交渉成功

どんなに明日が来るなと願ったところで時間の流れは平等で、明けない夜はない。憂鬱で仕方がないけれど、朝が来てしまったのなら学校に行かなくてはならないのだからと自分に言い聞かせて体を起こし、ベッドから出る。柔らかなラグマットの上を数歩進み、スリッパを引っ掛けて部屋を出た。洗面台に向かってまだ冷たい水で顔を洗う。朝食をとる気分にもならないが不要な心配を掛けたくもない、どうしたものか。歯を磨いてから髪を梳かし、一度部屋に戻ってうだうだと思考を巡らせながら服を脱ぐ。ナイトブラを外して下着を付け替え、黒いキャミソールを着てからシャツを羽織りボタンを一番上を一つ残して留める。ショートパンツを脱いでスカートのホックを留め、ジッパーを上げたら大体の着替えは済む。ハイソックスを履いてからカーディガンを羽織り、ブレザーとネクタイはそのままにしておく。着替えが済んだのでリビングへと向かえばコーヒーの香りと、パンの焼ける匂いがした。


「おはよう、喜雨ちゃん。」
「おはよう、よく眠れましたか?」
「おはようございます。…今日も二人より遅くに起きてきたのを知ってて言うのは意地悪ですよ、義兄さん。」

くすくすと笑う姉さんと、慌てた様子の義兄さん。私が揶揄うような事を言ったから不意打ちで驚いたんだろう、本当に素直な人だと思う。

「私もコーヒー貰っていい?」
「どうぞ、見遥は飲みませんから。」
「だって苦すぎるのよ。」


いい朝だなぁ、とコーヒーを飲みながら呆けてしまう。あと一時間もしたら家を出なくてはならないのに、二度寝をしたくなってしまうような温かくて幸せな朝。数時間後に顔を合わせるであろう、白い方もとい五条先輩の事を考えると憂鬱の方向へ気分が傾いてしまう。二人に相談は出来ないし、駿と空護とも相談した結果だからもう身を任せるしかないんだけど。溢れそうになった溜息をコーヒーで流し込み、義兄さんに手渡されたチーズトーストに齧り付いた。



歯磨きを済ませてネクタイを締め、ブレザーを羽織ったタイミングで携帯から通知音がする。充電器に繋がれたまま放置されていた端末を手に取り充電コードを引き抜いて指紋認証でロックを開くと案の定幼馴染たちとのグループの通知だ。いつも通り、今から家を出るから準備しておけの一言。私が返信した後も既読が増えず、珍しく駿が寝坊したのかと思ったがポケットに端末をねじ込んだタイミングでまた通知音がしたので問題なく合流出来そうだ。鞄を肩に掛けてリビングへ顔を覗かせると二人はまだ話しているみたい。

「行ってくるね。」
「あら、今日は少し早くないかしら?」
「早めに学校行って三人で課題の答え合わせする予定なんだ。」
「そうなの、気を付けて行ってらっしゃいね。」
「ありがと。義兄さんも、また後で。」
「はい、また学校で。」

いってきまーす、と二人に言えば笑顔でいってらっしゃいと返ってきた。ローファーを履いて家を出れば、下で二人が待っているのが見えたので少しばかり急いで合流する事にしよう。


「ンで?先輩っていつ来ンの?」
「さぁ…明日としか言われてないんだよね。」
「昼休憩か放課後じゃない?」

課題の答え合わせをしながら三人でぽつぽつと作戦会議未満を始める。空護が不思議そうな顔で課題を見つめているがいつものことなので気にしない。駿の言う通り、来るのなら昼か放課後だと思う。わざわざ早くに登校するタイプには見えない、というか昼過ぎに登校してきそう。此処で昼を別の場所で食べたり、放課後は残る事なくすぐに帰れば会わずに済みそうだけど…でも逃げてばかりでも問題は解決しない。今日は来てくれて構わないから…というか寧ろせめていつ来るかソワソワしない為にもさっさと来て欲しい。

「みーつけた。」

ゾワッと一気に鳥肌が立つような感覚を覚える。ぎぎ、と古いブリキ人形のようにぎこちない動きで声の方向を見ればさっさと会いたいが出来る事なら関わり合いたくない人間が立っていた。なんで不良なのに朝から来てるの?真面目なのか不良なのかハッキリして欲しい。

「……おはようございます、五条先輩。」
「おはよ、喜雨ちゃん。ちょっと良い?」
「ハイ。」


人が集まる時間が近いからか、場所を変えるらしい。扉から手招きされたので課題を駿に手渡すと二人は心配そうな顔で此方を見てきたからそれに若干引き攣った笑みで返す。空護が何かを言おうとしたけど、これから私があの人と二人になるのに逆鱗に触れるのは不味いと思ったのか口を噤んだ。ありがとう、あと私が無事に戻って来れたら全力で癒して欲しい。スタバ奢るから。

