ふたりぼっちの心臓
夜の香りがした。りんりんと虫の鳴く声が、一歩踏み出す度に名前の背中を追いかけてくる。
ぼんやりと光る街灯から逃げ出すように薄暗い路地を抜け、コンビニへの道を急いだ。スッピンに部屋着のパーカーという気の抜けた出で立ちのため、なるべくならば知り合いには出会いたくないのだ。それなら身嗜みくらい気を付けろという話なのだが、一人暮らしという環境は従来の面倒臭がりを助長させるばかりだった。
顔を伏せながら自動ドアを潜ると、やる気のない店員からの挨拶に出迎えられる。軽く会釈をしてからそそくさと通路を進み、夜食と朝食用の甘い物を物色した。
デザートなど中学時代ならいくらでもお腹に入ったが、今では食べ過ぎるとすぐに胸焼けしてしまう。あまり重すぎない物を買いたいなと視線を滑らせていると、一番下の棚に陳列されたいちご大福が目にとまった。お雛様のように紅い餅皮をまとい、丸々とした大きな苺が顔を出している様はとても可愛らしい。
これ、先輩が好きそうだな。などと考えながら、チェックシャツに黒縁メガネ、ぼさぼさのポニーテールを揺らしながらヘラヘラと笑う姿を思い浮かべる。
180cmの長身で医学部生というハイスペックさを活かそうともせず、自身を着飾ることにとことん無頓着な人。ゆるゆるとした独特の雰囲気と柔和な言葉遣いは、瞬く間に周囲の心を懐柔していくのだ。かくいう名前も、サークルに入ったその日に軽口を叩き合う仲になっていた。
異性の先輩の中では一番話しやすい存在だが、仲が良いと断言できる程の関係でもない。趣味が合うため顔を合わせれば会話をするし、先輩の味の好みや好きなアイドルについては知っている。だがそれだけだ。個人的に遊びに行ったり、連絡を取ったりなんてことはしない。
こうしてふとした時に思い出す程には意識しているし、キス出来るかと言われれば出来る。けれど先輩が他の女の子と付き合ったとしても「へえ、そうなんだ」と思うに留まるし、名前にとってキス出来ると思う男子は何人かいる。所詮はその程度の、曖昧で不誠実な感情なのだ。
「あれ苗字ちゃん、その大福買うの?」
なるべく他人と目を合わせないようウロウロしていると、背後から聞き覚えのある声がかかった。思わずぎょっとしながら振り返れば、ヘラヘラと締まりのない笑顔が降ってくる。
そう、先輩とは偶然にも最寄り駅が同じなのだ。駅から一番近いコンビニならば遭遇してもおかしくはない。おかしくはないのだが、先程まで思考の中心にした人が目の前に現れると、ほんの少し動揺してしまう。
「はい、なんだか和菓子が食べたい気分で。先輩は?」
「うん。ボクも少しお腹が空いてね。ついでにちょっと歩こうかなって」
「私もそんな感じです。家にいても一人なので、なんとなく寂しくて」
「あー、そっか。苗字ちゃん一人暮らしだっけ」
人気はないものの狭い通路に居座っても邪魔だということで、二人はすぐに揃ってレジへと向かった。白玉ぜんざいや饅頭、どら焼きを大量に買い込んでいる姿を見て、相変わらずだなと名前は苦笑する。隣のレジで遅れて会計を始めた自分の方が、先輩を待つ結果になってしまった。
「待たせてごめんね」
ふふふ、とちっとも悪びれない笑顔でやってきた先輩と共に自動ドアをくぐる。帰り道は反対なためそのまま別れることになるだろうと思っていたのだが、先輩は何やら袋の中身をゴソゴソと漁っていた。和菓子が透けて見える大きめの袋の脇に、ホットスナック用の真っ白な袋がふたつあった。
「はい、これ。もし良ければ食べて」
いつの間にやら片手に肉まんを持ちながら、先輩は小さな袋を名前に差し出してきた。反射的に受け取り中身を確認すると、先輩が持っているのと同じ肉まんだった。温かくて美味しそうである。
「あ、ありがとうございます。すみません、今お金出しますね」
「ううん、いいよ。たまにはボクにも先輩らしく奢らせて」
「……それではお言葉に甘えて。今度、絶対に何か奢りますから」
「うん、ありがとう」
