彼が作る、ちょっと焦げたスクランブルエッグが好きだった。どこか気まずそうにしょんぼりしながら、エプロン姿で項垂れる様はなんともいじらしい。
彼渾身の一作にほんのりケチャップを混ぜて、コンソメスープと一緒に口に入れれば、身体の隅々にまで優しい味が広がる。徹夜明けで機械のように凝り固まった肉体に、ささくれだった心に、ふんわりと温かさが沁みていった。

名前は、レフ・ライノールを直属の上司に持つ魔術師だ。現在は主にレイシフトの適合者を確保するための任務を請け負っており、世界各地に局員を配備しつつ時間を問わず業務に追われていた。
今回は魔術師と関わりの無い一般人も招集しなければならない。世界中の砂浜の中から、とびきり上等な星の砂を十個探せと言われているようなものである。

技術者として悠々自適に研究生活を送ってきた名前にとっては、時間も仕事も制限されている現状が何よりも辛い。
だがあまり暗い気分になるのも嫌だったので、暇さえあれば医務室へ通っていた。ロマニの気の抜けた笑顔に癒されたいというのもあったが、彼はいつも大量のお菓子を溜め込んでいるのだ。
サボっているのを密告されたくなかったらよこしなさい。などという半ば脅迫のような台詞にも、ロマニはただヘラヘラと笑って流すだけだった。

生活リズムが似通っているせいか、名前とロマニはよく同じ時間に食堂で顔を合わせた。早朝の誰もいない時間にシャカシャカとフライパンを振る後ろ姿を見かける度、名前は椅子に座ってその様子をじっと眺める。それは子どもが親に褒められるため一生懸命がんばっているようにも、父親が子どものため慣れない料理に奮闘しているようにも見えた。
微笑ましく思いながら、名前も隣に並んでスープを作る。器によそって振る舞うと、ロマニは心底嬉しそうに破顔した。

「ロマニって、食べてる時が一番幸せそうだよね」
「むぐ、……そうかな?」
「うん。いつもの処世術みたいな笑顔より、断然自然な感じ」
「しょ、処世術……」
「あ、気を悪くしたならごめん。誰に対しても平等に接することが出来てて凄いなって意味だったんだけど」
「名前は、素直だよね。いつも的確に物を言ってくれるし」
「正直すぎて痛い目見てるって言いたいんでしょ?」
「あ、いや。そういうことじゃなくて」
「何で焦るの? 私はね、自分のこと結構好きなの。こんな私でも友達になってくれる人はいるし、好きだって言ってくれる人もいるし。だからそれでいいんだ」
「……そっか」
「ロマニはどう? 自分のこと好き?」
「え、ボク? …………あはは、どうかなあ」

ロマニは、情けなく眉を下げてこちらを見遣る。他人の心に容赦なく踏み込むのは名前の悪い癖だ。またやっちゃったなあ、と内心反省しつつ話題を変えても、彼はどこかぼんやりとしていた。

ロマニ・アーキマンは、時折ものすごく寂しそうな顔をする。

レイシフト適合者を無事に全員確保し終えると、名前は従来通り研究に没頭した。それでも、ふとした時に医務室で休憩する日常だけは崩れなかった。崩したくなかった、と言う方が適切かもしれない。

普通の友人として朝食を共にし、おやつを食べ、夜にはお酒を飲みつつ仕事の愚痴を言い合った。時折手が触れ合っては慌てたように顔を赤くする横顔、背後から抱き着いた時に感じる逞しい背中、廊下ですれ違った時に鼻腔を擽る甘い香り。ロマニ・アーキマンを一つ一つ知る度に、胸の奥には擽ったいような、気恥しい想いが芽生えていく。

レフ教授による爆破事故後は、文字通り世界規模の業務を死に物狂いで遂行していった。特異点の解析、黒幕の目的推察、膨大なデータ収集。数少ない局員総出で行う仕事には終わりが無く、ロマニはただ一人の責任者として連日管制室に籠っていたのだ。

特異点の探索が一つ終わる度、名前はロマニを連れ出しては一緒に料理を作った。館内を散歩したり、一緒に昼寝をしたり、顔を突き合わせて魔術礼装の作成案を練ることも多かった。

イベントとして季節の行事を執り行う際は局員全員で酒を呷るのだが、決まって名前は酔い潰れたロマニを部屋まで送り届ける任務を担っていた。
連日の疲労と、苛烈さすら帯びた積年の想いが重なり合ったためだろうか。名前とロマニは、いつの間にかキスやセックスをするまでの仲になっていた。

「ロマニって性欲あったんだね。なんだか意外」

初めて朝を共にした際、ロマニはボサボサの髪を揺らしながらベッドの上で身体を強張らせていた。

「ボクってどんな風に思われてたの?」
「誰のことも愛せない人なんだろうなって。だから抱いてくれて嬉しかったよ。ありがとう」
「……あ、あのさ名前」
「ん? あ、大丈夫。こんなことで彼女面とかしないから安心して」

