苦いものを感じながら向かった更衣室で着替え、教室に戻りイーゼルの周りに使う油絵具や油皿、筆洗いを準備した後に前の椅子に座る。
今日の作業着は兄さんが仕事で使っていたけれど、仕事を辞めて着なくなってボクにくれた黒いニッカポッカと黒いメッシュ地のハイネック。まだこの時期だとそれだけだと寒いからと作業着のベストも着ているけれど入学したばかりの時は「改装に来てる業者さんに混じってこいよ、バレないから」とか「作業着がこんなに似合わない人間っているんだ…」なんて凄い揶揄われたのを良く覚えてる。
兄さんが着ているとあんなに似合っていたのにボクが着ると確かに着られてる感があるのは否めないけれどそこまで言わなくても…良いじゃ無いか。
ダボダボと布がまるでアラビアンパンツのように余るズボンの中で丁度いい足の位置を探り椅子に座り直す。
布量がとても多いからついズボンで筆やペティナイフ、絵具のついた手を拭ってしまうから助かるんだけど貰ったものを汚すのは…って遠慮して使わずにいたら盛大に兄さんが全ての作業着にどこからか持ってきた白いペンキをハケで飛ばして
「これでもう絵の具がついても一緒だろう?、遠慮せずに使いなさい」
何てニッコリ笑って言うのに唖然と口を開けて見ている事しかできなかったっけ。
大まかなベース色は塗り終わってる所だから今日は顔の部分を描き込もう…と考える。
ふぅ、と一息つき今日絵具を乗せる部分に人差し指で触れる。よし、昨日まで塗った絵具はとりあえず問題なく乾いていそうだ…
木製のパレットに必要な絵具を必要量出し、溶き油で丁度いい硬さになるまで硬練の絵具を溶きながらキャンバスにのせる前にパレットの上で調色する。
兄さんはボクよりも少しだけ黄味が強いんだよな、なんて考えながらパレットの上で整えた色を確認の為にパレットを持つ左手の手首に少しだけ着ける。
…少し赤味が強い…握るペインティングナイフで緑を取り混ぜ合わせていた絵具に混ぜてまた手首に塗る、それを数度繰り返して納得いく肌色が出来てから兄さんの骨格や光源を意識してキャンバスにのせる。
ぼんやりとした輪郭のまま、色をのせる度少しずつ兄さんの面影を浮かべてくるキャンバスに絵の事以外の雑念や雑音を切り離し向き合う。
脳裏に浮かべるのは今の兄さんが袈裟を着て、世の柵を笑い飛ばして人を導く姿。
兄さんは洋服も似合うけど、どうしても中学生の時に着ていた袈裟姿が妙に似合っていて忘れられ無くて何回ラフ画を描いても袈裟姿を描いてしまって、結局袈裟のまま描く事にした。
顔の彫りは深く、どちらかというとコーカソイド寄りの骨格に涼やかな切れ長の目。顔の黄金比にピッタリと添うように置かれた顔のパーツ、少しだけ口は大きい。その口に添えられる唇は薄くて色味が薄い、首は太く力強さを感じられそれを支える肩は筋肉を発達させているのにイカリ肩では無く撫で肩気味で、耳は幸運を運ぶと言われている少し厚みのある福耳、その耳には特徴的な黒いピアスを。
ほんの少し肩が内側に入っている。筋肉だけが太くなっているだけでは無い、太い骨にしっかりと鍛えられた筋肉があるのがわかる背中に上腕。
