奪う
日本から海外に移住して早数ヶ月。本当に治安は悪いけど、ようやっとここの空気にも慣れてきたとこだ。会社の派遣先がたまたまここであって、日本の同僚には合掌されたものだ。世界的にも有名なヴィランで、バットマンの宿敵であるジョーカーの庭と比喩出来てしまうゴッサムシティ。何故私がそんな所に飛ばされたのかは未だに理解に苦しむ。でもそんな理由ももう教えて貰わなくていい。本当は教えて欲しかったけど。はっきり言って今はそれどころじゃない!
「…っ…!…ッ!」
目の前に!ジョーカーが!
「Haha!静かにしてねェと手が滑っちまうかもな〜」
頬にぺちぺちと血のこびりついたナイフを当ててくるジョーカーの目は、玩具を与えた子供のように爛々としている。きっとこのナイフは既に誰かの息の根を止めたもので、まだ乾いていない部分の液体が、ジョーカーがナイフを私の頬に当てる度にピチャピチャと音をたてては少しの粘液を持って離れていく。そのリアルで生々しい突然の出来事に頭は真っ白になって何も考えられなくなる。ただ恐ろし過ぎる恐怖だけが身も心も支配していた。支配者は目の前で狂気的に笑う凶悪犯、ジョーカー。
一体何があってこんな事になってしまったのか。私はただいつも通りに仕事を終えて帰路に着いていた。その日もいつもとなんら変わりのない日で、アメリカンジョークの受け流し方も心得てきた、そんな変哲のない日だった。何も変わらない筈だった。なのに、突然近くで爆発音がして、暫くの後サイレンが段々と近付いてきた。何かの事件かと冷や汗を流して、巻き込まれまいと急ぎ足でその場を去ったのだ。そんな時だった。
「Hello」
まるで遊園地にいるような愉快なピエロの陽気な挨拶と共に突如背後に現れた男、ジョーカーはそのままあたしを路地裏へと引っ張って、大通りを急いで通るパトカーの大群をやり過ごしていた。今は大分落ち着いているものの、それは大通りの事情で、あたしは全くと言っていいほど落ち着いていられない。もう今にも失神しそうだ。
「Hey-hey。しっかりしろ」
一層強くナイフをぺちぺちと当ててきたジョーカーにハッとする。あまりの恐怖に決して言えやしないけど、いい加減離れて欲しい。心臓に悪い!
「んじゃ、行くか」
「!?」
グイッ、と乱暴に引っ張られた左腕は、置いてけぼりにされた体と思考を無理矢理引っ張っていき、頭がグワンと揺れて一気に気分が悪くなった。おえ、吐きそう。と、思ったらもう吐いてた。
「おええええええ」
「Oh〜!そんなに辛かったか?ン?」
人が吐いてんのにニヤニヤと嬉しそうに訊ねてくる愉快犯にイラッとして、キッと睨み付ける。でも顔と言うかメイクが怖くて泣けた。すると何を思ったのかジョーカーは丸まったあたしの背中を子供をあやすように撫でてきた。これまたビックリして開けっ放しの口も瞬時に閉じる。その様子に気付いたジョーカーは「ン〜」と鼻歌混じりに機嫌の良さを伝えてきて、その隙をつき、今しかないと勢いよく腕を振り払い全速力で逃げた。
「逃げるなんて可愛い事してくれんじゃねェか」
より一層高らかに笑ったジョーカーに恐怖が最高潮に達して、自分がどうやって走ってるのか訳が分からなくなり、そうして何もない所で足をもつらせ派手に転んでしまった。破れたストッキングの下から擦れた膝が血を流している。もう体が震えてどうにかなる状態じゃなかった。そんなあたしをさも面白そうに見世物小屋の動物の如く眺めてはカツカツと靴を鳴らしてゆっくりと迫ってくるジョーカーに、もう駄目だと目をぎゅっと閉じた。ここでばっさり、あのナイフで殺されるんだ。嫌だ。痛いのは、怖いのは、嫌だ。
ジョーカーがとうとう近くまできた気配がする。あたしはそこらに転がってる石みたい、動く事は出来なかった。
目の前にいる。
ジョーカーがあたしの顔の前で屈んだ気がした。
何かがあたしの目蓋の上に張り付いた髪を退け、素顔を晒してしまう。こうやって顔を見られながら、痛がる様を見て、ジョーカーはきっとあたしを楽しく殺すんだ。嫌だ…!
「泣かねェのか?」
「…ぇ」
うっすらと開けた視界に写る恐ろしいピエロの顔に喉が引き吊る。
「コレが怖いんだろう?ン?」
手の中で弄ぶ様にチラつかせたナイフを無意識に目で追った。瞬きなんて一切出来ない。するとジョーカーは一体どうしたのか、そのナイフを後ろへと放り投げてしまった。驚きに目を丸くすると、まるで子供のように首を傾げるジョーカーと目が合う。
「な…ん、で…」
「怖ェんだろ?」
返事が出来なくてコクりと頷いた。
「もう怖くねェ」
バッと広げられたジョーカーの腕にビクリと体が反応した。ジョーカーはそれに気付いてる筈なのに、それなのにあたしに向かって手を伸ばして、頭を乱暴に撫でてきた。
「よーしよし」
全然安心なんて出来ないのに、襲ってきたのはそっちなのに、勝手に巻き込んだのはアンタの癖に、何故か。
今まで出なかった涙がポロポロと目から零れ落ちていく。ジョーカーは少しだけ目を丸くしてからニヤリと口角をあげて、そのまま暫くあたしの頭を撫で続けた。何がしたいのか全く分からないけど、今私は確かに"救われた"と感じた。
「ン〜名前はナナシね。OKOK」
勝手に漁られた鞄の中から自己証明書を盗られて、そのストラップを自分の首に掛けたジョーカーは愉快そうに笑う。
「今はバッツと遊んでるからなァ…」
ポンポンとあたしの頭を叩くジョーカーは少しだけ唸ってから、胸元からスプレーを取り出して、それを突然あたしの顔目掛けて噴射した。何が起こったのか理解する暇もなく、唐突に眠気が襲ってくる。ああ、催眠スプレーか。物騒だな。そして遠退く意識の中、こんな言葉だけが聞こえた。
「The next takes you.」
Ta-ta.
意識は暗闇へと浸かっていった。
◯
「彼女は…」
バットマンはジョーカーの仕掛けた幾つものトリックに苦闘した末、結果奴を逃がしたものの、その最中見つけた路地裏に倒れる日本の女に、警察と共に眉を寄せていた。見慣れた紫のスーツの上着を掛けられ、その周りに俺のモノだと主張せんばかりのジョーカーカード。
「バッツ、これは…」
「彼女を保護する。彼女は今後、ジョーカーのターゲットになるだろう」
ジェームズにそうバットマンは答えると、彼女の体を姫抱きにし、散らばったジョーカーカードとスーツの上着を横目にその場を颯爽と去っていった。