ホルベインのハンドクリーナーを顔に揉み込むという暴挙に出なきゃいけない事態を作った顔色キャンバス事件からはや一週間、頬にアザみたいにできた色移りもなんとか薄れてきた。
休み明けに学校に行ったら顔にくっきりとついた絵具の色に同級生であり友人の
電車内の風景を眺めながら、出勤や通学、ただの外出やデート、多種多様の人達が乗り込んだ一つの長方形の箱が敷かれたレールの上を走るなんて昔の人は想像ついたんだろうか…?
ペール、パステル、モノトーン…ビビットは流石に今の視界にはいない、それぞれが着ている服の色を見て色の組み合わせを考える。
こういう暇つぶしをやり始めたのは何時からだろ、芸大に受験するって決めた時にはもうやってたな…
「おぉ、夏油!電車で会うとか偶然やん!」
ぼんやりとしてた所に突然自分を呼ぶ声にビクッと肩が跳ね声の方を見ると深いオリエンタルグリーンの髪を無造作に赤いバンダナで上げた男の子が立ってた。
ビビットカラーの絵の具があちこちに着いた黒のオーバーオールにマゼンダピンクのロングTシャツ、首にはドクロの描かれた真っ赤なヘッドフォン、ネオンイエローのサコッシュには大小問わずの缶バッチが無秩序に並んでる。
自分じゃまず選ばない色の並び、着ない服に思わず頬が引き攣る。
「よ、おはよ!」
満員電車の中で人の隙間から片手をひょいっと上げて言われる言葉に思わず口元に人差し指を立てた右手を寄せる。電車の中なのに声が大きすぎるよこの人!
「わりぃわりぃ。マジで偶然やんな、家どこ?」
「え…っと、文京区の方に今は住んでる」
「文京区!?お前坊ちゃんかよ!」
「声が大きいし…違うよ…兄と一緒に住んでるし、普通のサラリーマンだよ」
「うわーーマジでボンボンみたいな発言やんそれ?」
声が相変わらず大きいビビットカラーの擬人化…もとい
というか清水くん昨日まで髪色赤じゃなかっけ…
満員電車にすし詰めになってる状態でグイグイと人の間を縫うように近くに来る清水くんに縮まる距離とは裏腹に心の距離が開いていくのを感じる…何で人を押しのけてまで来るの…?
「いやぁ、東京ってマジで人多くね?オレこのまんま卒業までこの電車に乗り続けてたらいつかバッテラになってそうで怖ぇんだけど」
ケラケラと笑いながら言ってくるけどボクは君が怖いよ…
「バッテラって何…?」
「バッテラ知らねぇの?鯖の押し寿司なんやけどさ」
「鯖寿司じゃないの…?」
「こっちだと鯖寿司って言うんか?違いとかなんかあるんかな?」
聞いたことの無い料理名に内心首を傾げていたら清水くんにざっくりと説明されたけどイマイチピンと来なかった、そうして戸惑ってるうちに車内アナウンスで最寄り駅に着くことを知らされ降りる為に少しだけ体を動かす。
リュックのサイドポケットから好きな画家であるモネの【睡蓮】が描かれたカードケースを取り出し、リュックを背負いなおす清水くんもドアの方を見ている。
ゆっくりと止まり、ドアが開く電車から沢山の人と共に降りる。きっとこの様子をタイムラプスとかで撮ったら凄いんだろうな…前に理科の授業で見せられた鳳仙花のタネが弾ける瞬間みたいになるのかな…何て考えながら改札に歩いて向かう、ボクの何故か歩いている清水くんも改札にむき出しのままの定期を当て、改札口を出ている。
このまま清水くんボクと一緒に学校に行くのかな…
自分よりも低い位置にあるオリエンタルグリーンの髪を何となく見つめながら駅から大学へと向かうボクの視線に気付いたのかこっちを見る
「どしたん?なんか付いとる?」
「清水くんって昨日まで頭赤く無かったっけ…?」
「あぁ、昨日染めたんよ。赤も好きなんやけど次描くん決めたからそれのメインカラー緑にしよーってな」
絵の色を決めるのと髪の色を決めるのになんの因果関係があるの…?
