初恋と作為

「そういえば君の初恋っていつなんだい?」
「唐突だなぁ。」

新婚間もないというのにも関わらず敷地内に不審者が現れてから、書類上夫はこうして母屋に居る時間が増えた。彼の親友だという同居人が増えたのもあるのかもしれない。どちらかが離れ、どちらかが母屋で過ごすと決めているのか私が一人で母屋で過ごす事はあまりない。漸く私という存在に慣れたのかなんとか仲良くなり始めた義弟は独りに出来ないようだし、だからと言って弟としけ込んでる間に私の身に何かあれば体裁も悪いのだろうとは思うが。そんなわけでソファに一人分の隙間を空けて並んで座っていたら、急にそんな話を振られてどうしたものかと思考を巡らせる。ぽつぽつと気分のままに言葉を交わしていただけ、だよね?なんで急に?とは思うが所詮は雑談かと口を開く。

「小5の時。」
「へえ。」
「まあ、私は相手の事よく知らないんだけどね。」

なんとなく顔を見て話すのが恥ずかしくて、端末を手慰みに弄りながら簡素に答えれば傑さんがやけに平坦な声で返してくる。そんなに興味があるわけではなさそう。これ以上話せる事もないからこの話は終わりにしようと思ったけれど、この人は弟とそういう仲だと言っていた。いつからなんだろう?と興味が湧いて、一度端末から視線を上げて隣を見る。傑さんが掴めない顔をしてこっちを見ていたから、なんとなく、本当になんとなく端末をソファに置く。

「傑さんは?」
「私が中学の頃かな。」
「…そんな頃から弟に手を出してたのヤバいわ。」
「はは、なんの事かな。」
「ま、どうでも良いけどさ。二人がいつからナニしてようと私には関係ないことだし。」
「仮にも夫なのだからそんなに冷たい事を言うな。……それで?初恋を相手をよく知らないって?」
「え、引っ張るの?」
「興味があるからね。」


意外、と口から出そうになったけどなんとか飲み込む。私の事を知る必要なんてないだろうに。ああ、単純に弱味を握って上手いこと使いたいだけかも。初恋の人を探してやるからとか言って無茶振りされる可能性もまあまあある。でもなぁ、別に会いたいとかないし。フリーだったら心躍る何かがあったかもしれないし、一夜の楽しみも出来たかもしれないけどリスクが高い。その辺も上手くやるんだろうけどそこまでの熱意はもうないからどの道弱味にはならないか。

「夏頃だったかな。学校から帰ったらうちのクソ親父が馬鹿みたいに機嫌悪くてさ、いつもはやらないけどその日は顔も殴られちゃって。家に居ても仕方ないかなーって抜け出して公園に行ったの。とりあえず血だけでも落とさなきゃって顔洗ってから自分が手ぶらなの思い出して…適当に服で拭おうかなって思ったらハンカチ貸してくれたお兄さんが居てね。」
「……へえ。」
「詳しく事情を聞こうとする大人とか、逆に見て見ぬふりする大人は沢山居たけど…何も聞かずにハンカチで拭って、頭を撫でてくれたのは初めてで。だから、その人が初恋だと思ってるよ。」
「ドラマや映画ならその人と再会して結婚しているだろうに。」
「はは、ないない。その日からずーっとその人探して回ったけど会えなかったし。」
「それこそ、再会しそうじゃないか。」
「会えた所でじゃない?傑さんと離婚してまでの価値はないでしょ。所詮子供の頃の感情だもの。」
「君は存外淡白だな。」


そうは言われても。あの忌まわしい実家から出れて、尚且つ衣食住が保証され好きに生きて良いだけのお金も得ている現状を捨ててまで"初恋のお兄さん"を取るのは悪手以外の何者でもない。単純に向こうも既婚者である可能性は高いし、ダブル不倫?絶対お断り。恋愛は楽しいけれど自分のこれからの人生を棒に振ってまでの楽しみなのかと問われればそれは否。結局人生なんてそんなもの、楽しみを優先して破綻するくらいならば利用し利用されたとて安泰を取るのが賢い。

「それで、傑さんって、」
「そういえばあの時は髪が短かったね。肩より少し下くらいだったか。」
「は?」
「うん?」
「なんでその時髪短いって知ってるの?」
「そのハンカチを貸したのは私だから。」

は?ともう一度漏れた声に傑さんは愉快そうに笑って、混乱している私の頬に触れる。この辺りが腫れていたね、だなんて言いながら親指が頬を撫で、懐かしそうに双眸を細めるから思考回路がめちゃくちゃになった。なんで、というか、うん?混乱する私を気にする事もなく傑さんは言葉を続けていく。