しなやかに伸びる腕は一度関節部分で少し細くなりなだらかな膨らみを帯びまた手首に向かって少しずつ細くなっていく、けれどボクとは比べ物にならないくらい手首は太く。手首から掌、指先に向かって男らしい無骨さを持ちながらも硬いだけでは無く弾力のある手を絵具を迷いなくのせる。
時間を忘れて色をのせ、肌が一頻り塗り終わり一度乾かさなければならなくなった時には既に2限目の終わり近くだったらしく、筆とパレットを近くの机の上に置き。バランスを見ているとすぐに終鈴が鳴り響く、絵を描き始めると聞こえなくなってしまうのは集中力が高い長所でもあるけれど、没頭しすぎてしまう短所でもあるね、とボクの頭を撫でながら笑って言う兄の言葉が脳裏をよぎる。
ざわざわと教室が騒めき、絵の感想を言い合ったり昼食のメニューをどうしようかと悩む声、色んな声が教室のあちこちから聞こえてくる。
あまり空腹は感じていないけれど、絵の具がすこし乾くまでは肌の部分に手をつけることは出来ないし。服や背景の部分を少し描くにしてもやはり隣り合ってる部分はどうしてもあるから多少は乾かさなければならない…
そして何よりも帰った後に兄さんに今日はどんな事をしたんだい?と一日の内容を聞かれる時に毎日食べた昼食のメニューを聞かれるし…食べていないのがバレたら怒られる。
怒る兄さんは怖いし、何よりこんなくだらない事で怒られたくも無い。仕方ないとパレットの上に残った絵具をペーパーで拭い取りゴミ箱に捨て教室の中に設置されている手洗い場で手を洗った後床に置き去りにされたリュックを片手で拾い上げ食堂に向かう。
食堂の食券機でいつも食べているうどんの食券を買い、カウンターで食券を出しうどんを受け取って空いてる席を探す。
色んな科や専攻の生徒が入り乱れ賑わう食堂では中々空いてる席が見つからず、購買でパンでも買って教室で食べれば良かったと少し後悔しつつも席を探していると遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた気がして振り返ると結城さんが手を振ってボクを呼ぶように手の平を動かしていた。
「夏油くんこっちこっち!」
「結城さん…どうしたの?」
「席探してるんでしょ?私達と一緒でよかったらここ一つ空いてるよ」
ボクを呼ぶ結城さんの近くに歩き、用事を聞くと笑ってどう?と問うてくる結城さんに甘えて座らせてもらう事にする。
少し冷めてしまったうどんをテーブルに置き、椅子に座ると結城さんの近くにもう一人誰かが座って居るのに気付く、ボクの視線に結城さんが気付いたのかあぁ!と声を出した後もう一人をボクに紹介する。
「紹介するね、この子はデザイン科の子でファッションデザイナーを目指してるんだ」
「私は
「よろしくお願いします…ボクは結城さんと同じ絵画科油絵専攻の夏油駿です」
フリルやレースをふんだんに使ったロココ調を少し感じさせるピンク色の服を着た船生さんがボクに向かって手を振ってくるのに一つ頷き自分も自己紹介をする。
ファッションデザイナーを目指してると言うだけあって確かに少し変わった服装だけれど本人に似合っている。
ん…ファッションデザイナー…?
