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急に落ちる感覚がして身体がビクッと動き、意識が浮上する。ガシャッと何かが倒れる音と水の溢れる音、筆の転がる音、手に当たる絵の具チューブの感覚にまたやってしまった!と焦って起き上がろうとする。

「いっ!…ったぁ…」

髪が引っ張られる痛みに思わず声を上げ、自分の下敷きにしたまま寝てしまったキャンバスを見るとしっかりと横髪が分厚く盛った油絵具にくっついてるのが見て取れた。
昨日の夜筆が乗ってそれはもう楽しく描いてるうちにご機嫌なままキャンバスを枕にして寝たんだってすぐわかる惨劇に思わず掌を額に当てるとパリパリとした感覚が手に伝わってくる。あ、これ顔も絵の具だらけなやつだぁ…

覚悟を決めて絵の具に巻き込まれてる髪を強く引っ張り抜く。本数が中々多かったのか酷く傷んで滲む涙に瞬きを繰り返しながら指で頭皮をわしわし擦り痛みを誤魔化す。

白い壁に飾られた午前6時36分を示すやたらムラだらけの鬱金色の時計は小学生の時に中学生だった兄が学芸会の舞台で演じた和尚役の衣装の袈裟装束に影響を大いに受けた今で言う僕の処女作とも言える作品だ。しかしムラが酷いな…塗り直したら兄さん怒るかな?

そんな事を思いながら立ち上がり身に付けていたエプロンを雑に脱ぎ、使われず新品の輝きを保ったままのイーゼルに引っ掛け、窓辺に近寄りスチールブルーの遮光カーテンを開き換気のために少しだけ空いた窓を大きく開く。
途中で見かけた中身の消えた油皿は見なかった振りをする、やっぱあの音油皿か…ボトルじゃなくて本当に良かった。筆洗いじゃないだけマシ筆洗いじゃないだけマシと自分に言い聞かせながらキャンバスの近くに転がるキッチンペーパーを拾い何枚かちぎり取り零れた溶き油を拭いそのままゴミ箱に放り込む。

今回の寝落ちの被害は髪の毛数十本に零した溶き油、昨日盛った絵の具がグズグズに伸びてる事、その他は…筆が2本、まぁ仕方ない。気に入ってた筆だったんだけどなぁ…

ため息を一つ零しギシギシ軋む身体をひねり解しながら部屋を出る、兄さんの事だからもう起きてるだろうし作業部屋で寝たのも気付いてるんだろうなぁ…怒られるかなぁ、いや怒りはしないか。

どうせ落ちない事を理解しつつも気持ち着ていた作業着に手のひらを擦りリビングのドアを開いて入る、リビングに入ると珈琲の匂いに少しだけ靄がかっていた意識が晴れる。

「おはよう、兄さん。今日も早いね」
「おはよう駿。今日は随分とお洒落だね?」

「ちゃんと部屋で寝なかったのはゴメンって…」

自分の頬にトントンと触れながらこっちを見て穏やか笑う兄さんに肩を竦めて謝ると兄さんはくすくす笑いながら僕のお気に入りのマグカップに珈琲を入れた後ダイニングテーブルに置かれたパソコンの前に座る。テーブルにノートパソコンがあるって事は兄さんこの朝早くから仕事してるって事だよね…兄さん今日は何時に起きたんだろうか…。
僕も向き合うように椅子に座り、珈琲をひと口啜る。兄さんと二人で住むようになってから毎日飲んでるうちに飲みなれてしまった味に身体が温まりほっと息を着く。
いくら暖房があるっていったって、窓が空いた部屋で寝るのは身体がどうしても冷えてギシギシする。