「お待たせしました。」
「いーえ、こっち。」
「…はい。」

登校してきたであろう人達の目線が此方を見て三度見する光景が何度も目に入って胃が痛い。この人目立つんだよ。見た目派手だし、不良だし。まだ黒い方のが目立たない…いや、二人揃ってるのがいつもらしいから、どちらにせよか。足の長さが全然違うのに、私が早歩きになることはなかったのだけが、不思議だった。



「あの…五条先輩…。」
「なあに、喜雨ちゃん。」
「なんで此処なんですか…。」

黙々と向かった先は昨日の空き教室だった。昨日とは異なり、窓もカーテンも閉まっているから薄暗い。此処にたどり着くまでの間に何処に向かってるのか尋ねたけれど五条先輩は笑顔を浮かべるばかりで答えは得られなかったから諦めていたが、…いい思い出が一つもない教室なんだけどな。気が付かれないように小さく、でも深く息を吐き出してから近寄る。五条先輩は楽しそうに笑った。

「告白した場所で答えを聞きたいじゃん?」
「昨日お断りした筈なんですけどね。」
「なに、好きな人でも居る?一緒に居た二人のどっちかかな?」
「好きな人は居ませんし、あの二人は幼馴染ですよ。そういうのじゃなくて…、」
「じゃあ、なんで?喧嘩するからとか?」


またあの目だ。冷たい、全部見透かすみたいな目。怖いんだよ、この人!なんて思うけれど此処で貴方が怖いので先輩が飽きるまで付き合いますなんて言っていい相手じゃない。何をされるかわからないし、あの人たちに迷惑が掛かるのは嫌だ。爪が食い込むくらい手を握り込んで、息を吸う。同じくらいの高さになった目線を正面から捉えた。

「五条先輩だから付き合わないとかじゃないです。先輩が喧嘩してなくても、私は先輩と付き合うことはないです。人と、付き合う気がないので。」
「へえ?」
「姉夫婦に、これ以上迷惑や心配をかけたくないんですよ。目立たない優等生をやって、卒業後すぐに働けるようにしておきたい。真面目な生徒をやるには恋愛は邪魔なんです。」

五条先輩は何も言わない。それが逆に怖いけれど、嘘は吐きたくなかった。例えあの告白が物珍しさや面白半分だったとしても、それはある意味嘘のない好意だから。そういう曇りのない気持ちで好ましいと思ってくれたのなら、私もきちんと返したい。

「昨日、」
「はい?」
「僕に殴られても犯されてもいいって顔してたのは、そこ?」
「…暴力に慣れてるのは本当です、あの人達に先輩程の力はありませんでしたけど。あとはもう、失いたくないのが家族と幼馴染だけだから、私自身はそんなに。」
「ふうん。」

少し考えてるみたいで、きちんと伝わったのだと安堵した。昨日は本気で人の話を聞かないなと思ったけど案外意思疎通が出来るのかもしれない。目立たずにしてくれるのならいくらでも遊ばれるのでこれっきりにしてくれると嬉しい。それと昨日、ろくなお礼が出来ていないのでこの話を終わりにして家入先輩のクラスを教えてもらおう。


「ええと、そういうわけです。なので先輩とは、」
「本気で欲しくなっちゃった。」
「は?」
「ねえ、やっぱ僕と付き合お?」


長い腕が私の体を捕らえて、抱き締められる。引き寄せられたままの不恰好な私を気にしていないみたいに、背中に回った手に力が籠る。でも、痛くない。なんで?どういうこと?なんてぐるぐるして来たけれど五条先輩は気にしてないみたいで私の首元に鼻先を埋めてくる。擽ったい。

「喜雨ちゃんが頷いてくれたら僕、喧嘩控えるよ。」
「いや、それ私に得あります?」
「あるある、真面目な優等生したいんならね。」

意味が分からない、良く考えれば分かるのかもしれないけれどこんな状況で冷静に物事の判断なんて出来るはずもない。

「学校一の不良の手綱を握って、更生させた。僕が一時的にでも大人しくなるだけで万々歳らしいし、此処の教師達からすれば君は救世主。君の成績が見合えばどんな場所にだって君が最優先。更には僕は今年で卒業、長期休暇を抜いて大体九ヶ月くらいかな?成績はどうしようもないけど内申点だけ考えるなら卒業までの三分の一くらいの時間で希望の職に就けるって考えたら美味しくない?」
「えっ、と?」
「僕が君を好きな間は良い子にしててあげる。売られた喧嘩は買うけど学校には見えない場所でやるから安心して。」
「……あの、何個かいいですか。」
「なあに?」

楽しそうに弾む声からは真意が読めない。つらつらと並べられた言葉たちに説得力があるのかと言われたらまた微妙…いやでも義兄さんの話を聞く限り、多分この学校で問題を起こしてるのはこの人達。そこを抑えられれば学校自体の評価も少しは持ち直せる…とかかな。

「もう一人の人は…?」
「傑のこと?あー…大丈夫、アイツも喧嘩早いけど一人ではやらないよ。僕が言ったらそうかで終わると思うし。」
「私が断ったら?」
「OK貰えるまで通う。なんだっけ、通い婚?」
「それは結婚してます。」
「誕生日来たら結婚する?12月まで待っててね。…まあ、あとは僕が喜雨ちゃんを口説いてるのを見た教師から色々頼まれるだけじゃない?」

