サザンクロスライダー
東京都港区の一等地。煌びやかなオフィス街の一角に、神楽亜貴のアトリエはあった。
作業場から覗く夜のネオン街は、一人仕事に励む名前を置き去りにするようにその存在を主張している。華やかな夜の街だ。化粧も落ち疲労が顔に滲み出ているであろう今の自分には、あまりにも似つかわしくない場所である。眉間をぐりぐりと指で刺激しながら、名前はパソコンの前で深く息を吐いた。
苗字名前は、二足の草鞋を履く御曹司、神楽亜貴の秘書である。神楽は会社の経営に携わりながらデザイナーとしても活動中のため、どちらの職場にも精通しスケジュール管理を行う橋渡し役は必須だと言えた。
だが入社したばかりの新人を配属したところで結果は見えているし、熟練の秘書を配置する程に重要な役目ではない。そこで、秘書課の中でもそれなりの実績があり小回りが利く人材として名前は抜擢された。
急だったため驚いたが、光栄な話だった。入社してから数年、間接的にしか経営に携わることが出来なかった状況が打破されるのだ。
しかも、担当は有能で容姿端麗だと騒がれていた跡取りである。その仕事ぶりを間近に見れるなんて、大きなチャンスだと思っていた。
「君、そんなことも知らないわけ?」
配属一日目。直属の上司にあたる神楽は、名前を見下ろしながら呆れたように吐き捨てた。
名前は、デザインに関する知識は神楽の下で少しずつ学んでいけばいいと考えていた。秘書としての仕事をこなす上で、最低限の知識さえ持っていれば充分だと。
だが、それは甘い思考だったと痛感してしまう。処理すべき書類には専門用語が多く、単語の意味を調べるだけでも作業効率は落ちた。
忙しそうに目を回すアトリエのスタッフに聞いたものの結局はミスをしてしまい、神楽に叱られることもあった。
国内外問わず人気の高いデザイナーとして、経営の一角を担う経営陣として、神楽の元には毎日ひっきりなしに仕事が舞い込んでくる。
日付が変わってからも職場に籠ることが多い神楽を支えるためには、今までの自分を変えなければならないと知ったのだ。
それからというもの、名前は生地の種類や染色方法、刺繍、人間の骨格、流行の歴史に至るまで、アトリエにあった関連書籍を片っ端から読んだ。雑誌やネットでの情報収集を毎日積極的に行い、スクラップ帳に細かくまとめてみた。
その度に名前は思い知る。神楽亜貴は世界が誇るデザイナーであり、真面目で一生懸命な上司だ。仕事でミスをした人には叱るものの、決して人を貶めることは言わなかった。遠回しながら丁寧にアドバイスをしてくれることも多かった。
誰よりも長くアトリエでの作業をこなし、会社の跡取りとしての業務も手は抜かない。スタッフは全員、そんな神楽の服飾に対する情熱を痛い程に分かっている。
テーブルライトに照らされた姿勢の良い真っ直ぐな背中。デザイン画に向き合っている時の真剣な横顔。一息つくため紅茶を飲んだとき、少し緩む表情。ショー本番前に垣間見える僅かに緊張したような顔。無事に終わった後の、心底嬉しい気持ちを抑え込んだような控えめな笑み。
新しい一面を知る度に、名前は仕事の疲れなど全て吹っ飛ぶような気持ちだった。
現在取り組んでいる製品企画の立案書は、期日に余裕のある案件だ。自分が担当する喫緊の業務も全て終わらせている。
それでも名前が夜遅くまで残っているのは、神楽を一人残しておきたくなかったからだ。
名前の上司は才能がある故に、自分の身体を顧みないことが多い。会社の決算期と大規模なショーが重なった際は、一ヶ月ほどアトリエに泊まり込むことさえあった。
本格的に体調を崩さずとも、神楽は徹夜のため微熱状態になることが多い。秘書としての業務を逸脱しているのは自覚しているものの、名前は一人で努力し続けるばかりの不器用な背中を放っておくなど出来なかったのだ。
「苗字」
背後から自分の名を呼ばれ、名前は文字通り飛び上がった。凝り固まった背中がバキバキと音を立てる。