「気まぐれに一人で遠出してみたけれど特に面白くもなくてね、煙草を吸いに人目がない場所を探していたら女の子が乱暴に顔を洗っていて。しかも服で拭おうとしているじゃないか。ハンカチは気まぐれに差し出しただけだったんだけど、まさか初恋泥棒をしているなんて思わなかったな。」
「や、待って。」
「なんだい?」
「………私の初恋…。」
「初恋の人間と結婚だなんて随分とドラマチックだね?」
「淡い初恋の思い出が汚された気分だわ。」


彼の手から逃れて体を倒しソファの肘置きに顔を埋める。掻い摘めば随分と運命的にも感じるけれど正直知らない方が良いやつだ。なんというか、自分だけの綺麗な思い出にしておきたかった。初恋の相手と結婚しました、但し相手は実の弟と恋人で利害の一致だけで偽装結婚でしかありませんだなんて。さめざめとした私を気にするわけでもなく傑さんは笑ったままだ。指先が私の毛先を掬って指に絡め、くるくると遊ぶこの人があのお兄さん?誰でもいいから嘘だと言ってくれ。いやでも、あの人の顔はもううろ覚えではあるけれど雰囲気は似ている…か?顔自体はあまり覚えていない。記憶にあるのは撫でてくれた優しい大きな手と、柔らかな声音だけだ。

「私の話も聞くかい?」
「どうせ弟くんでしょ、聞く必要ない。」
「まあ、そう言わずに。」

なんでそんなに楽しそうなのか。他人の不幸は蜜の味ってか?その考えは否定しないけれど打ち砕いていい期待や思い出とそうでないものの区別くらいはきちんとつけて欲しい。書類上とはいえ妻にはある程度優しくしてくれ、恋人に向ける程の優しさは不必要だけどその他大勢とは一緒にしてくれるんじゃない。この人悟さんのことデリカシーがないとか言うけどどんぐりの背比べだろ。悪態ばかりが口から溢れそうになるけれど仕方がないと溜息だけに留め、聞いて欲しいらしい傑さんに続きを促す。


「とはいえ、初恋と自覚したのは高校の頃なんだ。」
「ふうん?友達と話しててとか?」
「いや、再会してあれが恋心だったと気が付いたというべきかな。」
「再会…引っ越しとか……あれ?」
「同情だと思っていたら庇護欲だった。随分と綺麗になっているし驚いたよ。」
「待って、相手駿だよね?」
「違うよ。喜雨の話をしている。」

今日だけでどれだけ混乱すればいいのか。

「ボロボロの女児に…?」
「そういうと私が特殊性癖持ちみたいで嫌だな。あの時は単純に可哀想だな程度だよ。事情は知らなかったけれど傷だらけなのが駿と重ねて見えたから撫でただけなのに人をクズ扱いしないでくれ。」
「聞きたいことは山程あるけどとりあえず後で纏めて質問するわ、続けて。」
「釈然としない。…衝撃的過ぎて覚えているだけかと思っていたんだけどね、私が高3の時だから丸三年か。受験の事で嫌になってまたふらりとそっちに行ったんだよ。懐かしいなってあの公園に行ったらセーラー服を着た子が居て、ぼんやりブランコに揺られていた。何かを探すみたいに視線だけを泳がせてね。」

探してましたよ、ええ。学ランだったから元々はうちの学校の先輩かもしれないしもしかしたらって思ってね。空護に先帰るって言ってあの公園に行ってましたけどなにか。

「あの子かな、って思った。声を掛けようかとも思ったけれど子供の記憶なんて高が知れているし結局そのまま帰ってしまったんだよね。大人びた君に少し緊張していたのかもしれない。」
「……へえ。」
「高校卒業後はそのまま今の仕事に就いたからもう二度と会う事もないと思っていたんだ。そしたら、親に言われて参加したお見合いパーティーに居るじゃないか。三度目の正直って言葉もあるくらいだし声を掛けた。」
「なんかその言い方だと傑さんって初恋の相手と結婚したくて私に声を掛けたみたいに聞こえるね。」
「そう言っているんだけどな。」
「は?駿と付き合ってるんでしょ?」
「嗚呼、あれは嘘だよ。ああでも言わないと私と結婚なんてしなかっただろ?」
「はぁ!?」
「それと、駿と付き合っているのは悟だよ。今も仲良くしているんじゃない?」


