろす形が新鮮で、なんだか落ち着かない。目線を逸らそうとするもスウェットを抑えている腕を引かれて、それに合わせて前傾すると五条先輩が鼻先に口付けを落としてくる。私が上に居るから、腕を掴まれていたとしても逃げられる、のに。
「せんぱい、」
呼んだのは、止まって欲しかったからなのか。それにしては、自分らしからぬ甘ったれた声が出たけれど。どうすればいいのか分からない。ただ、この口付けをどう受け取ればいいのか、それだけを考えていなければならないのに。柔らかく落とされた口付けに考えを纏めていた筈の頭がショートして、助けを求めるように縋り付いてしまう。五条先輩は楽しそうに、意地悪そうに笑って、私の鼻先に甘く噛みついた。