そんな返事が返ってきたが、結局のらりくらりとかわされ、また名前の方が奢ってもらうのは目に見えている。この人は他人に施してばかりのくせに、人から好意を受けるのを頑なに拒むのだ。
「……先輩。ここから家まで割と歩きますよね?」
「うーん、まあでも十五分くらいだよ」
「その肉まん、結構熱くないですか?」
「まあね。でも今日ひんやりしてるから、ちょうどいいくらいだし」
「……肉まんを持ちながら歩くの、恥ずかしくありません?」
「ぐっ、そこを突かれると痛いな……」
「お互い、急いで冷蔵庫に入れなきゃいけない物も買ってないことですし。もし良ければ、そこの公園で食べてから帰りませんか?」
「んー、あんまり遅くまで女の子を出歩かせたくないんだけど……」
「先輩なら、私を家まで送ってくれると信じてます」
「あはは、その信頼には応えなくちゃね。……うん、それじゃ行こうか」
柔らかな瞳をゆったりと細め、先輩はせかせかと歩き出してしまう。マイペースな性格をしている一方でリアリストな側面も持ち合わせた先輩は、時間を無駄にすることがあまり好きではないらしい。
あくまで自分のペースを崩さないところを見ていると、この人はモテそうなのにモテないんだろうなあと感じる。だが底抜けに優しいし、顔はいいし、服のセンスはないけど将来有望なお医者様だ。
万が一ということもあるし、唾をつけておくのも悪くないだろう。なんて下心から先輩を誘う己は、相当悪い女なのだと思う。
しかし考えてみれば、今の自分は相当に女を捨てた外見をしていた。こんな気の抜けた格好をした色気のない後輩を意識するほど、先輩も馬鹿ではないだろう。
そんな風にぼんやり歩いていると、あっという間に公園の入口に差し掛かっていた。よく近所の子供達の遊び場になっている、素朴でスタンダードな公園である。
人気のない遊具を一通り見回した後、二人は街灯が最も当たっているブランコに座ることにした。心許ない小さな板に腰を下ろすと、案の定ぎしりと音を立てる。年を取ったなあと苦笑しつつ、先輩と一緒に肉まんにかぶりついた。夜風にさらされた肉まんは、名前の胸の内までほろりと温めてくれた。
「やっぱり美味しいですよね、肉まん。たまに物凄く食べたくなる時があって」
「うん、分かるよ。ファーストフードのポテトとかチキンと同じ感覚だよね」
「そうなんですよ。先輩、意外と分かる人ですね」
「む。ボクだって、最低限の一般常識は持ち合わせてるんだぞう」
子供らしく頬を膨らませる様子を見て、名前はくつくつと笑う。この先輩は時折全てを見透かしたように笑うため、こうして無邪気な姿を見ていると安心するのだ。
思えば、入学初日に一人ぼっちだった名前を勧誘してくれた時も、同じような顔をしていたっけ。もそもそと頬張りながら先輩の顔を盗み見ようとすると、視線がバッチリ重なってしまった。なんとなく気まずいが、今更逸らすのも変である。
「苗字ちゃん、学校は楽しい?」
「……先輩、おじさん臭いです」
「えっウソ!?」
「あはは、冗談です。普通に楽しいですよ。おじさん臭いというより、お父さん臭いの方が正しかったですね」
「そ、それはそれで複雑なんだけどなあ。うん、まあでも安心したよ」
「私、そんなに問題起こすように見えます?」
「いやいや、まさか。初対面の時も話をちゃんと聞いてくれたし凄く話しやすかったから、きっと上手くやってるんだろうなとは思うんだけど」
「けど?」
「時々、寂しそうな顔をしてるから」
ぽろりと一言零してから、先輩は残りの肉まんを平らげた。しばらく思考が停止していた名前も、先輩に倣い慌てて口に詰め込む。
「先輩」
「ん?」
「私を見て寂しそうだと思うのは、……先輩も寂しいからですか」
きょとんと瞳を丸くした後、先輩はこてんと首を傾げて困ったように眉を下げた。何かを考え込むように唇を引き締めた後、恐る恐るといったように唇を開く。
「……もしも、この感情を寂しいと定義するのなら。そうだね、ボクはずっと寂しいのかもしれない」
夜風に攫われそうなほど微かな声が、名前の鼓膜に響きわたる。
