02:やさしい大きな紅い海
入院中、まともに動けないわたしを御琴羽さんは大層気にかけてくれた。
同じ日本人だからだろうか、という予想は当たっていた。しかしその背景事情は想像の斜め上だった。
要点のみ掻い摘むと、わたしは過去のイギリスにいることが判明した。19世紀の大英帝国、首都倫敦。産業革命の熱が渦巻く世界の中心にいることを確信できたのは、紛れもなく目の前のひとのお陰だった。
「やあ。ミス・ナマエ、調子はどうだい?」
「はい、お陰様で悪くないです。ホームズさん」
「別にボクのお陰ではないけど。まあ、それなら良かった。第一発見者としてこちらも目覚めが悪くなるし」
一目で聡明だと窺わせる綺麗な眉を吊り上げながら、世界の名探偵───どうやら今はそこまで有名でないらしいけれど───は、人差し指をピンと立ててからこめかみに添えた。
シャーロック・ホームズが現実に存在する時点で、わたしが生きていた現代とはまるで状況が異なる。詳細は不明だが、パラレルワールドの過去の世界に来てしまった、という理解が最も近いだろうか。
こんな荒唐無稽な現状を上手く整理できたのも、何を隠そうホームズさんのお陰だ。
───キミ、この世界の人間じゃないだろう。
事件の被害者に会いに来たという探偵は、敢えて御琴羽さんがいる場面を選んで名推理を口にした。
薄々頭によぎっていた推測を断定する口調に動揺して、思わず言葉を探すのに手間取ったが、彼の姿はなんとも頼もしかった。
突拍子もない身の上話を自分自身でさえ信じられなかったし、この先誰にも話すことなく再び命を終えるのだろうと思っていたのに。
───また来るよ、ミス・ナマエ。
最初は苗字で呼んだのに、二回目はそれを避けてくれたのは、微かにこびり付く心の膿を見透かしたからなのだろう。
畏怖さえ抱いてしまいそうな異次元の聡明さは、しかしわたしを支える命綱の一つになっていた。
「それで、本題なんだが」
「はい、何でしょう?」
「キミは退院しても帰る場所がないだろう」
痛いところを突いてくるなあ、と思いつつ素直に頷く。他の人から指摘されれば傷になったかもしれないが、ホームズさんは単に事実を指摘しただけだ。
「ボクたちの家に来るといい」
「…………、え」
「ホームズ。さすがに言葉足らずでしょう」
「おや。他に何を言えというんだ、ミコトバ」
名探偵の言葉を噛み砕くのに必死だったわたしは、定期回診で来訪してくれた御琴羽さんにも気づかない程に驚いていたらしい。
ふたりがルームシェアをする友人同士だと聞いた時も驚愕したけれど、今回はそれ以上だった。
「貴女の状況をさすがに見過ごせませんでしたからね。医者としても、一個人としても。それでホームズに相談したんですが」
「簡単な問いだろう? 彼女の身柄を預けられるような組織は現状どこにもない。選択肢はひとつじゃないか」
「それはそうなんですが」
「彼女ならばキミと同様、端的に説明しても問題ないと思ったんだがね」
御琴羽さんと同列に挙げてもらった、という喜びが微かに湧き上がる。
事件捜査を助ける相棒とレベルが違うのは承知の上だけれど、ホームズさんは下手にお世辞を述べるようなひとではないと分かっていた。
頭の回転は悪い方だと自負しているものの、ホームズさんの言葉は有難く受け取りたいと思っている。
「落ち着きのある女性だ、というのは確かですけど」
「ああ。それでミス・ナマエ、どうだい?」
「あ、……有り難すぎるお話なんですが。わたし、手持ちが何も無いのでお返し出来るものがなくて。考えつくものとしては、家事くらいでしょうか」
「別に構わないよ」
「こちらとしても、家事を担って頂けるのは有難い申し出ですしね」
こちらの返答など全て予想済みのような対応を受けて、まな板に乗った魚のような気分になる。先程密かに沸き立った喜びなど瞬く間に吹き飛んでいた。
寄る辺ない異邦人の女には、差し伸べられた手を跳ね除ける選択肢など端から存在しない。
彼らの優しさはひび割れた心に痛いほど沁み渡るが、それ以上に己の無力さに打ちひしがれそうだった。
何もかも誰かの世話になり続けている状態は、じゅくじゅくとした痛みをわたしに与える。
誰かの優しさに甘えたままでいれば楽だろうが、それでは何も変わらない。
自分の世界から逃げ出したならば、その先の尻拭いもまた自分の手で行うべきだろう。身の内に巣食う弱さは未だに根付いてるものの、全てに向き合う覚悟はちっぽけながらあった。
「お返事をする前に聞かせてください。……わたしの入院費や手術費は、どなたが負担してくださったんですか」
「キミには今すぐ払う力もないのに、知りたいのかい?」
「ホームズ」
白衣の恩人は、鋭い視線を伴って探偵を制した。事実を躊躇いなく口にするホームズさんも、孤独な女を気遣う御琴羽さんも、二人とも紛れもなくやさしいひとだ。
