惚れる
そこそこ大きな会社に勤めるあたしは、社内食堂で友人とランチを食べていた。あたしと対面で座る彼女が食べているのは三種類のサンドイッチとミネラルウォーター。最近ダイエットを始めたらしい。あたしはそんな彼女の前で堂々とパスタを頬張っている。うん、うまい。
「ちょっとナナシ、昨日のニュース見た?」
「あー、ボーリング場の?」
「そう。ここから結構近いじゃない?あたし不安でさー」
そう言ってサンドイッチ片手に頬杖をつく友人は、わざとらしく溜め息をしてみせた。そしてジーンズのポケットから取り出したスマホを何度かタップして、出てきた画面をあたしに向けた。
「物凄い火事よ、本当。何十個ものドラム缶に爆弾付けてたんだって。そりゃあんな大きなボーリング場が全焼するわけだ」
画面にはその事件を取り上げたサイトのページがあって、小さな文と業火の中で黒くなっていくボーリング場の写真が載っている。
「犯人は"ジョーカー"らしいよ」
「らしいって?」
「現場にトランプのジョーカーが大量に落ちてたんだってさ」
あの狂人のやる事は凡人には分かんないわ。
最後の一口を口の中に放り投げた友人は、それをカフェオレで流し込んで言った。そして軽く伸びをすると、首を解すように回して続ける。
「でも、何にも縛られずに生きていけるなんて羨ましいわ」
その言葉にあたしは友人から見せて貰った事件の写真を思い出して顔を顰める。そして吹き出すように笑った。
「警察に追い掛けられるのは勘弁だけどね」
「同感」
二人でそのことにひとしきり笑うと、友人が「そうだ」と突然両手を合わせた為、笑ったせいで溜まった目尻の涙を指で軽く弾いた。
「日本の両親に"ミアイ"勧められてるんでしょ?どんな感じ?」
いつかは聞かれると思っていた質問にあたしは隠す事なく嫌悪感を顔一杯に表した後、目をぐるりと回した。
「最悪」
分かりきっていたのだろうあたしの答えに友人はケラケラと笑う。あたしはその様子を一瞥してから溜め息をついた。
「あたし、まだ結婚したくないの」
脳裏に浮かんだ両親に気が重くなるも、まだ25にもなってないのに会ったこともない知らない人と一生を過ごすことは考えられなかった。
「自分にはないものを人に求めて補うのが普通でしょ?そんな人ぐらい自分で見つける」
子供っぽく頬を膨らませて唇を突きだす。友人は少し微笑んだ後、その長い指であたしの頬を軽く押した。空気がぷすっ、と抜ける。
「あんたのそういうところ、あたしは好きよ」
直球なそれに少し恥ずかしくなって照れを隠すように笑えば、友人は「ただ」と続けた。
「突発的なとこはいただけないけど」
「そりゃどーも」
そう言ってまた二人で笑うけど、あたしは少し不安を抱えていた。ゴッサムの街はあたしがこの会社に赴任される前から犯罪が絶えなかったし、いつ事件に巻き込まれるかも分からない。日本に残してきた両親が心配するのも分かるけど、母国の男と結婚してあたしを日本に連れ戻そうとするのは納得いかないのだ。でもその理由がなければあたしが無理言ってここに留まる必要もない。親の反対を押しきってゴッサムに来た頃は全てが輝いて見えた。でも今はそんな風に見えない。仕事が忙しいから考える暇もなくなったのか、そう考えて不意に口から漏れでた言葉は当然のものだった。
「仕事、暫く休もうかなぁ」
「はあ?」
あたしの突然の言葉に友人は眉をひそめる。
「またどうしたの」
「いや…」
けれど休んだところで得るのは一時的な解放感だけ。そんなの誰だって知ってる。瞬間、1つの単語が引っ掛かった。
"解放感"?
パァンッ!
「キャーッ!!」
「な、何っ!?」
「隠れてナナシ!」
友人の声に反射で従い、パッと机の下に隠れる。彼女も同じように隠れていて、あたしに顔をぐいっと近付けた。
「一体何なの!?」
「分からない…。でもマズイ事は確かね」
ゴッサムで生まれ育った彼女は事件馴れしているのか焦る様子はない。あたしはその姿に少し冷静を取り戻した。
「いい?ナナシ。すぐ側に非常口があるでしょ?訳分かんない奴が来る前に、あそこから逃げるよ!」
いつもに増して真剣な友人の顔に、あたしは必死で頷いた。
「5数えるからね。…5…4…3…2…1「こーんばーんわ」
出しかけた足が床に固定されたかのようにビクともしない。今あたし達が逃げようとした非常口は誰かが入って来たようで、音もたてずゆっくりと閉まっている。一体誰が?誰があそこから入って来たの?この視界いっぱいの紫は何?今あたしの目の前にいるのは
「Hi」
誰?