「それで緑に…?」
「おん、忘れっぽいからすぐテーマだの画題だの忘れてまうから頭ん色にしとったら忘れんやろ」
「えぇ…」
芸大なんてクセが強い人が多いって聞いてたけどそれにしてもクセが強すぎる。
そうこうしてるうちに絵画棟について油画専攻の使っている実技室に入る、今日も一日のほとんどが油画の実技に割り当てられているからゆっくり描けるのは嬉しい。
ぽつりぽつりと先に登校していたクラスメイト達に挨拶をした後に自分に割り当てられたイーゼルの前に置かれた椅子に座り、椅子の横にリュックを下ろす。
安いリュックだけど水濡れや汚れに強いって言うだけあって、汚れやすい場所においても平気なのが気に入ってる、幼馴染二人が選んでくれたのもあるけれど…
余りにも人が多すぎる電車に来てそうそう少し疲れてふう、と一息つ居ていると右隣のイーゼルが割り当てられた沢渡くんが登校してきたのか椅子に座るのが視界の端に入る
「おはよう、沢渡くん」
「おはよー夏油。今日も一日実技だな、着替え持ってきたか?」
「うん、まだ早いしもう少ししたら着替えてくるつもり」
お互い挨拶を軽く済ませ、描き途中のキャンバスを眺める。去年入学して約半年は油画専攻に入ったのに殆ど油絵具には触らなかった、素描ばかりで不満を持った声をあげる人も多かった。一年の後期にやっと油絵具を使って色んな技法を改めて学び直した。
元々習い事や美術系の高校に言ってた子達はせっかく芸大まで来たのに…なんて言ってる人もいたけど、ボクにとっては芸大に来たのだからこそ…なんだよなぁ。
写実的に物を表現出来た後に自分の美的センスや芸術観によって描かれる絵と、写実的にかけないけど美的センスや自己評価だけで描かれる絵は似てるようで全く違う。
どんな風に世界が見えているのか、見える世界をどう表現するのか、見えるものを見たままに伝えることが出来なければ自分の見える世界を他の人に言葉無しに伝える事なんて出来ないし。
絵を見るだけの人が感じる、絵の中に広がる世界観と描く人間が世界に込めた世界観の差異がどれだけ縮められるか、それは描いた人間の技術にかかってる。
だからとことん詰めて、描いて覚えるんだ。それは確かな実力、経験を経てきた人がいる芸大でしか出来ない事だってボクは考えている
しっちゃかめっちゃかに描くだけなら幼稚園生でも出来る。好きな色を好きなだけキャンバスにのせるだけなら動物園の猿にだって出来る。
そこに自己表現、オリジナリティ、芸術性を込められるのは学んだ人間だけだ。
二年に上がって10日、GWの前に控えた芸祭に向けてやっとボク達絵画学部油絵専攻の生徒は自由な画題で一枚絵を描き上げる事を実技の課題として出された、デザインの大まかなラフ画から実際に油彩画として描き上げるという一連の流れを通しでやるという内容。
ボクは頬に油絵具をべっとりとつけて兄さんに揶揄われるまではその課題に描くのを風景画にしようとしていた、けど兄さんに揶揄われた次の日から画題をガラリと変えて描き直すことにしてラフ画を一から描き直して教授に許可を得て何色か既にのせて大まかな輪郭まで描きあげていたキャンバスをチタニウムホワイトで塗りつぶした。
全てを塗りつぶす白を描き途中のキャンバスに塗りたくるボクに同級生は「どうした!?」ととても心配そうにしていたけど何のことはない。ただ、より描きたいものが出来ただけ。
ただでさえ乾きにくい油絵具の中の更に乾きにくいチタニウムホワイトをキャンバスの全面に塗ったボクはその日もその次の日も何もキャンバスに描き込めず、イーゼスに置かれたキャンバスの前の椅子に座りクロッキー帳により精密なデッサンを描き、より緻密に背景に描くものの案をいくつも描くボクに沢渡くんは
「どうした?スランプか?悩んでるなら相談乗るぞ…?」
なんて心底心配した顔で自分のキャンバスに色を乗せながら小声で話しかけてくれていた、そんな心配してくれた沢渡くんにボクはクロッキー帳から目を離さないまま
「より描きたい画題ができただけだから気にしないで」
そうやって素っ気なく返してしまった、その点に関してはちゃんと後で謝ったから許して欲しい。
周りの子よりも2日も3日も描き始めが遅れたボクは大慌てで下絵を描き、速乾油であるテレピンを混ぜた油絵具で遅れた時間を取り戻すように急いで色を乗せ、なんとか他の子に追いついたから今日からいつも使っている溶き油を使って描こうと、まだ大まかな輪郭までしか描かれていないキャンバスを見つめながら考える。
「んー…なぁんか違うんだよなぁ…」
悩んだような声が左隣から聞こえてきて、そちらに顔を向ける、左隣のイーゼルが割り当てられたのは
キャンバスを見ながら腕を組み顔をキャンバスに寄せたり離したりしている結城さんに思わず声を掛ける。
「どうしたの?」
「何か濁ってる気がして…ちゃんと乾かしてから色をのせてるから絵具同士が混ざっちゃってるってのは無いはずなんだけど…」
「濁った感じはしないけど…なんだろう?」