容赦ない探偵の言葉に確かに胸は痛んだが、それでもどこか清々しい気持ちもあった。
わたしの弱さはわたしのもので、この醜さこそが自分を今の世界に繋ぎとめていた。
「ホームズさん。だからこそ、なんです」
「ほう」
「わたしには何の力もありません。元々弱い人間なのに、倫敦で日本人の女が生きていくというハンデもあります」
「……そうだね」
否定も誤魔化しもしないのがホームズさんらしい。不安げに目配せをする御琴羽さんへ薄らと笑みを返しつつ、わたしはゆっくりと目を閉じた。
今まで与えてもらった優しさに少しでも報いたいならば、最大限誠実に言葉を紡ぐべきだ。瞼をこじ開けた。
「その上、わたしには知識がありません。この世界の一般常識も知らない段階です。ならせめて……、知らなければいけないと思うんです。わたしは、恩人の方にどれほどのお返しをするべきなのか。それさえも知らないまま目を背けていると、単なる卑怯者になってしまうと……思うので」
「キミ、想定以上にマジメだな」
揶揄う気配など微塵もない純粋な感想だった。続いて、御琴羽さんが珍しく溜め息を吐く。
呆れさせてしまっただろうか、と微かに跳ねたこちらの心臓を宥めるように、困ったような笑みが返ってきた。
「そんなつもりはなかったのですが、貴女を見くびっていたのかもしれません」
「まあ、そうだろうね」
「ホームズ」
無表情で肩をすくめた探偵を見て、推測は自然と確信へ変わる。
知らないならば端的にそう返せば済む話で、知っているならばこんな回りくどい真似をする必要はない。
「わたしの経済面も支援してくださっているのは、おふたりなんですよね……?」
「まあね」
「そういうことになりますね」
躊躇いなく降ってきた肯定の言葉に安心する。わたしは、わたしの返すべき巨大な恩を見つけた。大きくてやわらかくて温かな、ふたつの優しさを見つめた。
「ありがとうございます。……本当に、ありがとう」
いつの間にか、真っ白な病室に夕陽が薄らと射し込んでいた。血のようだと感じた太陽の光が、今のわたしには海のように見えた。
相変わらず呼吸は上手く出来ないし、何も知らない無力な女であることに変わりはない。
それでも目指すべき場所をぼんやりと認識することは叶ったし、藻掻くための身体も回復の兆しを見せている。
見知らぬ海を泳ぐよりも、ふたりに見捨てられることの方が何倍も怖いと思った。
同じ日本人だからだろうか、という予想は当たっていた。しかしその背景事情は想像の斜め上だった。
要点のみ掻い摘むと、わたしは過去のイギリスにいることが判明した。19世紀の大英帝国、首都倫敦。産業革命の熱が渦巻く世界の中心にいることを確信できたのは、紛れもなく目の前のひとのお陰だった。
「やあ。ミス・ナマエ、調子はどうだい?」
「はい、お陰様で悪くないです。ホームズさん」
「別にボクのお陰ではないけど。まあ、それなら良かった。第一発見者としてこちらも目覚めが悪くなるし」
一目で聡明だと窺わせる綺麗な眉を吊り上げながら、世界の名探偵───どうやら今はそこまで有名でないらしいけれど───は、人差し指をピンと立ててからこめかみに添えた。
シャーロック・ホームズが現実に存在する時点で、わたしが生きていた現代とはまるで状況が異なる。詳細は不明だが、パラレルワールドの過去の世界に来てしまった、という理解が最も近いだろうか。
こんな荒唐無稽な現状を上手く整理できたのも、何を隠そうホームズさんのお陰だ。
───キミ、この世界の人間じゃないだろう。
事件の被害者に会いに来たという探偵は、敢えて御琴羽さんがいる場面を選んで名推理を口にした。
薄々頭によぎっていた推測を断定する口調に動揺して、思わず言葉を探すのに手間取ったが、彼の姿はなんとも頼もしかった。
突拍子もない身の上話を自分自身でさえ信じられなかったし、この先誰にも話すことなく再び命を終えるのだろうと思っていたのに。
───また来るよ、ミス・ナマエ。
最初は苗字で呼んだのに、二回目はそれを避けてくれたのは、微かにこびり付く心の膿を見透かしたからなのだろう。
畏怖さえ抱いてしまいそうな異次元の聡明さは、しかしわたしを支える命綱の一つになっていた。
「それで、本題なんだが」
「はい、何でしょう?」
「キミは退院しても帰る場所がないだろう」
痛いところを突いてくるなあ、と思いつつ素直に頷く。他の人から指摘されれば傷になったかもしれないが、ホームズさんは単に事実を指摘しただけだ。
「ボクたちの家に来るといい」
「…………、え」
「ホームズ。さすがに言葉足らずでしょう」
「おや。他に何を言えというんだ、ミコトバ」
名探偵の言葉を噛み砕くのに必死だったわたしは、定期回診で来訪してくれた御琴羽さんにも気づかない程に驚いていたらしい。