耳を塞ぎたくなるような友人の悲鳴に頭が覚醒する。同時に痛いほどの鼓動が体内を通してダイレクトに耳に伝わった。友人が足をもつれさせながら逃げていくのが目の端に写る。けれどあたしの体は足と同じように全く動いてはくれなかった。
恐い。恐すぎて体が震える。見たくもない目の前の人物が、どうしても目に入ってしまう。目を閉じることはおろか、瞬きさえできない。息が詰まりそうなこの瞬間に動いたのは、やはり目の前の人物だった。
「Hey、お嬢ちゃん。俺と遊ぶか?」
強引に立たされ、二の腕を掴まれる。逆の手に持った銃を上に向かって乱射した彼は実に楽しそうだ。そりゃそうだ。彼は…、ジョーカーはそういう人間なのだから。
ジョーカーが実に楽しげに乱射を続けて他の社員が動けない間に、彼の仲間であろうピエロの仮面をつけた男達が次々に皆を拘束していく。それにもう逃げられないのだと感じて絶望と恐怖を味わうと、震えた足がもつれて床に膝をつけてしまった。急に止まった事で動けなくなったジョーカーが怪訝に振り返る。「殺される」と本能で感じた為か、すくっと立ち上がることは出来たけど、こんな震えた足じゃ到底歩くことなんてできない。
顔がサァッと青ざめる。頼む、動いてくれ!あたしの足!もしくはあたしを皆と同じように拘束して下さい!
あたしの願望も虚しく聞き届けられないまま、不躾にあたしをじっと見つめるジョーカーが怖くて冷や汗が流れる。
あああ無理無理死ぬって死にますー!!
「Haha!エスコートして欲しいのか?」
笑ったジョーカーは腕を掴んでいた手をするりと移動させて、今度は肩を抱いた。大事な事なのでもう一度。肩を、抱いた。ジョーカーとの距離、0p。
「!!?」
ギョッとして固まったあたしと笑うジョーカー。現状が恐ろしいだけに笑えないけど、今よりずっとマシな状況だったらあたしは間違いなく笑ってるね。何だよこれって。
正直に生きた心地のしないジョーカーの隣で石のごとく固まってるあたしは酷く滑稽だろう。涙こそ流してないけど、泣きたい気持ちは誰よりも強いはずだ。瞬間、ふわりと香ったそれにぱちくりと目を開ける。ガソリンのにおいだ。何でガソリンなんかと考えて、においの元がジョーカーが着ている紫色のコートからだと分かり自然と納得した。まあ爆発大好きらしいし、ガソリンの臭いが染み着くのも当然だろう。この事実を知っているのはあたしだけなんだろうか。傾げそうになる首をなんとか固定して、心の内に広まった謎の優越感に、馬鹿みたいに恥ずかしくなる。顔が火照って脳味噌が沸騰しそうだ。そんな間抜けな事を考えていれば恐怖なんて案外簡単に消え去ってて、あたしはここぞとばかりにジョーカーを遠慮がちに見上げた。そこにあったのは子供のように無邪気に笑い、まるで初めて玩具を貰った幼子のように目を輝かせるジョーカーの顔で。あたしにはない"自由"を持った彼がいた。
思わず見惚れていたあたしの視線に気付いたジョーカーが片眉を上げてあたしを見下ろす。その顔は何故か疑問を浮かべていて、あたしがほんの僅かに首を傾げると、彼はあたしの両頬を片手で掴んで問いただした。
"Why so serious?"
「笑顔にしてやろうか!」
ドクンッ!
取り出されたナイフなんて気にもならないくらい心臓が早鐘を打つ。あまりに激しく鼓動するもんだから耳の中から音が響いて、まるで外の世界と隔離されたみたいだ。それでも着実に動いてる時間と共に心臓から叩き出された血液がどんどん顔に集まって熱くなってくる。
頬に当てられたナイフがひんやりして気持ちいい。だけどあたしの視線がジョーカーの瞳から外れることはない。鳴り止まない鼓動に、もう一人のあたしが「見つけた」と囁いた。ああ、これはもう
「惚れた」
恋しちゃった。
惚れる
(どこまでも自由な君に)
渡された名刺代わりのジョーカーカードは、彼なりのマーキング方法なんだとか。