うーんと声を出し考え込んでしまう結城さんの描いた絵を立ち上がり覗き込む、結城さんの言うように濁った印象は特に見受けられないが本人がそういうのだからそうなのだろう。
悩む結城さんの横で同じようにキャンバスを眺めながら考える…白のキャンバスにさまざまなパステルカラーをペインティングナイフで重ねて花弁を表現しつつ、白い包み紙に包まれ、黄色いリボンが結ばれた花束の絵…淡いが同じトーンの様々な色が並んでいて、本当に濁ったようなイメージは無い。
ただ、強いていうのならば花束の周りが何も塗られていないで花束の花弁の立体感と包み紙に背景、キャンバスの全体を見るならば少しばかり花束の立体感が浮いているような印象がある。
けどまだ途中だから今日や明日の作業でやるつもりなのかもしれないし結城さんのいう濁りと違う部分かもしれないし指摘するのを悩む。
自己表現として描いているものを描いてる最中に横から口を出して本人の自己表現の機会を曲げてしまったら、それは一度曲げてしまった針金のようにいつまでも残り続けてしまう。
どれだけ真っ直ぐに伸ばしたとしても、一度曲げられた針金はどんな手を使っても一度曲がってしまった針金だ。
もし、ボクの一言が結城さんの針金を曲げてしまったら。自己表現の機会を奪ってしまったらと考えると更に言えず、ただただ結城さんの描いた絵を眺める。
「結城ちゃん、濁っとる言うとるんってざっくりどこら辺なん?」
「うーん…この辺…?」
いつの間にかボクと結城さんの後ろでキャンバスを見ていた清水くんがボクと結城さんの間から顔を覗かせ結城さんに声を掛け、それに結城さんは手でキャンバスを示しながら返事をする、結城さんの指さした濁った感じのするという場所はボクが少し気になった花束の包み紙の部分だった。
「んー…濁っとる感じはせぇへんけど、強いて言うんやったら…なんやアレやな」
「アレって?」
「雪ん中に食いさしの苺大福落としてしもうて齧ったところから苺見えとる感じやんなぁ…」
顎に手を当て話す清水くんの言葉はやっぱりピンと来なかった、むしろその状況ってどう言うこと…?とに考える事が増えた、結城さんもいまいち分からなかったのか何それーとくすくす笑っている。
「どない言うたらええんやろなぁ…包み紙とか背景は白のままなん?」
「多少は影とか質感とかは描き込むつもりだけど色は白のまんまかなぁ…」
「やったら影は寒色使うんやなくて暖色使うんがええんちゃう?それかパッキリ包み紙をチタニウムホワイトかセラミックホワイトとかで紙の白さ出すんもええんやないかな」
「あー…シルバーホワイト使ってたわ、だから花弁以外のところがぼんやりしちゃってたのかな?」
清水くんのアドバイスに納得したように頷く結城さんの顔はさっきまでとまるで違って、悩みが晴れたみたいだ…良かった。
「ありがとう清水くんー!これでスッキリしてまた続き今日描けそう!」
「かまへんかまへん、手ぇは出せへんけど口ならいくらでも出すから気にせんで何でも言うてや〜」
「うん、またなんかあったら聞くわ!夏油くんもありがとね!」
「いや…ボクは何もしてないし気にしないで」
ほっとした僕に結城さんが明るい笑顔を浮かべて言ってくる、ボクはただ絵を眺めてだだけで何も言えてないし。お礼を言われるようなことなんてしていないからそれに首を振って答える。それに結城さんは少し眉尻を下げ少し困ったような顔をしてしまう、しまった…余計な事を言った…
「せや、結城ちゃん。これって包み紙ん所は絵具盛らんの?」
まるで助け舟を出すみたいに投げられた清水くんの言葉に結城さんの視線がキャンバスに向かう
「あー…それね、ちょっと迷い中。包み紙の所も盛って統一感を出すか、盛らずに花弁を目立たせるか、どうしようかなぁ…」
「オレやったら盛りに盛って花束やぞー!って目立たせるけど。盛らんと花弁の印象強めてかいらしい感じにするんもエエね。結城ちゃんらしくてええんやないの?」
「とりあえず包み紙の所もう少し色を置いてから全体のバランス見てから決めてみる」
「せやなー、それがええわ」
「ありがとねーホント、助かったわ」
「ホンマ気にせんでええよぉ〜そうやって頼りにされたら二浪して入った甲斐あるわ〜」
そうして広げられる2人の会話をボクは口を挟めずに眺めるしか出来ない。
結城さんは納得いったのか一度うん、と頷き置かれたトートバッグからクロッキー帳を出して絵のラフ画が描かれたページを出してシャーペンで何かを書き込み始め、清水くんはボクの服を見た後壁に掛けられた時計を見て
「あと5分くらいで予鈴鳴るけど夏油は着替えんでええん?いっつもゴツいボンタン着て絵描いとらんかったっけ?」
「あ…!着替えてくる、教えてくれてありがとう」
「全然かまへんよ」
とキョトンとした顔をして言う、それにボクもつられて時計を見て時間を確認し慌てて返事をした後にパンパンに膨らんだリュックからビニールに入った着替えを持って着替える為にトイレに向かう。
結城さんの悩みを相談された訳では無かったけど、自分の頭に浮かんだ言葉を伝えられなかった事は少しだけ、本当に少しだけ苦い物を感じた。