01:わたしの命が欠けたとき
霧のベールから飛び出た朝日は、胸を裂いて溢れ出た血によく似ていた。
丸くてつるりとした鏡越しの風景のごとく現実味はなかったものの、瞳を焼き切るような鮮烈な光は紛れもなく本物だと確信する。
視界がチカチカと点滅し始めたことに危機感を覚えて、咄嗟に目を閉じてから地面に座り込んだ。
このまま太陽に焼かれて溶けてなくなってしまえばいいと本気で思っているのに、まるで死を恐れるような行動を取るだなんて我ながら滑稽だ。
ゆっくりと瞼をこじ開けて、泥に塗れた裸足の爪先を視界の中央に置く。
身にまとう洋服は全体的に布がよれていて色味も味気ない。メイクやアクセサリーの一つも無いまま此処にいることに対して、何も感じない程には心臓が麻痺していた。
自分の身体を見下ろして、実在するか確かめるように掌でぺたぺたと触る。かつて心底憎らしかった肉体をまたもや捨てきれなかったことを理解し、背筋に氷を突き刺された心地になった。
「わたし、死体だったら良かったのに」
ひび割れた唇から零れた本音が引き寄せたのか、背中に猛烈な痛みが走った。覚えのある感覚に喉の奥がきゅっと締まる。
何者かが、悪意をもった刃物でわたしの身体を刺していた。
しかし、その正体を暴くために振り返る気は一切なかった。どうせこの命はここで潰える上に、既に気力も体力も風前の灯だ。
わたしはみっともなくうつ伏せになった。空を見上げるように倒れ込んでも良かったが、背中の刃物を貫通させるような趣味はない。見知らぬ土地へさらなるゴシップを提供する義理もなかった。
視界が徐々に霞みがかっていく。世界から色が喪われて、全身を這うような寒気が満たしていく。脈打つような痛みだけがわたしをこの世に繋ぎ止めているだなんて皮肉でしかない。
あれだけ焦がれていた死が手の届く位置にあるのに、何の感慨も湧かなかった。
やはりわたしは欠陥品なのだ。あの人の言う通り、何も成し得ないまま息絶えていく無様な人間でしかいられなかった。
不思議と開きかけた己の唇がなにを紡ごうとしていたのか、その時のわたしには永遠に分からないままだった。
視界が真っ白に染まっていた。透明の水晶でも脳髄に詰まっているのか頭がぼんやりとしていて、思考が上手くまとまらない。
これは天井なのかとようやく気付いたのは、見知らぬ男性がわたしに声をかけた瞬間だった。
「良かった。目が覚めたんですね」
柔和な笑顔と、穏やかながら低い声。その口から発せられた英語は、こちらに配慮しているのかゆっくりと明瞭な音をしていた。顔立ちから察するに日本人の方だろうが、随分と綺麗な発音をしていて聞き取りやすい。
まずは、助けてくれたであろう方には御礼を言わなければ、と日本人の気質が咄嗟に顔を出した。しかし、唇を押し開こうとしても口の中が張り付いて動かない。身体から水分が失われると、こうも不便なのかと愕然とする。
「ああ、無理をしないでください。水をお持ちしますから」
コップで運ばれた水を起き上がって受け取ろうとしたが、慌てて静止された。曰く、背中の傷により自ら起き上がることもままならない状態だろうから、と。
すぐさまわたしの口内を湿らせてくれた男性は少し時間を置いた後、ご気分はいかがですか、と問いかけてくる。美しいクイーンズ・イングリッシュだった。
明らかにこちらも日本人であるというのに英語を使うということは、ここはイギリス英語圏なのだろうか。ならば何故わたしは外国にいるのだろう、とは思ったものの、詳細な理由を辿る気は起きない。
自ら命を摘み取ろうとしたら突然見知らぬ場所に放り出されて、さらにはその場所で死にかけて助けられるだなんて間抜けでしかない。今は患者の権限を振りかざして何も考えずにいたかった。正直、何もかもに疲れ果てていた。
「いろいろと混乱、している、かもしれません。……お気遣い頂いたのに、ごめんなさい」
情けない掠れた声をしていた。労るように眉を下げてくれた男性は、そうですよね、と気遣う声をかけてくれる。
「今はゆっくりお休みください。……と、申し遅れました。私は御琴羽と申します。留学生の身ではありますが、医者として、貴女のことは全力を尽くして助けます」
ミコトバさん。頭の隅でなぞった名前をそっと胸に刻む。聖書の言葉を全般的に御言葉 と呼ぶのも相まって、日本語の美しさが詰まった素敵な苗字だ、と素直に思う。
わたしは日本語が好きだった。他者とコミュニケーションをとるために用いる言葉全般が好きだった。だからこそ海外文学や言語学を学んでいた過去が、まさか死にかけの瞬間に役立つだなんて想像だにしなかったけれども。
うつくしい名前をもつ人に見守られながら、わたしは緩やかに瞳を閉じた。人前ではどんなに虚勢を張ることが出来ても、心も身体も泥のように溶けてしまいそうだった。
きっとわたしは今、世界中で最も孤独な人間なのだろう。その感覚が泣きたくなるくらい心地好かった。誰もわたしを見つめないし、わたしに意識を向けない。成り損ないであることを責め立てたりしない。
