ふたりぼっちの心臓(3)
大学の入学式を終えた新入生は、狼の群れに放り込まれた羊のようなものだ。
歩く度にサークルの勧誘チラシを押し付けられ辟易としていた名前は、人気のない裏道を通って食堂までやって来ていた。愛想のいいおばちゃんが話しかけてくれたお陰でいくらか気は紛れたが、これからの帰り道を想像するだけで参ってしまう。
最安値のカレーライスと冷たいお茶をお腹に入れてから、名前は手元のパンフレットをパラパラと捲ってみた。興味のあるサークルにはいくつか目星をつけているため、説明会が始まる時間になったら移動すればいい。
その間に授業内容を確認するべく分厚い冊子を開けば、真っ白なページにふわふわと影が差す。
「ねえキミ、今晩一緒にご飯行かない!?」
「……へ?」
顔を上げれば、目の前には必死な形相をした男性が立っていた。端正な顔と橙色のポニーテールの鮮やかさはモデル顔負けだったが、野暮ったい黒縁メガネとチェックシャツで色々と台無しである。しかし高身長でスタイルもいいのだから、きっとさぞかしモテるのだろうなあ。第一印象を噛み砕きながら、名前は恐らく先輩であろう人の瞳をぼんやりと見詰めた。宝石のように綺麗な色をしている。
今一度、名前は先程の台詞を推理した。ご飯に誘ってくるということは、サークルの勧誘なのだろうか。しかし、お昼過ぎで新入生がサークルを闊歩している時間帯に、こんな人気のない食堂で燻っている人がいるとも思えない。となれば、この人は私的な用事で名前に話しかけたことになる。
オドオドとした雰囲気に、キャンパスの中でも飛び抜けた容姿。彼は、そこにいるだけで周囲からの視線を集めそうな空気をまとっていた。同性ならば嫉妬してしまいそうなスペックだ。もし、同じサークルの同級生に疎まれていて、度々揶揄われたり意地悪をされているとすれば。今日は彼に恥をかかせるために、知らない新入生をナンパしてこいという命令が下された可能性も高い。
こちらの様子を伺うように不安そうに見下ろしてくる様子からは、性格の良さが感じ取れる。
「ええと、先輩ですよね」
「あ、うん! 医学部の三年生なんだけど」
まさかの少数精鋭のエリートだった。これは、名前の予想がいよいよ現実味を帯びてくる。
新しい環境に対する不安などちっぽけになるくらい、目の前の先輩を励ましたいという気持ちが強く湧き上がった。
「私、先輩のこと応援してます! 一緒に強く生きましょう!」
「うん、一体何の話かな!?」
*
カフェのテラス席は温かい陽射しで満ちている。僅かに吹く肌寒い風が気にならなくなる程、思い出話は名前に笑顔をもたらした。
「そんなこともありましたねー。あの時はちょっと言葉選びを間違えたかな」
「あれでちょっと!?」
「こうして先輩と仲良くなれたことですし、むしろあの時の自分を褒めてあげたいくらいなんですけど」
そう言ってからパンケーキを頬張ると、目の前の先輩は口元を僅かばかり緩めながらむっつりと黙り込んでしまった。先輩の感情が少しでも透けて見える嬉しさを、名前は全身で噛み締めていく。
「私、あの時に先輩に見つけてもらえて嬉しかったです」
「……そう?」
「はい。知り合いが誰もいなくて、寂しくて不安だったから」
「そっか、うん。少しでも名前ちゃんの力になれたなら良かった」
父親のような顔で慈しむように見つめてくる視線がなんとなく癪で、名前は返事をしないままパンケーキを切り分けた。
「でもね名前ちゃん。逆なんだ」
「え、何がですか?」
「ボクがキミを見つけてくれたんじゃなくて、キミがボクを受け入れてくれたのが先だったってこと」
「……先輩の発言が哲学じみてて混乱してきました」
「鶏が先か卵が先かは明確な結論が出ないけど、ボク達の関係の起点は間違いなく名前ちゃんだよ」
いつもながら先輩は、確信を持っていることは断定的に言う人である。しかし思い返しても心当たりなどないため、こちらから反論する材料さえない。
「うーん……。素直に喜んでいいんですよね?」
「もちろん」
「よっしゃー! やったー!」
「あはは。ここはボクの奢りだからね。存分に食べてくれたまえ」
「あ、先輩はまたそうやってすぐに後輩を甘やかす! あとで先輩に似合うネックレスをプレゼントするので見ててくださいよ」
