ふたりぼっちの心臓(2)
昼休みに入った直後の廊下は、すっかり明るい喧騒で満ちている。授業からの開放感に浸りながら一人で部室までの道のりを辿っていると、掲示板の前に見慣れた後ろ姿を見かけた。あの野暮ったいチェックシャツとポニーテールは間違いようがない。
名前はウキウキとした気持ちを抑えつつ、そっと背後に忍び寄る。目の前の獲物に狙いを定め、勢いよく攻撃を仕掛けた。その名も膝カックンである。
「ひぎゃ!?」
先輩の声はよく通る。女の子座りをしながら呆然としていた先輩は、やがてぎこちなくこちらを振り返り、周囲の注目を集めていることを知ると顔を真っ赤にさせた。
「ちょっと名前ちゃん!」
「こんにちはロマニ先輩。今日もお元気そうで何よりです。私は先に部室へ行ってますねー!」
「ちょっと待ちなさい!」
本気で追いかけてくる先輩の気配を背に、名前も人の波をすり抜けながら全速力で駆けていく。
構ってほしいから意地悪するなど我ながら小学生男子のような振る舞いだと思うが、普段のらりくらりとした先輩が感情を剥き出しにしている様子が可愛くて仕方がないのだ。
結局、名前が先輩に捕らわれたのは部室の扉前だった。
「はあ、……やっと追いついた」
「あはは、お疲れ様です」
「あのね、誰のせいだと」
「先輩、お昼持ってきてます?」
きょとりと眼鏡の奥の瞳を丸くしてから、先輩は眉を下げて微笑む。
「ううん。今日もお弁当を買いに行くつもりだったから」
「実は、私もおやつを買いたかったんです。新発売のイチゴ味パッキーが安売りしてるらしくて」
「えっ本当に? ボクも気になってたんだよね」
あっという間に顔を輝かせた先輩と連れ立って購買へ出向き、それぞれ目的の物を買う。周りより頭一つ分飛び抜けている先輩は、人混みに紛れてしまってもすぐに見つかるので大助かりだ。
部室へ戻ると、経済学部の代表が隅の方でパソコンを弄っている。近付くなオーラを発していたため、レポートがまた修羅場なのだろう。挨拶もそこそこに、名前は先輩と二人でお昼を食べ始めた。
「名前ちゃんは毎回お弁当だよね」
「まあ、冷食の詰め合わせですけどね。あまり無駄遣いするわけにもいかないので」
「いやいや、充分凄いよ。ボクなんて、卵焼きすら真っ黒に焦がしちゃうし」
「んー、先輩の場合は料理男子を目指すよりも、ドジっ子キャラで売っていく方が良いと思うので。別に問題無いんじゃないですか?」
「人を売れない芸人みたいに言わないでよ……。しかもキャラ作りすら迷走してるって相当駄目な奴でしょ」
「先輩は人を笑わせるというより、自然と人を笑顔にさせる人ですから。一緒にいるだけで気が抜けるというか」
「最後の一文で台無し! ちょっと良い雰囲気だったのに!」
「いやいや、雰囲気クラッシャー度で言ったら先輩には及びませんよ」
ムッとしたように頬を膨らませてから、先輩は鮭弁当を勢いよくかき込んでいく。すぐムキになるところが可愛いなあと思いつつ、先ほど買ったパッキーの袋を開いて差し出した。
「む、ボクはお菓子一つで誤魔化されたりなんてしないぞぅ。……、……!」
鬼灯のようにみるみると頬が色付き、若葉のように穏やかな色を宿していた瞳がキラキラと輝やいていく。
名前も一口食べると思わず顔が緩んでしまった。甘い物は人を心から幸せにするのだ。
「やっぱり美味しいですよね」
「うん、この瞬間が幸せだよねえ」
「そうだ先輩。私一つ試してみたいことがあるんですけど、いいですか?」
「お、屋上から飛び降りろとか言うのやめてね?」
「そんなバイオレンスな台詞吐きませんって。先輩の髪、少し触ってもいいですか?」