こうして、わたしの命はすっかり欠けてしまった。もう二度と元の自分には戻れないであろう予感に、悲しいほど安心していた。
丸くてつるりとした鏡越しの風景のごとく現実味はなかったものの、瞳を焼き切るような鮮烈な光は紛れもなく本物だと確信する。
視界がチカチカと点滅し始めたことに危機感を覚えて、咄嗟に目を閉じてから地面に座り込んだ。
このまま太陽に焼かれて溶けてなくなってしまえばいいと本気で思っているのに、まるで死を恐れるような行動を取るだなんて我ながら滑稽だ。
ゆっくりと瞼をこじ開けて、泥に塗れた裸足の爪先を視界の中央に置く。
身にまとう洋服は全体的に布がよれていて色味も味気ない。メイクやアクセサリーの一つも無いまま此処にいることに対して、何も感じない程には心臓が麻痺していた。
自分の身体を見下ろして、実在するか確かめるように掌でぺたぺたと触る。かつて心底憎らしかった肉体をまたもや捨てきれなかったことを理解し、背筋に氷を突き刺された心地になった。
「わたし、死体だったら良かったのに」
ひび割れた唇から零れた本音が引き寄せたのか、背中に猛烈な痛みが走った。覚えのある感覚に喉の奥がきゅっと締まる。
何者かが、悪意をもった刃物でわたしの身体を刺していた。
しかし、その正体を暴くために振り返る気は一切なかった。どうせこの命はここで潰える上に、既に気力も体力も風前の灯だ。
わたしはみっともなくうつ伏せになった。空を見上げるように倒れ込んでも良かったが、背中の刃物を貫通させるような趣味はない。見知らぬ土地へさらなるゴシップを提供する義理もなかった。
視界が徐々に霞みがかっていく。世界から色が喪われて、全身を這うような寒気が満たしていく。脈打つような痛みだけがわたしをこの世に繋ぎ止めているだなんて皮肉でしかない。
あれだけ焦がれていた死が手の届く位置にあるのに、何の感慨も湧かなかった。
やはりわたしは欠陥品なのだ。あの人の言う通り、何も成し得ないまま息絶えていく無様な人間でしかいられなかった。
不思議と開きかけた己の唇がなにを紡ごうとしていたのか、その時のわたしには永遠に分からないままだった。
視界が真っ白に染まっていた。透明の水晶でも脳髄に詰まっているのか頭がぼんやりとしていて、思考が上手くまとまらない。
これは天井なのかとようやく気付いたのは、見知らぬ男性がわたしに声をかけた瞬間だった。
「良かった。目が覚めたんですね」
柔和な笑顔と、穏やかながら低い声。その口から発せられた英語は、こちらに配慮しているのかゆっくりと明瞭な音をしていた。顔立ちから察するに日本人の方だろうが、随分と綺麗な発音をしていて聞き取りやすい。
まずは、助けてくれたであろう方には御礼を言わなければ、と日本人の気質が咄嗟に顔を出した。しかし、唇を押し開こうとしても口の中が張り付いて動かない。身体から水分が失われると、こうも不便なのかと愕然とする。
「ああ、無理をしないでください。水をお持ちしますから」
コップで運ばれた水を起き上がって受け取ろうとしたが、慌てて静止された。曰く、背中の傷により自ら起き上がることもままならない状態だろうから、と。
すぐさまわたしの口内を湿らせてくれた男性は少し時間を置いた後、ご気分はいかがですか、と問いかけてくる。美しいクイーンズ・イングリッシュだった。
明らかにこちらも日本人であるというのに英語を使うということは、ここはイギリス英語圏なのだろうか。ならば何故わたしは外国にいるのだろう、とは思ったものの、詳細な理由を辿る気は起きない。
自ら命を摘み取ろうとしたら突然見知らぬ場所に放り出されて、さらにはその場所で死にかけて助けられるだなんて間抜けでしかない。今は患者の権限を振りかざして何も考えずにいたかった。正直、何もかもに疲れ果てていた。
「いろいろと混乱、している、かもしれません。……お気遣い頂いたのに、ごめんなさい」
情けない掠れた声をしていた。労るように眉を下げてくれた男性は、そうですよね、と気遣う声をかけてくれる。
「今はゆっくりお休みください。……と、申し遅れました。私は御琴羽と申します。留学生の身ではありますが、医者として、貴女のことは全力を尽くして助けます」
ミコトバさん。頭の隅でなぞった名前をそっと胸に刻む。聖書の言葉を全般的に
わたしは日本語が好きだった。他者とコミュニケーションをとるために用いる言葉全般が好きだった。だからこそ海外文学や言語学を学んでいた過去が、まさか死にかけの瞬間に役立つだなんて想像だにしなかったけれども。
うつくしい名前をもつ人に見守られながら、わたしは緩やかに瞳を閉じた。人前ではどんなに虚勢を張ることが出来ても、心も身体も泥のように溶けてしまいそうだった。
きっとわたしは今、世界中で最も孤独な人間なのだろう。その感覚が泣きたくなるくらい心地好かった。誰もわたしを見つめないし、わたしに意識を向けない。成り損ないであることを責め立てたりしない。
こうして、わたしの命はすっかり欠けてしまった。もう二度と元の自分には戻れないであろう予感に、悲しいほど安心していた。