「ええ。でも、もう散々付き合ってくれたじゃない……?」
「先輩ほどのスペックの人とショッピングするなんて滅多にないので、私も張り切ってるんですよ。大人しく諦めて、今日は一日着せ替え人形になってください」
「……それじゃ、名前ちゃんの服も見ようよ」
辟易としたように肩を落としていた先輩が、突如水を得た魚のように生き生きとし始める。予想外の切り返しに驚きながら、名前は首を傾げた。
「私は全然問題ないんですけど、本当にいいんですか? 先輩、女性向けのお店入れます?」
「い、いやいや大丈夫! だって名前ちゃんが一緒だし」
「んー、分かりました。先輩がそこまで言うなら」
「うん。ボクは一緒に見て回るだけしか出来ないけど」
「仲の良い人と色々見るのが楽しいんですよ。買い物は二の次です」
「そういうものかあ」
「はい。ついでに、先輩の好みも色々教えてくださいね。参考にしたいので」
「……好みも何も、名前ちゃんなら何を着てても可愛いと思うけど」
「あのですね先輩、そういう話じゃないんです。何でもいいって言われるのが一番困るって分かってます!?」
焦ったようにオロオロと謝罪する先輩は、自分がどれだけ狡い物言いをしているのか自覚がないのだろう。腹の底から湧き上がった苛立ちのままに目の前の頬を軽くつねると、餅のように柔らかい。小動物を撫でた時のように心が癒されていくことすら、今はとてつもなく癪である。
先輩にとっては名前がどんな服を着ようが同じに見えるのかもしれないが、こちらだって少しでも可愛く見られたいのだ。肝心なことは口に出そうとしない先輩の本音を読み取るために、今日は徹底的にその言動を観察してやる。
勝手に一人で意気込んでいると、先輩は名前に触られた頬を触りながらへにゃりと笑った。
「ボクもね、知りたいと思ってるんだよ。名前ちゃんのこと」
「……私、特に有益な情報は提供できませんよ?」
「あはは、いいんだよ。ボクがただ知りたいだけなんだから」
先輩はそう言って、オレンジジュースのグラスに入った氷をカラカラと回す。名前の心を置き去りにする先輩の笑顔はやはり綺麗で、不思議な程に切なく映った。
歩く度にサークルの勧誘チラシを押し付けられ辟易としていた名前は、人気のない裏道を通って食堂までやって来ていた。愛想のいいおばちゃんが話しかけてくれたお陰でいくらか気は紛れたが、これからの帰り道を想像するだけで参ってしまう。
最安値のカレーライスと冷たいお茶をお腹に入れてから、名前は手元のパンフレットをパラパラと捲ってみた。興味のあるサークルにはいくつか目星をつけているため、説明会が始まる時間になったら移動すればいい。
その間に授業内容を確認するべく分厚い冊子を開けば、真っ白なページにふわふわと影が差す。
「ねえキミ、今晩一緒にご飯行かない!?」
「……へ?」
顔を上げれば、目の前には必死な形相をした男性が立っていた。端正な顔と橙色のポニーテールの鮮やかさはモデル顔負けだったが、野暮ったい黒縁メガネとチェックシャツで色々と台無しである。しかし高身長でスタイルもいいのだから、きっとさぞかしモテるのだろうなあ。第一印象を噛み砕きながら、名前は恐らく先輩であろう人の瞳をぼんやりと見詰めた。宝石のように綺麗な色をしている。
今一度、名前は先程の台詞を推理した。ご飯に誘ってくるということは、サークルの勧誘なのだろうか。しかし、お昼過ぎで新入生がサークルを闊歩している時間帯に、こんな人気のない食堂で燻っている人がいるとも思えない。となれば、この人は私的な用事で名前に話しかけたことになる。
オドオドとした雰囲気に、キャンパスの中でも飛び抜けた容姿。彼は、そこにいるだけで周囲からの視線を集めそうな空気をまとっていた。同性ならば嫉妬してしまいそうなスペックだ。もし、同じサークルの同級生に疎まれていて、度々揶揄われたり意地悪をされているとすれば。今日は彼に恥をかかせるために、知らない新入生をナンパしてこいという命令が下された可能性も高い。
こちらの様子を伺うように不安そうに見下ろしてくる様子からは、性格の良さが感じ取れる。
「ええと、先輩ですよね」
「あ、うん! 医学部の三年生なんだけど」