返事を聞く前に先輩の背後に回り、真下のふわふわとした髪を手で梳いていく。手元のポーチからブラシとヘアピンを取り出すと、先輩は仕方ないなあと笑いながら素直に従ってくれた。
「髪、ずっと伸ばしてきたんですか?」
「んー、そうだねえ。物心がついてからはずっとかな。手入れする時間があるなら本読みたかったし」
「長い方が手入れが大変な気もしますけど……。触ってて気持ちいいですし、確かにこれは切るのが勿体ないですね」
ゴムを解くと、肩甲骨の辺りまで毛先が散らばっていく。花のようにやさしくて甘い香りが、名前の心臓を擽るようだった。
「ポニーテール以外はしたことないんですか?」
「うん、ないかな。それに男が凝った髪型しててもアレじゃない?」
「えー。せっかく顔もスタイルもいいんですから活かせばいいのに。私が先輩みたいにイケメンだったら、毎日ファッションに気を使って女の子を侍らしてますよ」
「いやいや、そんなことしてもいいことないって。それに、……やっぱり何でもない」
「確かに先輩って、大勢からモテるより好きな子が隣にいてくれればいい派っぽいですもんね」
「ふえ、エスパーなの!?」
「ふっふっふ。先輩が今考えていることを当ててみせましょうか? ”ああ、名前ちゃんと一緒に駅前のカフェでパンケーキを食べたいなあ”」
「おお、よく分かったね」
「やっぱり、先輩ならチェックしてると思ったんですよね。今度、空きコマが重なったら行きましょう?」
つむじ近くで無造作にまとめられていた髪を左側にすべて流し、耳元の辺りから編み込みをしていく。くすぐったそうに肩をすくめている様子を眺めつつ、鎖骨付近で毛先を結べばローテールの完成だ。
名前自身が着てきたベージュのトレンチコートを肩に羽織ってもらい、ストールを巻き付けることでチェックシャツの野暮ったさをカバーする。
一通り好き勝手にやってから、名前は正面から先輩を眺めた。
先輩は、クリスマスプレゼントを待つ子供のようにソワソワと落ち着きがない。態度はあどけないのに、身体は立派に成熟した大人の男性なのだ。そのちぐはくな様子に、名前は思わず胸がやわく締め付けられる感覚がした。母性本能にも似た想いに支配される。
清潔感のあるロングヘアと、細めのフレームが涼しい雰囲気の黒縁メガネ。ゆるく纏まった編み込みも、その辺の読者モデルなど敵ではない程に似合っていた。
「うわあ……、先輩ってやっぱりイケメンですよね」
「何で少し引いてるの!?」
「この顔の造形を一切活かそうとしないそのスタンスに、私はドン引きですよ。はーい、眼鏡も取りましょう」
「え、ちょっとそれは……!」
「写真を撮ったら返すので、少し我慢してくださいね」
先輩はしばらく目元を紅く染めながらはにかんでいたが、次々と注文をつけつつ撮影を続ける名前に、次第に呆れたような顔になっていった。
だがしかし、こんなに最高の被写体をみすみす逃すわけにはいかない。先輩の私物である丸くて小さなウサギのキーホルダーを肩に乗せてみたり、パッキーを口に咥えてもらいながら目線を外してもらったり。こんな機会は滅多にないため、こちらも全力である。
名前は元々、綺麗なものを見るのが好きだった。このサークルに入ることを決めたのも、活動内容に孤児院や老人ホームへの訪問が含まれていたためである。たくさんの、見知らぬ無邪気な笑顔に出会ってみたかった。
それに───ロマニ先輩のように、穏やかで心の綺麗な人を少しでも長く見つめていたかったのだ。
「ボクのこと、イケメンだって言ってくれるけどさ」
「はい?」
「名前ちゃんだって可愛いよ」
「…………、軽々しくそんな台詞を言うんじゃありません。お母さんは、そんな子に育てた覚えはありませんよ!」
