第1話


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「今日からこちらでお世話になります、岬です」

 爽やかな笑顔は俺の一番の商売道具だ。頭を下げにこりと笑うと、どことなく緊張していた空気が和やかになるのを感じた。パチパチと謎の拍手で迎えられる。

「すげえな、あの一瞬でお局様の心つかんだぞお前…。ま、隣のデスクには恵まれなかったみたいだけど」

 一目置いたような目を向けられながらそんなことを言われる。当たり前だ。この俺が会社でいびられるような男であってたまるか?それにしても本社の人間ともあろうものが、ちょろすぎんだろ。たかが大安売りの笑顔にホイホイと引っかかって、そんなに人の笑顔に飢えてんのか?

 なんて心の中で毒づきながら、顔面には人懐っこい笑顔を張り付ける。

「初めまして。さっきも挨拶させていただきました、岬と言います」

 どうにもハズレと言われている隣のデスクの男に、これ以上ないくらい好感を持てる笑顔を浮かべた。ちらりと体を俺の方に向けてくれたが、顔を上げる気配はない。

 もっさりとした前髪に分厚い眼鏡、縮こまった猫背のせいでその表情を窺うことは出来なかった。そもそも俺の目すら見えてないだろう。まぁこの手の陰キャは人とのコミュニケーション自体がクソほど下手だからな。
しかしあまりにも反応のない男にいい加減苛々してきた時、隣からフォローが入る。

「神田くん!」
「は、はいっ!か、神田です!なにか分からないことがありましたら、どうぞ聞いてください」

 呼ばれて盛大に肩をびくつかせた男は、しどろもどろになりながらそう言ったが、相変わらず目を合わせることはなかった。周りの人らが溜息を吐く様子から、おおかた仕事の出来ない使えない人間と俺は判断した。

「よろしくお願いしますね、神田さん」

 嫌味を感じさせないように、にっこりと笑うと、神田は凄いスピードでデスクに向き直った。つまりは、無視だ。まぁいいさ、俺の仕事に支障がなければ。

なんて思っていたのに。

 っふざけんなよ、なんだよこいつ、めちゃくちゃに仕事できんじゃねぇかよ[V:8265]
昼を過ぎ、いい加減俺は気づき始めた。こいつは他の人間の倍の量の仕事をこなしている。その大半はこいつの仕事ではなく、押し付けられたもののようだったが。

「ちょっと神田くん、そこ邪魔なんだけど。さっさと動いてくれない?あなたいちいち動きが遅いのよ」

 給湯室ほうから聞こえてきた声に続いて、神田のすみませんすみません、と謝る声が重なる。腹立つことこの上ない。やがてのっそのっそとデスクに戻って来たが、俺がタイミングよく引いた椅子に思い切りぶつかった。とろすぎる。あまりにもとろすぎる。

 しかしわざと神田とぶつかるように椅子を引いたのは俺だが、思ったよりも強い衝撃に驚いたのは事実だ。

「わっ、す、すみません!」
「いいえ、こちらこそ。すみません、大丈夫です…か」

 見上げたはずの神田の顔はそこにはなく、え?と思いながら視線をさらに上げる。なんだよ、こいつこんなに背高かったのか?デスクに向かってる時も背中は丸まってるし、肩は上がってるし、歩いてる時は俯きがちで、やけに歩くのが遅い。というのが今日これまでで分かったコイツのことだった。そそくさと席に着き仕事を再開する神田はどう見てもできるような奴には見えない。じわじわと腹の底で苛立ちが募る。

「神田に謝る人なんて始めて見たわ、俺」

 笑顔で神田に謝る俺を横で見ていたらしい先輩がそっと口を挟んだ。俺はさも驚いたような顔で向き直る。

「岬くんちょっといい人すぎんか?女子もさっそくお前のことで盛り上がってるしよぉ。前の部署でも重宝されてたろ」
「そんなことないですよ。それに俺まだ入社3年目ですし」
「同じ3年目の同い年でもな、もう一人があれだろ?」

 あの野郎、同期だったのか。ますます腹が立つ。びくびくしながら仕事しやがって。どうせできるならもう少しらしくしたらどうなんだ?

なんて、考えるだけ無駄なことだ。俺は馬鹿じゃない。他人に気を取られるくらいなら自分のことを考えるさ。初日だから仕方ないとはいえ、このままだと明日へ持ち越しそうな気配に気を引き締めた。




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