先輩は、感情という感情が全て抜け落ちたような、彫刻のように整った顔をしていた。ああ、やっぱりこの人は顔がいいんだよなあと痛感する。
「それなら、これから先もっと楽しいことをしなきゃいけないですね」
「へ?」
「先輩、明日のお昼は暇ですか? 一緒にご飯食べません?」
「あ、うん。それは構わないけど……」
「決まりですね。あと前から思ってたんですけど、先輩っていつも同じ服を着回してるじゃないですか。せっかくイケメンなのに勿体ないです。今度一緒に買い物へ行きましょう」
「え、ええ……?」
「先輩、今週末とかどうです?」
「ううん……、特に予定は無かったかなあ」
「なら、日曜日の十一時に駅前でどうですか? 私、ちょうど近くのショッピングモールで見たい物があったんですよ」
呆気にとられていた先輩が、ついに僅かばかり微笑んだ。困ったような、戸惑ったような、迷っているような、……嬉しいような笑顔。最後の表情は、もしかしたらただの願望かもしれないけれど。
名前は普段、こんなに強引に約束を取り付けることはしない。相手が少しでも困っているような素振りを見せたらきちんと引くし、基本的にオッケーを貰える可能性が高い相手しか誘わない。
けれど何故だろうか。名前は今、先輩のことを放っておけないと思った。
「買い物自体は、一時間もかからずに終わると思うので。お昼過ぎにすぐ解散でもいいですし」
「……せっかくだし、晩ご飯も一緒に食べよっか」
「あ、はい! ぜひ!」
「ようし。それなら美味しいお店探しておかなくっちゃなあ。名前ちゃんが好きそうなお店、いくつか見繕っておくね」
いつも通りの柔和な笑みを浮かべながら立ち上がった先輩に続き、名前も慌てて腰を上げた。
「……ロマニ先輩」
「ん?」
「明日、楽しみにしてます」
「うん。……ボクもだよ」
先輩の名を当たり前のように呼べるようになったことが嬉しくて、名前の足取りは自然と軽やかなものとなっていた。
夜風の心地好さに恍惚としながら先輩のポニーテールを目で追いかけると、その背中の大きさに思わず驚いてしまう。
先輩は男の人なんだと、名前は初めて実感した気がした。
ぼんやりと光る街灯から逃げ出すように薄暗い路地を抜け、コンビニへの道を急いだ。スッピンに部屋着のパーカーという気の抜けた出で立ちのため、なるべくならば知り合いには出会いたくないのだ。それなら身嗜みくらい気を付けろという話なのだが、一人暮らしという環境は従来の面倒臭がりを助長させるばかりだった。
顔を伏せながら自動ドアを潜ると、やる気のない店員からの挨拶に出迎えられる。軽く会釈をしてからそそくさと通路を進み、夜食と朝食用の甘い物を物色した。
デザートなど中学時代ならいくらでもお腹に入ったが、今では食べ過ぎるとすぐに胸焼けしてしまう。あまり重すぎない物を買いたいなと視線を滑らせていると、一番下の棚に陳列されたいちご大福が目にとまった。お雛様のように紅い餅皮をまとい、丸々とした大きな苺が顔を出している様はとても可愛らしい。
これ、先輩が好きそうだな。などと考えながら、チェックシャツに黒縁メガネ、ぼさぼさのポニーテールを揺らしながらヘラヘラと笑う姿を思い浮かべる。
180cmの長身で医学部生というハイスペックさを活かそうともせず、自身を着飾ることにとことん無頓着な人。ゆるゆるとした独特の雰囲気と柔和な言葉遣いは、瞬く間に周囲の心を懐柔していくのだ。かくいう名前も、サークルに入ったその日に軽口を叩き合う仲になっていた。
異性の先輩の中では一番話しやすい存在だが、仲が良いと断言できる程の関係でもない。趣味が合うため顔を合わせれば会話をするし、先輩の味の好みや好きなアイドルについては知っている。だがそれだけだ。個人的に遊びに行ったり、連絡を取ったりなんてことはしない。
こうしてふとした時に思い出す程には意識しているし、キス出来るかと言われれば出来る。けれど先輩が他の女の子と付き合ったとしても「へえ、そうなんだ」と思うに留まるし、名前にとってキス出来ると思う男子は何人かいる。所詮はその程度の、曖昧で不誠実な感情なのだ。