ふたりがルームシェアをする友人同士だと聞いた時も驚愕したけれど、今回はそれ以上だった。
「貴女の状況をさすがに見過ごせませんでしたからね。医者としても、一個人としても。それでホームズに相談したんですが」
「簡単な問いだろう? 彼女の身柄を預けられるような組織は現状どこにもない。選択肢はひとつじゃないか」
「それはそうなんですが」
「彼女ならばキミと同様、端的に説明しても問題ないと思ったんだがね」
御琴羽さんと同列に挙げてもらった、という喜びが微かに湧き上がる。
事件捜査を助ける相棒とレベルが違うのは承知の上だけれど、ホームズさんは下手にお世辞を述べるようなひとではないと分かっていた。
頭の回転は悪い方だと自負しているものの、ホームズさんの言葉は有難く受け取りたいと思っている。
「落ち着きのある女性だ、というのは確かですけど」
「ああ。それでミス・ナマエ、どうだい?」
「あ、……有り難すぎるお話なんですが。わたし、手持ちが何も無いのでお返し出来るものがなくて。考えつくものとしては、家事くらいでしょうか」
「別に構わないよ」
「こちらとしても、家事を担って頂けるのは有難い申し出ですしね」
こちらの返答など全て予想済みのような対応を受けて、まな板に乗った魚のような気分になる。先程密かに沸き立った喜びなど瞬く間に吹き飛んでいた。
寄る辺ない異邦人の女には、差し伸べられた手を跳ね除ける選択肢など端から存在しない。
彼らの優しさはひび割れた心に痛いほど沁み渡るが、それ以上に己の無力さに打ちひしがれそうだった。
何もかも誰かの世話になり続けている状態は、じゅくじゅくとした痛みをわたしに与える。
誰かの優しさに甘えたままでいれば楽だろうが、それでは何も変わらない。
自分の世界から逃げ出したならば、その先の尻拭いもまた自分の手で行うべきだろう。身の内に巣食う弱さは未だに根付いてるものの、全てに向き合う覚悟はちっぽけながらあった。
「お返事をする前に聞かせてください。……わたしの入院費や手術費は、どなたが負担してくださったんですか」
「キミには今すぐ払う力もないのに、知りたいのかい?」
「ホームズ」
白衣の恩人は、鋭い視線を伴って探偵を制した。事実を躊躇いなく口にするホームズさんも、孤独な女を気遣う御琴羽さんも、二人とも紛れもなくやさしいひとだ。
容赦ない探偵の言葉に確かに胸は痛んだが、それでもどこか清々しい気持ちもあった。
わたしの弱さはわたしのもので、この醜さこそが自分を今の世界に繋ぎとめていた。
「ホームズさん。だからこそ、なんです」
「ほう」
「わたしには何の力もありません。元々弱い人間なのに、倫敦で日本人の女が生きていくというハンデもあります」
「……そうだね」
否定も誤魔化しもしないのがホームズさんらしい。不安げに目配せをする御琴羽さんへ薄らと笑みを返しつつ、わたしはゆっくりと目を閉じた。
今まで与えてもらった優しさに少しでも報いたいならば、最大限誠実に言葉を紡ぐべきだ。瞼をこじ開けた。
「その上、わたしには知識がありません。この世界の一般常識も知らない段階です。ならせめて……、知らなければいけないと思うんです。わたしは、恩人の方にどれほどのお返しをするべきなのか。それさえも知らないまま目を背けていると、単なる卑怯者になってしまうと……思うので」
「キミ、想定以上にマジメだな」
揶揄う気配など微塵もない純粋な感想だった。続いて、御琴羽さんが珍しく溜め息を吐く。
呆れさせてしまっただろうか、と微かに跳ねたこちらの心臓を宥めるように、困ったような笑みが返ってきた。
「そんなつもりはなかったのですが、貴女を見くびっていたのかもしれません」
「まあ、そうだろうね」
「ホームズ」
無表情で肩をすくめた探偵を見て、推測は自然と確信へ変わる。
知らないならば端的にそう返せば済む話で、知っているならばこんな回りくどい真似をする必要はない。
「わたしの経済面も支援してくださっているのは、おふたりなんですよね……?」
「まあね」
「そういうことになりますね」
躊躇いなく降ってきた肯定の言葉に安心する。わたしは、わたしの返すべき巨大な恩を見つけた。大きくてやわらかくて温かな、ふたつの優しさを見つめた。
「ありがとうございます。……本当に、ありがとう」
いつの間にか、真っ白な病室に夕陽が薄らと射し込んでいた。血のようだと感じた太陽の光が、今のわたしには海のように見えた。
相変わらず呼吸は上手く出来ないし、何も知らない無力な女であることに変わりはない。
それでも目指すべき場所をぼんやりと認識することは叶ったし、藻掻くための身体も回復の兆しを見せている。
見知らぬ海を泳ぐよりも、ふたりに見捨てられることの方が何倍も怖いと思った。