「え、何で突然お母さんになったの!?」
……恥ずかしいからに決まってるじゃないですか。もう、ばか。
名前はウキウキとした気持ちを抑えつつ、そっと背後に忍び寄る。目の前の獲物に狙いを定め、勢いよく攻撃を仕掛けた。その名も膝カックンである。
「ひぎゃ!?」
先輩の声はよく通る。女の子座りをしながら呆然としていた先輩は、やがてぎこちなくこちらを振り返り、周囲の注目を集めていることを知ると顔を真っ赤にさせた。
「ちょっと名前ちゃん!」
「こんにちはロマニ先輩。今日もお元気そうで何よりです。私は先に部室へ行ってますねー!」
「ちょっと待ちなさい!」
本気で追いかけてくる先輩の気配を背に、名前も人の波をすり抜けながら全速力で駆けていく。
構ってほしいから意地悪するなど我ながら小学生男子のような振る舞いだと思うが、普段のらりくらりとした先輩が感情を剥き出しにしている様子が可愛くて仕方がないのだ。
結局、名前が先輩に捕らわれたのは部室の扉前だった。
「はあ、……やっと追いついた」
「あはは、お疲れ様です」
「あのね、誰のせいだと」
「先輩、お昼持ってきてます?」
きょとりと眼鏡の奥の瞳を丸くしてから、先輩は眉を下げて微笑む。
「ううん。今日もお弁当を買いに行くつもりだったから」
「実は、私もおやつを買いたかったんです。新発売のイチゴ味パッキーが安売りしてるらしくて」
「えっ本当に? ボクも気になってたんだよね」
あっという間に顔を輝かせた先輩と連れ立って購買へ出向き、それぞれ目的の物を買う。周りより頭一つ分飛び抜けている先輩は、人混みに紛れてしまってもすぐに見つかるので大助かりだ。
部室へ戻ると、経済学部の代表が隅の方でパソコンを弄っている。近付くなオーラを発していたため、レポートがまた修羅場なのだろう。挨拶もそこそこに、名前は先輩と二人でお昼を食べ始めた。
「名前ちゃんは毎回お弁当だよね」
「まあ、冷食の詰め合わせですけどね。あまり無駄遣いするわけにもいかないので」
「いやいや、充分凄いよ。ボクなんて、卵焼きすら真っ黒に焦がしちゃうし」
「んー、先輩の場合は料理男子を目指すよりも、ドジっ子キャラで売っていく方が良いと思うので。別に問題無いんじゃないですか?」
「人を売れない芸人みたいに言わないでよ……。しかもキャラ作りすら迷走してるって相当駄目な奴でしょ」
「先輩は人を笑わせるというより、自然と人を笑顔にさせる人ですから。一緒にいるだけで気が抜けるというか」
「最後の一文で台無し! ちょっと良い雰囲気だったのに!」
「いやいや、雰囲気クラッシャー度で言ったら先輩には及びませんよ」
ムッとしたように頬を膨らませてから、先輩は鮭弁当を勢いよくかき込んでいく。すぐムキになるところが可愛いなあと思いつつ、先ほど買ったパッキーの袋を開いて差し出した。
「む、ボクはお菓子一つで誤魔化されたりなんてしないぞぅ。……、……!」
鬼灯のようにみるみると頬が色付き、若葉のように穏やかな色を宿していた瞳がキラキラと輝やいていく。
名前も一口食べると思わず顔が緩んでしまった。甘い物は人を心から幸せにするのだ。
「やっぱり美味しいですよね」
「うん、この瞬間が幸せだよねえ」
「そうだ先輩。私一つ試してみたいことがあるんですけど、いいですか?」
「お、屋上から飛び降りろとか言うのやめてね?」
「そんなバイオレンスな台詞吐きませんって。先輩の髪、少し触ってもいいですか?」
返事を聞く前に先輩の背後に回り、真下のふわふわとした髪を手で梳いていく。手元のポーチからブラシとヘアピンを取り出すと、先輩は仕方ないなあと笑いながら素直に従ってくれた。