「あれ苗字ちゃん、その大福買うの?」
なるべく他人と目を合わせないようウロウロしていると、背後から聞き覚えのある声がかかった。思わずぎょっとしながら振り返れば、ヘラヘラと締まりのない笑顔が降ってくる。
そう、先輩とは偶然にも最寄り駅が同じなのだ。駅から一番近いコンビニならば遭遇してもおかしくはない。おかしくはないのだが、先程まで思考の中心にした人が目の前に現れると、ほんの少し動揺してしまう。
「はい、なんだか和菓子が食べたい気分で。先輩は?」
「うん。ボクも少しお腹が空いてね。ついでにちょっと歩こうかなって」
「私もそんな感じです。家にいても一人なので、なんとなく寂しくて」
「あー、そっか。苗字ちゃん一人暮らしだっけ」
人気はないものの狭い通路に居座っても邪魔だということで、二人はすぐに揃ってレジへと向かった。白玉ぜんざいや饅頭、どら焼きを大量に買い込んでいる姿を見て、相変わらずだなと名前は苦笑する。隣のレジで遅れて会計を始めた自分の方が、先輩を待つ結果になってしまった。
「待たせてごめんね」
ふふふ、とちっとも悪びれない笑顔でやってきた先輩と共に自動ドアをくぐる。帰り道は反対なためそのまま別れることになるだろうと思っていたのだが、先輩は何やら袋の中身をゴソゴソと漁っていた。和菓子が透けて見える大きめの袋の脇に、ホットスナック用の真っ白な袋がふたつあった。
「はい、これ。もし良ければ食べて」
いつの間にやら片手に肉まんを持ちながら、先輩は小さな袋を名前に差し出してきた。反射的に受け取り中身を確認すると、先輩が持っているのと同じ肉まんだった。温かくて美味しそうである。
「あ、ありがとうございます。すみません、今お金出しますね」
「ううん、いいよ。たまにはボクにも先輩らしく奢らせて」
「……それではお言葉に甘えて。今度、絶対に何か奢りますから」
「うん、ありがとう」
そんな返事が返ってきたが、結局のらりくらりとかわされ、また名前の方が奢ってもらうのは目に見えている。この人は他人に施してばかりのくせに、人から好意を受けるのを頑なに拒むのだ。
「……先輩。ここから家まで割と歩きますよね?」
「うーん、まあでも十五分くらいだよ」
「その肉まん、結構熱くないですか?」
「まあね。でも今日ひんやりしてるから、ちょうどいいくらいだし」
「……肉まんを持ちながら歩くの、恥ずかしくありません?」
「ぐっ、そこを突かれると痛いな……」
「お互い、急いで冷蔵庫に入れなきゃいけない物も買ってないことですし。もし良ければ、そこの公園で食べてから帰りませんか?」
「んー、あんまり遅くまで女の子を出歩かせたくないんだけど……」
「先輩なら、私を家まで送ってくれると信じてます」
「あはは、その信頼には応えなくちゃね。……うん、それじゃ行こうか」
柔らかな瞳をゆったりと細め、先輩はせかせかと歩き出してしまう。マイペースな性格をしている一方でリアリストな側面も持ち合わせた先輩は、時間を無駄にすることがあまり好きではないらしい。
あくまで自分のペースを崩さないところを見ていると、この人はモテそうなのにモテないんだろうなあと感じる。だが底抜けに優しいし、顔はいいし、服のセンスはないけど将来有望なお医者様だ。
万が一ということもあるし、唾をつけておくのも悪くないだろう。なんて下心から先輩を誘う己は、相当悪い女なのだと思う。
しかし考えてみれば、今の自分は相当に女を捨てた外見をしていた。こんな気の抜けた格好をした色気のない後輩を意識するほど、先輩も馬鹿ではないだろう。
そんな風にぼんやり歩いていると、あっという間に公園の入口に差し掛かっていた。よく近所の子供達の遊び場になっている、素朴でスタンダードな公園である。
人気のない遊具を一通り見回した後、二人は街灯が最も当たっているブランコに座ることにした。心許ない小さな板に腰を下ろすと、案の定ぎしりと音を立てる。年を取ったなあと苦笑しつつ、先輩と一緒に肉まんにかぶりついた。夜風にさらされた肉まんは、名前の胸の内までほろりと温めてくれた。