「ここってデザイン科はあるけれどファッション関連の学科とか専攻って…」
「うん、無いよ〜。でも私はここのデザイン科でテッペン取ってから卒業すればデザイナーとして引く手数多でしょ?」
「な、なるほど…」
ふふん、と声を出して笑いながら両肘をテーブルにつけ掌に顎を乗せて笑う船生さんは自信に満ち溢れていて、しっかりと自分を持った人なんだと感じた。
割り箸を手に取り少し冷めてしまったうどんを啜ると結城さんと船生さんもそれぞれの食事を軽い雑談を交えながら食べている。
うどんを食べ終わる頃に結城さんの方からチラチラと視線を感じ、顔を向けると結城さんは少しだけ慌てたように視線を逸らす。
「えっと…結城さん、どうしたの?」
「あっ…えーっと。さっきさ、話聞いてくれてありがとね?話聞いてくれたのにちゃんと夏油くんの言いたい事ちゃんと聞けなくてごめんね。」
「いや!そんな事ないから気にしないで!」
両手をパチンっと合わせて謝ってくる結城さんに慌てて首を振る。それを見ても結城さんは申し訳無さそうな顔をしたままだ、それを見るとただ自分の事を守る為に何も言わなかったボクまで罪悪感を覚えてしまう…
「ちょっと、香織?そんな謝ったって気まづいだけじゃないの?何があったのよ」
「朝ね、ちょっと絵で悩んでて夏油くんに聞いたの…だけど自分ばっかでちゃんと意見聞けなくてさ。」
「そんな事で謝られても逆に困るだけじゃないの?」
船生さんが戸惑ったように突然謝る結城さんに驚いて訳を聞いて、結城さんがそれに答える。
その答えに船生さんは呆れたように額を抑えて溢した言葉にボクは内心頷く。そんなに謝られても少し困ると言うのがボクの本音だ…
「本当ごめんね…つい清水くんの言ってくれる意見ばっか聞いちゃって…色んな方面からの意見を取り入れてこそ良い絵描きなのに…」
「もう謝らなくて大丈夫…気にしてないし、意見を言わなかったボクも悪いし…」
謝る結城さんにボクも謝ると、ううん。と結城さんは首を振り、テーブルから視線をボクに移す
「もう一回夏油くんの意見、今度はちゃんと聞いて良い?」
「ボクの…意見で良かったら…なんだけど。結城さんが納得いく意見が言えるかちょっとわかんないけど、それでも良かったら…」
テーブルの上の両手を合わせ、指を動かし手慰みをしつつ小さな声で返事をすると、結城さんはそれはもう嬉しそうに笑ってボクの手を握る。
それに肩を跳ねさせ驚くボクの様子を見て二人はクスクスと笑う、それにボクも頭をぽりぽりと掻いて恥ずかしさを誤魔化す。
「じゃあ私課題もあるし先に失礼するわねー。あとは二人でイチャイチャしようが意見交換しようが構わないけど香織はちゃんと後で私に言いなさいよ?」
「くるみ!私と夏油くんはそんな関係じゃないからー!」
なんて言って船生さんは結城さんを指さした後に去っていく。結城さんはその後ろ姿にまたね!と声をかけ手を振る。
「じゃあ夏油くん、お皿とか下げちゃって私の絵をもう一度見て意見聞かせてくれない?」
「わかった、じゃあ下げてこようか…」
二人で頷き、席を立ってトレンチをカウンターに下げ二人で並んで教室に向かって歩く。
教室のドアを開けた瞬間さっきまで感じなかった油絵具の匂いを感じ、少し安心する。臭いと良く言われる油絵具だが小さい頃から身近にあった匂いのせいでこの匂いを嗅ぐと落ち着くようになってしまった。
結城さんのイーゼルの前に立ち、朝よりも描き込まれたキャンバスを見るとより華やかになった花束の絵が描かれている。
白いキャンバスの上に白い包み紙に覆われ飾られた立体的な花弁の黄色いリボンの花束、今朝よりも包み紙の白さや花束の鮮やかさが繊細で荒削りさをまだ感じさせるが美しい絵だ。
この絵は美術館や個展の無機質な壁に飾られるよりも家族の集まるリビングや、個人の部屋に飾られ身近に愛でられ、目を楽しませるのが似合う気がする。
「夏油くんはこの絵はどう思う…?朝に清水くんに言われた所は描き加えてみたんだけれど…」
「ボク個人の印象や考えだから、もし不快に感じたらごめん。」