困ったようにへにゃりと眉が下がっていた顔から、みるみる内に表情が抜け落ちていく。柔らかなペリドットの瞳が翳り、すうと鋭く細まった。

「キミにとっては……こんなこと、なんだ」
「ロマニ?」
「あはは。ボク一人で浮かれて期待して、バカみたいだ」

彼の、割れた硝子のように儚く歪な笑顔に、きゅうと胸の奥が痛む。怖がって本当の気持ちを誤魔化して、結果的に好きな人を傷付けてしまった。肝心な時に素直になれないのだから、本当に自分は大馬鹿者だと思う。

「ねえロマニ。……私、ロマニのこと好きになってもいい?」

恐る恐る振り絞った声は、情けなくも震えていた。二の句が継げず喘ぐ名前の唇に、柔らかな熱が宿る。涙に塗れた二度目の口付けは、きっと一生胸の内に仕舞われていくのだと思った。

ロマニ・アーキマンは嘘が下手だ。
黒幕の正体が明らかになっていく度に翳りを見せる横顔、何かに急かされたようにディスプレイの前で丸まった背中、抱き締める度に強張る指先。予兆はあったのに、名前は彼を信じていつも通りに振る舞った。全てが終わった暁には、ロマニと共に世界を巡れるものだと夢見ていた。



昨日、七つの特異点のその先、ソロモンにより創られた神殿の攻略が完了した。ロマニ・アーキマンの喪失という、カルデアにとって大きすぎる穴を残したまま。

早朝の食堂で、名前は一人シャカシャカとフライパンを振る。ふんわりと明るく色付く卵は我ながら渾身の出来栄えだ。野菜たっぷりのコンソメスープを呷り朝食を終えると、名前は館内をサクサクと歩きロマニの痕跡を辿っていく。
談話室に置かれたアイドルの写真集、アニメ雑誌。ランドリールームの片隅に積み上がった黒い靴下、インナーウェア。給湯室の戸棚に行儀よく置かれたマグカップ、お箸。
脇に抱えた大きい籠に全て放り込んでから、名前は最後にロマニの私室へ足を踏み入れた。
カルデアのマイルームには各部屋ごとに住人登録がなされており、通常は持ち主以外の出入りは許可なく出来ない。だが名前はゲスト登録をしているため、特別にいつでも入退室が可能だった。

生活感の欠片も感じられない、無機質で殺風景な空間だ。一通りぐるりと部屋を見渡してから、名前はベッドの上に紙切れが一枚あるのを発見する。
どうやら、カルデアの研究員に支給されるノートの端を、乱暴に引きちぎったらしい。慌てたように右上がりの文字で綴られていたのは、ただ一つだけ。

───キミのお陰で、自分のことを少しだけ好きになれたよ。

頭をガンと殴られたような衝撃に、名前は膝から崩れ落ちる。すっかり見慣れた小さくて丸い文字は、鋭い槍のように名前の心臓を食い破った。

スタッフ達に、サーヴァント達に、そしてマスターに。ロマニのことでこれ以上傷付いてほしくないからと、名前は一睡もしないままこんな朝早くに館内を歩き回っていた。しかし、本当は自分の心を守るためだったのだ。

嗚咽を漏らさないように、名前は乱暴にベッドへ顔を突っ込んだ。すっかり冷たくなったシーツからは、ほんの僅かだけ残り香を感じる。甘くて優しくて、お日さまみたいな柔らかい香りだ。ロマニの大きな胸に飛び込む度に感じていた彼への想いが、無理やり呼び起こされるようだった。

胸元にシーツを手繰り寄せ、名前はいつかの口付けを思い起こした。

───ボクのこと、好きになってほしいよ。でもね、いつかボクのことを忘れてほしいとも思ってる。
───何、それ?
───あーごめん、訳が分からないこと言ってるよね。冗談だから。……もしもの時だけ、思い出してくれればいいから。

ロマニ・アーキマンは嘘が下手だ。本当は忘れてほしくないくせに。これからの未来を夢見ていた、あの明るく無邪気な横顔が本物だったことくらい、名前にも分かっているのだ。

だからこそ、絶対に忘れてやるもんかと名前は一人息巻く。これから先、一生女々しく覚え続けてやる。愛し続けてみせる。あなたが一生懸命生きていたことを、痕跡を、その奇跡を。幼い子どものようだと指を差されたって構わない。
こんなにも面倒臭い女に愛されたことを後悔したってもう遅いのだ。世界中の誰もがあなたを嘘つきだと責め立てたとしても、しぶとく否定してみせるから。

今はただ、ゆっくりと眠っていてほしい。どんなに時間がかかったとしても、私はあなたに会いに行く。愛に生くよ。

けれど、しばらくスクランブルエッグは食べられそうにない。塩辛いのは、キスだけで充分だった。

ドクター・ロマンに、最大の敬意を。