真夏の夜には、不思議なことに理性が隠れんぼをし始めるらしい。麦茶で唇を湿らせた名前は、スマホの向こうで暑さに参っている先輩へ向けてそっとワガママを零した。

「ね、先輩。明日海に行きません?」

一瞬息を呑む音がしたものの、次の瞬間には耳元でふっと笑う声が響いていた。

「いいよ。何時に待ち合わせる?」
「お昼過ぎですかね。私、海辺で夕日が見たいんです。砂浜でのんびり散歩が出来ればいいなって」
「え。泳がなくていいの?」
「んー、先輩に見せられるほど良い身体じゃないので。それはまたの機会に」
「……そ、そっか」
「はい」
「ボクは……、いや。やっぱり何でもない」
「先輩のすけべ」
「ちょっ、何でそうなるの!?」
「冗談です。それじゃ、おやすみなさい」

電話を切った直後、名前は目の前の枕にぼふんと顔を埋めた。余裕そうに装ってはいるが、二人きりで話す時はいつだって緊張してばかりだ。
胸の奥をチリチリと焦がす柔らかな熱は、夏の暑さにやられて更に燃え上がっていく。誤魔化すように携帯を弄ろうとすれば、着信音がピロンと耳を掠めた。やけに焦ったような先輩が、いつになく早口で喋ってくる。

───やっぱり、もっと一緒にいたいからお昼に待ち合わせませんか。十二時頃に迎えに行くから。

勿論異論はないため了承すれば、勢いよく電話を切られた。さっきの一瞬で何があったんだろう、とぼんやりディスプレイを眺めてしまう。
その直後、二人が揃いも揃って枕に顔を埋めたことを知っているのは、夜空に浮かぶ月のみであった。




翌日の午後一時。お昼を済ませた二人は電車に揺られながら、最寄り駅から一時間ほどの場所にある海水浴場を目指していた。購買のおにぎりで一番おいしい具は何か、なんてくだらない話を真面目に議論していれば、移動時間もあっという間に過ぎていく。

夕日が訪れるには少し早い午後四時過ぎ。ビーチサンダルを履いたラフな格好をしつつ、名前は海の家で蒸し暑い日陰を堪能していた。既に海水浴客は帰り始める時間のようで、席には空席が目立ち始めている。かき氷をちまちまと頬張りながら目の前に座る先輩を見詰めると、バッチリと目が合ってしまった。いつも通り、憎たらしい程に綺麗な顔だ。

「先輩、絶対一人にならないでくださいね」
「えっ、何で?」
「夏のギラギラした肉食女子に逆ナンされる先輩を助けられる自信が私には無いからです」
「いやいや、ボクなんか見向きもされないでしょ」
「なら、私の傍にずっといるって約束してくれます?」
「それじゃ名前ちゃんも、ボク以外を見ないって約束してくれる?」
「え」
「……ごめん寒いこと言って。冗談です」

不自然に横たわった沈黙に顔が熱くなる。口の中はキンキンに冷えているのに、それ以外の箇所は火傷をしたかのように燃えたぎっていた。

しかしただ単に羞恥が勝っただけで、決して先輩といる空間が居心地悪いわけではない。黙々と食べる内に心が落ち着いてきたため、名前は完食した後ぼんやりと浜辺を眺めていた。

カランとプラスチックのスプーンが擦れる音がする。先輩も食べ終わったのだろうかと思いつつ視線を外さないでいると、テーブルの上に置いていた左手が絡め取られた。感触を確かめるように掌が重なり、指の腹でそっと甲を撫でられ、互いの指がしっかりと絡み合う。

「せんぱい」
「ん?」
「……何でもないです」
「そっか」
「はい」
「今日、暑いね」
「そうですね」
「名前ちゃん」
「はい?」
「もう少し、このままでいてもいいかな」
「…………はい」

海を包む夕陽は鮮やかで、燃えるような色を湛えていた。地上を呑み込むように広がる赤からは鮮烈な印象を受けるのに、さざめく海を抱きとめるような優しさが滲んでいる。

人気のない砂浜で、名前は先輩と手を繋ぎながらゆったりと歩いていた。サクサクと砂が弾ける小気味よい音を楽しみながら、ぎこちなく重なった体温に思いを馳せる。

「名前ちゃん」
「なんですか、先輩」
「また一緒に来たいね」

先輩の口から未来を望む言葉が零れたことに、名前は何故だか泣きたくなった。ぴんと張り詰めていた心の糸が緩むような安堵感に身を委ねた後、水平線を臨むその横顔を見詰めた。

「約束ですよ」
「うん。約束」

この人の笑顔は、かなしいほどに美しい。