「ううん、夏油くんが言う事ならきっと私にとっては批評だとしても自分の力になると思うから。正直にじゃんじゃん言っちゃって!」
元気よく言う結城さんの顔を見ると明るい声音とは裏腹に少し強張っている、結城さんも緊張するんだ…
兄さんの様にきちんと自分の意見を言えるかはわからないけれど、精一杯伝えようと思う。
「結城さんはこの絵をどう思って描いたの…?」
「え?、どう思ってって?」
「どう言えば良いかな…どんな風にこの絵の構図を考えたのかとか…そういうのを先に聞きたいなって思って…」
「この絵をどう思って描いたのか…かぁ…」
考え込む結城さんを待ちつつ、キャンバスを見ながらボクも考える。
パステルカラーの淡い色合いで絵具をたっぷりと盛り、立体的に表現されたピンクの花々。バラ、アルストロメリア、カーネーション、それに彩りを添える可愛らしい白いかすみ草、白い包み紙と黄色のリボンが花束をより可愛らしい印象を抱かせる。
芸大を受験すると決めてから画題になりそうな物をひたすら調べた中に花言葉やそれぞれの色の意味、その知識を照らし合わせながらこの絵を見ると女性的でまるで親が子供を想いながら一輪一輪花を選んで作った花束のような感じだ。
「この花束って、結城さんが過去に貰った花束とかのイメージが強いんじゃないかな」
「えっ?私が貰った花束?」
悩み続ける結城さんに話しかければ、驚いた後思い出す様に手の平を額に当てる。
「それぞれの花の花言葉が『頑張って、守るよ。愛してるよ』みたいな意味だし…結城さんが貰った花束なら結城さんを大事にしてる人が結城さんに渡したんじゃないかな…」
「……思い出した…。コレ、私が一番最初に絵のコンクールで入選した時にお祝いってお母さんがくれたお花なんだ…」
思い出したのか懐かしむ様にキャンバスを眺める結城さんの横顔を横目で見ながら、ボクは言葉を続ける。
「ボクが絵を見て思ったイメージは、無機質な白い壁に眺められる為だけに壁に飾られるより、家の壁に飾られて誰かの生活に寄り添いながら愛されてほしい絵だなって思った…かな」
「そっか…ありがとう!…私この絵を描こうって決めたのって多分だけど、優しい絵を描きたいって思って描いたの。誰かを慰められる絵にしたい」
「うん、結城さんならそういう絵を描けると思う。結城さんは繊細で柔らかな絵を描く人だって思ってるから…」
ボクの言葉を聞いて頬を緩めて柔らかく笑う結城さんは、結城さんの描いた絵のように優しい印象をボクに抱かせた。
「……包み紙の白だけど、チタニウムホワイトじゃ無くて、ジンクホワイトが合うと思うよ。チタニウムホワイトだと強すぎて折角柔らかい印象の花束を冷たい張り詰めた印象になっちゃうから」
「ありがとう!清水くんに言われてどっちにしようかと悩んでたんだよね」
結城さんから目を逸らして緊張しながら、苦手な描き方への意見を口にすると、頷きながら近くにあった絵具チューブの山からボクの言った色を探している。
「ジンクホワイトだと青味が強いから…より柔らかい印象を強めたいならベージュを足すと良いかも。多分今よりも温もりのある絵になるよ…多分」
「ベージュね!わかった。背景って白のままで陰影つけて、ペインティングナイフでちょっと盛ってテクスチャーをつけるつもりなんだけどさ」
結城さんはキラキラとした目で絵の背景部分になるキャンバスを撫でながら振り返る
「ボクなら…オーク材とか、ナチュラル素材のテーブルの天板に置いてる感じにするか、窓辺に置かれた花束とかにするけど…結城さんの絵のタッチなら何色かであまり強くない色を塗るのも良いと思う」
「ティファニーブルーみたいな色って合うと思う…?よく覚えてなかったけど私の中では大事な花束みたいだから大好きな色ものせたいんだよね」
「ボクはいいと思うよ」
「ありがとう、さっすが現役合格の油画専攻の星!」
「そう言うのやめて、ボクはそんなに…すごくないから」
結城さんの言葉を否定すると結城さんはさらに楽しげに笑って、もう一度ボクにありがとうと言ってくれた。
その笑顔に朝に抱いた苦いものが溶け、柔らかくて暖かいものが胸を満たし、結城さんと同じように少しだけ笑った。