不穏な言葉しか出て来なくて頭が痛い。うんうん唸ってたら五条先輩の手が背中を撫でて、短い悲鳴が漏れる。

「最初は打算で頷いてくれれば良いよ。あとは僕が惚れさせるだけだから。」
「い、一ヶ月ください。」
「なんで?」
「すぐ付き合い始めて先輩が喧嘩を控えてくれる保証がないので、その確認です。それと…一ヵ月の先輩と距離を詰めていく"時間と理由"があった方が今後楽なので。」
「…僕が君を口説く所を周りに見せておく方が都合が良いって?」
「はい。教師達が勝手に先輩が先に惚れ込んだと思ってくれれば先輩と私が別れたりしても私の評価は下がりにくいでしょうし…先輩が私に飽きても波風立たないですし。」


面倒くさいだろう、と思う。でもこれくらい予防線を張っておかないと逆に評価を落とす事になる。目立ちたくて悪い先輩にひょいひょいついて行ったなんて評価は避けたい。避ける為にも派手な先輩に気に入られたけれど自分の為に改めてくれた、だから付き合った、という逃げ道にもなる建前があった方が良い。それと、こうやって色々提示して"踏み台にしかしません"と意思表示する事によって先輩の飽きに直結させたい。

「良いよ、じゃあ一ヵ月ね。」

そんな私の思惑とは異なり、まさかの許可。は?え?と混乱していたら五条先輩は私の首元に噛み付いて来て、痛みで思わず身を固める。

「一ヵ月、僕が喜雨ちゃんの教室に通って全力で口説く。真面目に学校も来るよ、好きな子に振り向いて欲しいからって健気にね。」
「いや、あの…。」
「だから一ヵ月経ったら絶対にOKしてよ。」
「先輩に、得、ないです、よ?」
「なんで?好きな子と付き合えるんだから得でしょ?」
「…本気ですか?」
「本気だよ、本気で君と付き合いたい。」


逃げ道を絶ったのは私だったかもしれない。背中を嫌な汗が伝って、心臓が細かく全身に血液を送り出すのがどこか他人事みたいに思えて来る。興味だけだと思っていた、だから面倒な条件を突き付ければさっさと終わりになる。そう思ってたのに。

「本気で口説くから、覚悟しててね?」

鼻先が触れるような高さで、視線が混じる。宝石みたいな瞳に見つめられて身動きが取れない。逃げないとまた何をされるか分からないのに、先輩の柔らかそうな唇が動く様のひとつひとつがスローモーションに見えて。先輩が動くと同時にキツく目を瞑れば、唇が口の端に押し付けられた。


「今は此処で我慢してあげるけど、付き合ったらキスもセックスもするから。」
「五条、せんぱ、」
「あと悟って呼んで、苗字で呼ばれるの嫌い。」
「つ、付き合ったら…で。」

弾けるように笑った五条先輩に体にこもった力が抜けていくのを自覚する。顔が綺麗だというだけで此処までの存在感や圧迫感があるのはどうなの、心臓に悪いじゃないか。というか、今更だけど近い!体を離そうと胸に手を置いた。


「悟、こんな所に居たのか。」


デジャヴ。声のした方向に目を向ければ予想通り、昨日の黒い方だ。ゆっくりとした歩調で此方に向かってくる。扉を閉めたのは多分、彼なりの気遣いだろう、きっと。

「硝子といい傑といい、僕の邪魔するの好きすぎない?」
「硝子は兎も角私は邪魔をしに来たわけじゃないんだけどね。その子かい?」
「そー、手出すなよ。僕のだから。」
「先輩のじゃないです。」
「はは、本当に気が強い子なんだね。ほら、体勢が辛そうだよ。離してあげな、悟。」

黒い先輩が言うと舌打ちした五条先輩が拘束を解いてくれた。向き直って頭を下げると軽く手を上げて、構わないよと続ける。

「夏油先輩、ですよね?」
「おや、悟が私のことを話したのかい?」
「家入先輩に…五条先輩との意思疎通が難しかったら夏油先輩に意思表示してみろ、と。」
「硝子め。」
「ふっ、はは、成る程ね。」
「あと、夏油先輩は、」


キーン、コーン、カーン、コーン、


「予鈴かな。」
「っ!失礼します!」
「喜雨ちゃん、僕連絡先聞いてないんだけど。」
「先輩が今週一限からちゃんと授業出てたら金曜日に教えます!お昼は幼馴染たちと過ごすのでまた放課後会いましょう!じゃあ!」

先輩たちに頭を下げてから勢い良く飛び出して教室へと向かう。鞄もあるし、二人が教師に説明をしてくれるだろうけれどこれから目立つ事になるので今からは目立ちたくない。いやもういっそ五条先輩に捕まってましたという言い訳が今日から必要になるわけなんだけど。ああもう、予想外の出来事ばかりで訳が分からない。言い訳より何より、癒しを求めて怒られない程度に走った。
タルト有馬す。