まさかの少数精鋭のエリートだった。これは、名前の予想がいよいよ現実味を帯びてくる。
新しい環境に対する不安などちっぽけになるくらい、目の前の先輩を励ましたいという気持ちが強く湧き上がった。
「私、先輩のこと応援してます! 一緒に強く生きましょう!」
「うん、一体何の話かな!?」
*
カフェのテラス席は温かい陽射しで満ちている。僅かに吹く肌寒い風が気にならなくなる程、思い出話は名前に笑顔をもたらした。
「そんなこともありましたねー。あの時はちょっと言葉選びを間違えたかな」
「あれでちょっと!?」
「こうして先輩と仲良くなれたことですし、むしろあの時の自分を褒めてあげたいくらいなんですけど」
そう言ってからパンケーキを頬張ると、目の前の先輩は口元を僅かばかり緩めながらむっつりと黙り込んでしまった。先輩の感情が少しでも透けて見える嬉しさを、名前は全身で噛み締めていく。
「私、あの時に先輩に見つけてもらえて嬉しかったです」
「……そう?」
「はい。知り合いが誰もいなくて、寂しくて不安だったから」
「そっか、うん。少しでも名前ちゃんの力になれたなら良かった」
父親のような顔で慈しむように見つめてくる視線がなんとなく癪で、名前は返事をしないままパンケーキを切り分けた。
「でもね名前ちゃん。逆なんだ」
「え、何がですか?」
「ボクがキミを見つけてくれたんじゃなくて、キミがボクを受け入れてくれたのが先だったってこと」
「……先輩の発言が哲学じみてて混乱してきました」
「鶏が先か卵が先かは明確な結論が出ないけど、ボク達の関係の起点は間違いなく名前ちゃんだよ」
いつもながら先輩は、確信を持っていることは断定的に言う人である。しかし思い返しても心当たりなどないため、こちらから反論する材料さえない。
「うーん……。素直に喜んでいいんですよね?」
「もちろん」
「よっしゃー! やったー!」
「あはは。ここはボクの奢りだからね。存分に食べてくれたまえ」
「あ、先輩はまたそうやってすぐに後輩を甘やかす! あとで先輩に似合うネックレスをプレゼントするので見ててくださいよ」
「ええ。でも、もう散々付き合ってくれたじゃない……?」
「先輩ほどのスペックの人とショッピングするなんて滅多にないので、私も張り切ってるんですよ。大人しく諦めて、今日は一日着せ替え人形になってください」
「……それじゃ、名前ちゃんの服も見ようよ」
辟易としたように肩を落としていた先輩が、突如水を得た魚のように生き生きとし始める。予想外の切り返しに驚きながら、名前は首を傾げた。
「私は全然問題ないんですけど、本当にいいんですか? 先輩、女性向けのお店入れます?」
「い、いやいや大丈夫! だって名前ちゃんが一緒だし」
「んー、分かりました。先輩がそこまで言うなら」
「うん。ボクは一緒に見て回るだけしか出来ないけど」
「仲の良い人と色々見るのが楽しいんですよ。買い物は二の次です」
「そういうものかあ」
「はい。ついでに、先輩の好みも色々教えてくださいね。参考にしたいので」
「……好みも何も、名前ちゃんなら何を着てても可愛いと思うけど」
「あのですね先輩、そういう話じゃないんです。何でもいいって言われるのが一番困るって分かってます!?」
焦ったようにオロオロと謝罪する先輩は、自分がどれだけ狡い物言いをしているのか自覚がないのだろう。腹の底から湧き上がった苛立ちのままに目の前の頬を軽くつねると、餅のように柔らかい。小動物を撫でた時のように心が癒されていくことすら、今はとてつもなく癪である。
先輩にとっては名前がどんな服を着ようが同じに見えるのかもしれないが、こちらだって少しでも可愛く見られたいのだ。肝心なことは口に出そうとしない先輩の本音を読み取るために、今日は徹底的にその言動を観察してやる。
勝手に一人で意気込んでいると、先輩は名前に触られた頬を触りながらへにゃりと笑った。
「ボクもね、知りたいと思ってるんだよ。名前ちゃんのこと」
「……私、特に有益な情報は提供できませんよ?」
「あはは、いいんだよ。ボクがただ知りたいだけなんだから」
先輩はそう言って、オレンジジュースのグラスに入った氷をカラカラと回す。名前の心を置き去りにする先輩の笑顔はやはり綺麗で、不思議な程に切なく映った。