「駿、それを飲んだらシャワーを浴びておいで。流石に今日が休みだとしてもそのままはマズイだろう?」
「あー…うん、多分もう色自体は落ちないだろうけど…」

カタカタとキーボードを打ちながら言われた言葉に頷き、また珈琲を口にする。
両手でマグカップを包んだままぼんやりとパソコン画面に向かう兄さんの顔を見つめる。
兄さんの顔は正に人間の顔の黄金比と言われる比率に当てはまる…と思う。数式的に計算したことも、兄さんの顔に顔の黄金比のバランスを当てはめた事も無いけれど丸1年も芸大に通っていたら何となくくらいは分かる…気がする、僕が勝手に思ってるだけだけれど。
何時になるかわからないけど、兄さんや喜雨…他にも身内って言えちゃうくらい親しい人以外に絵を買って貰えたり、絵の依頼が来るくらいに画家として認められたら…兄さんをちゃんと、その時自分に用意出来る最高の絵の具で、その時自分が持ってる最大の技術で、理想の構図で、僕の自慢の兄さんを描いてみたいなぁ…
それも、描かせてって無償でお願いするんじゃなくてモデルとして謝礼を払って、キチンと僕が描きたい僕の理想を詰めた世界でたった一枚の、僕の全部を詰めた油画を描ききってみたい。
それが出来たら、きっと僕は胸を張って画家なんだって公言できる様になる気がする。

「今の技術じゃ…描ききれないんだろうなぁ…」
「…何がだい?」

ポツリと口からもれた小さな呟きは、思っていたよりも部屋には響いてしまい、鳴り続けていたタイプ音が止まる。
しまった、邪魔をしたと思うよりも兄さんがコチラを向いて口を開く方が早く、それを誤魔化すように首を振り返事をする。


「描いてみたい、画題があるんだけど…今の僕の技術じゃちょっと難しくてさ、何時かそれを胸を張って描けるようになりたいなぁ、って話だから気にしないで」

「なるほど?」

僕の言葉を聞いて兄さんは視線を左下へ動かした後、ノートパソコンを閉じキッチンカウンターの上で洗われたまま置かれてるガラス製の灰皿へと手を伸ばす。

「駿は今まで描けるものしか描いていなかったかい?」
「そういう訳じゃないけど…」

兄さんは話し始めながら灰皿をテーブルに置き、ノートパソコンの近くにおざなりに置かれていた煙草を取り銀色のジッポで火をつける。
兄さんなりの真剣な話をする時の体制だ、兄さんは何時も真剣な話をする時こそ話してる相手を見ない。

僕が思春期を拗らせてた時は真剣な話なのに何で僕の話を聞いてくれないんだって怒った事もあったっけ…その時に兄さんが言ってたのは、
『真剣な話だからこそ、私は相手の話だけに考えを取られて答えを出せないのが嫌なんだ。私に相談をしてくれたのだからきちんと私は私の意見を言いたいんだ』だったかな。
ちゃんと聞いて、理解して、意見を言うために相手の話に夢中になりすぎない。

いい加減に見えるかもしれないけど、兄さんのその姿勢は兄さんにとって最大級の対話の体制だって兄さんが教えてくれた。
そんな兄さんが、僕のちょっとした呟きに反応して真剣に聞いてくれてる。これちょっと勘違いされちゃったな、確かに絵を描いてる最中に寝て頬を絵の具でベッタリにしてる奴が技術不足で描ききれないなんて言ったらスランプで悩んでるとしかとれないな…勘違いさせて本当にゴメン、そんなに僕今悩んでない。

煙草の煙を吐き出した兄さんが煙草の灰を落としながらこっちを見る。


「今の技術じゃ描ききれないのなら、描けるまで描き続けたらいい。簡単な話じゃないかな」
「そうなんだけどさ…僕にとっては一世一代の画題なんだ」
「一世一代ねぇ…」

咥えた煙草がジジ…と微かな音をたてるのを聞きながら兄さんの返事を待つ、兄さんは考えたように数口煙草の煙を吐き出した後。煙を僕の方に吐かないよう横に向けた顔を僕に向けて薄い唇を動かす。

「駿が小さい時に見に行ったダ・ヴィンチの受胎告知は覚えてる?」
「そりゃあ覚えてるよ、あんな世界的な絵画が見れるなんて滅多にないし。生まれて初めて見たダ・ヴィンチの作品だもん」
「そのダ・ヴィンチの一世一代の作品だって言われてるモナ・リザだってデッサンの他に2枚あるって話だろう?一世一代の画題が1人1枚なんて勝手に決めつけてるだけじゃないかな」

いやそれ一世一代の画題じゃなくて代表作だしもう1枚のモナ・リザだって真作とはまだ判明してないやつ…

兄さんなりに僕を励まそうとしてるのか、鼓舞しようとしてるのかそれともどっちもなのか。
ちょっと無茶な理論じゃないのそれ
何時だって理論的な事を言ってくれる兄さんの口から出た暴論に空いた口が塞がらない僕を置いてきぼりにしたまま兄さんは続ける。