「髪、ずっと伸ばしてきたんですか?」
「んー、そうだねえ。物心がついてからはずっとかな。手入れする時間があるなら本読みたかったし」
「長い方が手入れが大変な気もしますけど……。触ってて気持ちいいですし、確かにこれは切るのが勿体ないですね」
ゴムを解くと、肩甲骨の辺りまで毛先が散らばっていく。花のようにやさしくて甘い香りが、名前の心臓を擽るようだった。
「ポニーテール以外はしたことないんですか?」
「うん、ないかな。それに男が凝った髪型しててもアレじゃない?」
「えー。せっかく顔もスタイルもいいんですから活かせばいいのに。私が先輩みたいにイケメンだったら、毎日ファッションに気を使って女の子を侍らしてますよ」
「いやいや、そんなことしてもいいことないって。それに、……やっぱり何でもない」
「確かに先輩って、大勢からモテるより好きな子が隣にいてくれればいい派っぽいですもんね」
「ふえ、エスパーなの!?」
「ふっふっふ。先輩が今考えていることを当ててみせましょうか? ”ああ、名前ちゃんと一緒に駅前のカフェでパンケーキを食べたいなあ”」
「おお、よく分かったね」
「やっぱり、先輩ならチェックしてると思ったんですよね。今度、空きコマが重なったら行きましょう?」
つむじ近くで無造作にまとめられていた髪を左側にすべて流し、耳元の辺りから編み込みをしていく。くすぐったそうに肩をすくめている様子を眺めつつ、鎖骨付近で毛先を結べばローテールの完成だ。
名前自身が着てきたベージュのトレンチコートを肩に羽織ってもらい、ストールを巻き付けることでチェックシャツの野暮ったさをカバーする。
一通り好き勝手にやってから、名前は正面から先輩を眺めた。
先輩は、クリスマスプレゼントを待つ子供のようにソワソワと落ち着きがない。態度はあどけないのに、身体は立派に成熟した大人の男性なのだ。そのちぐはくな様子に、名前は思わず胸がやわく締め付けられる感覚がした。母性本能にも似た想いに支配される。
清潔感のあるロングヘアと、細めのフレームが涼しい雰囲気の黒縁メガネ。ゆるく纏まった編み込みも、その辺の読者モデルなど敵ではない程に似合っていた。
「うわあ……、先輩ってやっぱりイケメンですよね」
「何で少し引いてるの!?」
「この顔の造形を一切活かそうとしないそのスタンスに、私はドン引きですよ。はーい、眼鏡も取りましょう」
「え、ちょっとそれは……!」
「写真を撮ったら返すので、少し我慢してくださいね」
先輩はしばらく目元を紅く染めながらはにかんでいたが、次々と注文をつけつつ撮影を続ける名前に、次第に呆れたような顔になっていった。
だがしかし、こんなに最高の被写体をみすみす逃すわけにはいかない。先輩の私物である丸くて小さなウサギのキーホルダーを肩に乗せてみたり、パッキーを口に咥えてもらいながら目線を外してもらったり。こんな機会は滅多にないため、こちらも全力である。
名前は元々、綺麗なものを見るのが好きだった。このサークルに入ることを決めたのも、活動内容に孤児院や老人ホームへの訪問が含まれていたためである。たくさんの、見知らぬ無邪気な笑顔に出会ってみたかった。
それに───ロマニ先輩のように、穏やかで心の綺麗な人を少しでも長く見つめていたかったのだ。
「ボクのこと、イケメンだって言ってくれるけどさ」
「はい?」
「名前ちゃんだって可愛いよ」
「…………、軽々しくそんな台詞を言うんじゃありません。お母さんは、そんな子に育てた覚えはありませんよ!」
「え、何で突然お母さんになったの!?」
……恥ずかしいからに決まってるじゃないですか。もう、ばか。