「やっぱり美味しいですよね、肉まん。たまに物凄く食べたくなる時があって」
「うん、分かるよ。ファーストフードのポテトとかチキンと同じ感覚だよね」
「そうなんですよ。先輩、意外と分かる人ですね」
「む。ボクだって、最低限の一般常識は持ち合わせてるんだぞう」
子供らしく頬を膨らませる様子を見て、名前はくつくつと笑う。この先輩は時折全てを見透かしたように笑うため、こうして無邪気な姿を見ていると安心するのだ。
思えば、入学初日に一人ぼっちだった名前を勧誘してくれた時も、同じような顔をしていたっけ。もそもそと頬張りながら先輩の顔を盗み見ようとすると、視線がバッチリ重なってしまった。なんとなく気まずいが、今更逸らすのも変である。
「苗字ちゃん、学校は楽しい?」
「……先輩、おじさん臭いです」
「えっウソ!?」
「あはは、冗談です。普通に楽しいですよ。おじさん臭いというより、お父さん臭いの方が正しかったですね」
「そ、それはそれで複雑なんだけどなあ。うん、まあでも安心したよ」
「私、そんなに問題起こすように見えます?」
「いやいや、まさか。初対面の時も話をちゃんと聞いてくれたし凄く話しやすかったから、きっと上手くやってるんだろうなとは思うんだけど」
「けど?」
「時々、寂しそうな顔をしてるから」
ぽろりと一言零してから、先輩は残りの肉まんを平らげた。しばらく思考が停止していた名前も、先輩に倣い慌てて口に詰め込む。
「先輩」
「ん?」
「私を見て寂しそうだと思うのは、……先輩も寂しいからですか」
きょとんと瞳を丸くした後、先輩はこてんと首を傾げて困ったように眉を下げた。何かを考え込むように唇を引き締めた後、恐る恐るといったように唇を開く。
「……もしも、この感情を寂しいと定義するのなら。そうだね、ボクはずっと寂しいのかもしれない」
夜風に攫われそうなほど微かな声が、名前の鼓膜に響きわたる。
先輩は、感情という感情が全て抜け落ちたような、彫刻のように整った顔をしていた。ああ、やっぱりこの人は顔がいいんだよなあと痛感する。
「それなら、これから先もっと楽しいことをしなきゃいけないですね」
「へ?」
「先輩、明日のお昼は暇ですか? 一緒にご飯食べません?」
「あ、うん。それは構わないけど……」
「決まりですね。あと前から思ってたんですけど、先輩っていつも同じ服を着回してるじゃないですか。せっかくイケメンなのに勿体ないです。今度一緒に買い物へ行きましょう」
「え、ええ……?」
「先輩、今週末とかどうです?」
「ううん……、特に予定は無かったかなあ」
「なら、日曜日の十一時に駅前でどうですか? 私、ちょうど近くのショッピングモールで見たい物があったんですよ」
呆気にとられていた先輩が、ついに僅かばかり微笑んだ。困ったような、戸惑ったような、迷っているような、……嬉しいような笑顔。最後の表情は、もしかしたらただの願望かもしれないけれど。
名前は普段、こんなに強引に約束を取り付けることはしない。相手が少しでも困っているような素振りを見せたらきちんと引くし、基本的にオッケーを貰える可能性が高い相手しか誘わない。
けれど何故だろうか。名前は今、先輩のことを放っておけないと思った。
「買い物自体は、一時間もかからずに終わると思うので。お昼過ぎにすぐ解散でもいいですし」
「……せっかくだし、晩ご飯も一緒に食べよっか」
「あ、はい! ぜひ!」
「ようし。それなら美味しいお店探しておかなくっちゃなあ。名前ちゃんが好きそうなお店、いくつか見繕っておくね」
いつも通りの柔和な笑みを浮かべながら立ち上がった先輩に続き、名前も慌てて腰を上げた。
「……ロマニ先輩」
「ん?」
「明日、楽しみにしてます」
「うん。……ボクもだよ」
先輩の名を当たり前のように呼べるようになったことが嬉しくて、名前の足取りは自然と軽やかなものとなっていた。
夜風の心地好さに恍惚としながら先輩のポニーテールを目で追いかけると、その背中の大きさに思わず驚いてしまう。
先輩は男の人なんだと、名前は初めて実感した気がした。