「それにほら、駿の好きなモネだって6枚だか7枚だかひまわりの絵を描いてるんだろ?花瓶に挿さってないのを数えると十何枚あるらしいじゃないか。」
「それモネじゃなくてゴッホ…」
「そうだったっけ?じゃあ駿が好きな画家はゴッホか。」
「いや、好きな画家はモネだけど…」

兄さんが絵に詳しくない事に驚きすぎて本当に空いた口が塞がらない…あれだけ僕の話を聞いてくれてたのにまさか覚えてないなんて…

「世界的画家のダ・ヴィンチやゴッホだって満足いくまで描いたって誰も文句は言わないんだから駿だって一世一代の画題を何枚だって描きあげたらいい。1枚に拘るなら気に食わなかった絵を燃やしてしまえば結果的に1枚だよ、違うかい?」
「ねぇ…自分が無茶苦茶なこと言ってることわかってる?」
「そんなに無理難題を言ってるかな?駿だって練習あるのみって言っていたのに突然そんな後ろ向きな事を言い出したから私も驚いてるのさ」

短くなった煙草を灰皿に押し付ける兄さんの口角が少し上がってるのに気づきガックリと首を落とす。これ絶対に

「からかってるでしょ。兄さん」
「少しだけね」

自分でも完全に自分が拗ねた顔をしてるのがわかるほどに頬が引き攣る、そんな僕の顔を見て堪えきれなくなったのか声を上げて笑いだした兄さんに更に半目になりながらすっかり冷めた珈琲を飲み干し椅子から立ち上がる。
立ち上がった僕の姿を見て少しだけ落ち着いたのかクツクツ肩を動かしながら笑ってる兄さんが口元を手で押えながら笑い混じりに言ってくる。

「余りにも駿がキョトンとしてるからすぐわかったんだけど、駿の一世一代にしたい画題というのが気になってしまってね。からかったのはすまなかったよ」
「兄さんって優しいけど言われないかもしれないけど結構意地悪だから彼女出来た時それが原因でフラれないよう気をつけた方がいいよ、ほんと」
「私を優しいって言うのは家族くらいなものだよ」
「ほらすぐそうやって僕をからかう」

空になったマグカップをシンクで洗い始めた僕に手をヒラヒラと動かしながらまた冗談を言う兄さんに反論してると本当なんだけどなぁ、なんて笑いながら言ってる兄さんの言葉を誰が信じるっていうのさ。

「それで?」
「何が?」

笑いがおさまったのか首を軽く傾げながら僕に聞いてくる兄さんの言葉の脈略がわからず流してた水を止めながらつられて首を傾げる僕に兄さんはまた質問を投げかける。

「駿の今の技術じゃ描ききれない一世一代の画題って奴さ」
「あー……なるほど?」
「ここまで相談に乗ったんだから教えてくれたって良いだろう?」
「からかったの間違いでしょ」
「そういう捉え方もあるかな」

言いたくなくて濁す僕にニコニコと人の良さそうな笑顔を浮かべて聞いてくる兄さんからフイと顔を逸らし洗ったマグカップを珪藻土でできたドライングボードの上に置く。

「それで画題は?」
「………シャワー浴びてくる」

余りにも下手な言い訳を置いてお風呂場へ向かう僕の背中へ兄さんの盛大な笑い声が追いかけてくる。
その笑い声が恥ずかしくて顔が熱くなって冷ますために急いで脱衣所で服を脱ぎシャワーを浴びる、うっすらと湯気で曇る大きな鏡に頬にベッタリと着いた赤い絵の具に負けず劣らず真っ赤な自分の顔にたまらなくなって鏡にシャワーヘッドを向ける。
湯気で完全に曇って絵の具も顔の赤さも見えなくなってやっと一息つけたような気分になってボディーソープをボディタオルにのせ、絵の具が着いた身体を擦る。

兄さんを題材にした絵は学校でしか描かないことにしよう、家だと絶対兄さんからかってくるから…そうしよう。
それで納得いく絵が出来た時兄さんに言ってやろう『僕を画家にしてくれた兄さんが、僕の一世一代の画題で、一番の代表作だよ』って。


身体にこびりついた絵の具をボディタオルで強く擦る、ポロポロと体からはがれ落ち、シャワーの水に流されていくのを見ながら強く、心に決めた











タルト有馬す。