けろりと悪びれもなく言われて思わず体を起こして詰め寄るけれど傑さんは大胆だなとか巫山戯てるからまた腹が立つ。確かにあの時は普通に声を掛けられても一蹴して終わりだっただろうけれど…そこまでする?どんな嘘だよ、一歩間違えたらその横っ面思い切りブン殴られるような話だぞ。いやそれに乗った自分も相当頭がイカれてるんだけどさ。

「ばかじゃないの。」
「心外な。」
「たかだが女一人捕まえる為に、あんな嘘つく?」
「二人は協力してくれたよ。」
「ばか、ほんっと、バカなんじゃない。」

頭が痛くなりそうだ、眉間の辺りをぐりぐりと押しながら無意識に溜息を漏らしていると不意に傑さんの手が肩を押して、掛けられる力のままにソファへと押し倒された。傑さんの手が顔の横に置かれて、視界が彼で埋まる。

「焦がれた人を自分の女に出来るチャンスがそこにあるんだ、手を伸ばさない方が可笑しいさ。」
「…私の事好きなの?」
「まさか。愛しているんだよ。」
「恥ずかしい人。」


どちらかともなく、瞼を伏せて唇を重ねた。結婚式の時に一度触れたことがあるというだけなのに、酷く焦がれたような気持ちになる。角度を変えて何度も触れ合わせ、深く交わるわけでもないのにぞくぞくしてしまう。弾力のある厚い唇が触れるのが心地好い。もっと、と薄く口を開くと意図を汲んだのか傑さんの舌先が私の咥内に滑り込んで、肉厚な舌が歯列や上顎を撫で、互いの舌を絡ませる。漸く唇を離れると銀色の糸が伝って、ふつりと切れた。少し息が上がってるのが恥ずかしいが久しくこんな触れ合いはしていないからだということにしたい。鼻先が触れ合う程の近さが嫌ではないのが悔しいが悟られたくなくて目線だけを逸らす。

「傑さん、ここリビングのソファ。」
「私の家なのだから気にしなくて良いだろう。」
「ッ、…あ、」

服の裾から大きな手が滑り込んで来て、私の脇腹を撫でる。このまま此処でするのは流石に勘弁して欲しくて胸板を軽く押すけれど却下と言わんばかりにまたキスされて、口付けに夢中になっているとパチンと音がして胸元の解放感に気が付く。でも、縋るみたいに彼の胸元の服を握り込んで皺を寄せるくらいしか出来ない。濡れた舌が絡むとやらしい音がして、どんだけ興奮してるんだって恥ずかしくなる。とろ、と口付けの合間に彼の唾液が流し込まれて反射的にそれを飲み込んでしまう。や、普通に自然にやってたけども。寧ろちょっと好きだけど。

「すぐ、るさん、」
「そういえば返事を聞いていなかったな。」
「……此処でスるなら返事はしない。」
「へえ、じゃあ部屋に行こうか。私の部屋で良いだろう?」


ひょい、とこともなげに抱き上げられて太い腕の中に収まる。身長差がアホみたいにあるわけじゃないんだけどそれなりにはあるし、筋肉質だからそこまで苦ではないのだろう。身長ならあの二人に負けるけど筋肉だけなら我が家でナンバーワンだろうな。両腕を首に回して傑さんの頬に唇を押し当ててから肩に擦り寄ると傑さんは楽しそうに笑って、額へと唇が触れる。こんな風に戯れるのが少し気恥ずかしいような気もするが、まあ、良しとしよう。傑さんが初恋のお兄さんに関しては少し受け入れたくないものがあるけれど、棚からぼた餅程度に考えるに留めてしまえばそこまでではない…はず。

「ドラマならもっと運命的な出会いを果たすわ。」
「はは、ドラマではないからそこは諦めてくれ。それと悪い男に見つかってしまった事もね。」
「これ以上ないくらいに悪い男よ、でも…まあ、私の人生と思えば悪くはないかもね。」


もとよりただただドラマチックで運命的なものには興味がない。ただの運命の一言で済ませるよりもこうして作為的な物が含まれている方が分かりやすくて良いか。出逢いは偶然、縁を結ぶかは二人の選択次第。それでも、結局の所は終わり良ければ全て良しなのだ。初恋は初恋、今は今。少なくともこの男と共に過ごす日常も環境も悪くはないと思っているのは間違いないのだから、仕組まれた道だったとしても落ちてやろうではないか。妥協は必須だが、その中でも選択肢を用意してくれているのだからその中で最善を選べば良い。それだけの男であることは、もう知っている。


「愛しているとは言えないけれど、貴方に愛されるのは悪くはないかも。」

そう言えば、傑さんは今はそれで良いよと笑った。
タルト有馬す。