いくらキャリアウーマンのごとくスーツ姿で残業をしようとも、名前は肝心なところで締まらないのだ。
また呆れられたのだろうと落胆しながら目線を上げると、神楽は意外にも薄く笑っている。
「これから帰るけど、苗字はどうする?」
「はい、一段落したので私も帰ります。まだ終電もあるので」
「何言ってるの、送ってくよ。さっき車呼んだから少し待ってて」
タクシーではなく、運転手付きの自家用車なあたりがさすが御曹司である。遠慮して強引に一人で帰ろうとすればまたネチネチと文句を言われるのは目に見えたため、名前は早々に諦めて従った。
君に何かあれば僕の責任になるでしょ。とそっぽを向かれながら言われた記憶は新しい。こんな草臥れたおばさんなど誰も襲わないとは思うが、口にすれば火に油なので黙っておくことにする。
名前は神楽よりも年上であり、四捨五入すれば三十路になる。そろそろ結婚も視野に入れる時期で、実家からも急かされ始めていた。だが現在、名前は自分の身を削ってまで支えたいと思える人の傍で働けているのだ。出来るなら仕事に集中していたかった。
神楽には縁談も多くきていることだろう。意地悪で我侭な物言いが目立つとはいえ、この容姿に地位に財産だ。二十年後でさえ売れ残っている可能性のある名前とは異なり、引く手あまたに違いない。想像するだけで胸の奥がチリチリと焼けるように痛んだ。
乗車する際、神楽は普段とはうってかわり紳士的にエスコートをしてくれる。掌を取る動作は手慣れており、その澄ました顔を見ていると過去の女性遍歴が垣間見えて複雑な気分だった。
当然のように隣に座る上司を恨めしく思いながら、名前は窓の外に流れる夜の街を眺める。いつもと何ら変わらない、喧騒に満ちた東京。本来ならば、自分も今頃あの中でヒールを引きずりながら帰宅していたのだと思うと、少し不思議な気持ちだった。
「名前」
こちらには一瞥も寄越さないまま、神楽は言った。慌てて応える。いかがなさいましたか、亜貴様。
「その前に、プライベートでもその口調なのやめてくれない」
「プライベート……?」
「職場から離れたんだからもう自由時間でしょ。それとも君、まだ僕に仕事させる気?」
「滅相もないです! 申し訳ございません」
「まあいいけど。……いや、将来的に考えればよくないか」
空気に溶けるような小さな声で紡がれた言葉の意味は、名前にはよく分からない。それを追究できる程の関係でもないため、口を噤んで神楽を見つめた。
「明日、休みでしょ」
「はい。私は特に予定もないのですが、亜貴さんは?」
「僕もない」
「それは良かった。ゆっくりお休みになってくださいね」
「……いや、そうじゃないでしょ」
神楽は不満そうな顔で腕を組んでいる。何か違う言葉をかけた方が良かっただろうか。頭の中の辞書を洗うように次の言葉を考えていると、堪えきれなくなったように神楽が口を切る。
「何で君って、いつも大人しく口説かれてくれないわけ」
「え?」
「……いや、これだとカッコつかないな。今のナシ」
「え!?」
「明日、家まで迎えに行くから。行きたい所考えておいて」
神楽はゆるゆると口角を上げた後、名前の頬にそっと掌を添えた。あまりの急展開に頭が追いつかず、名前は石のように固まっている。
「明日こそ、黙って僕に口説かれてくれる?」
赤くなっているであろう顔を隠すように深く頷いた。すると神楽は、優しく頭を撫でてから名前の指に自らのそれを絡める。かつてない程の距離感に目を白黒させる名前とは対照的に、神楽は何事も無かったように目線を窓の外に投げていた。
「亜貴さん」
「なに」
「私、これからも亜貴さんのお役に立てるよう精一杯頑張ります」
「あっそ」
「はい」
「……期待してる」
「はい!」
その一言は、これ以上ない賛辞だった。うっすらと紅く染まる神楽の顔を横目に、名前は笑う。
明日はとびきりのオシャレをしよう。少しでも、天邪鬼な上司から綺麗だと思ってもらえるように。
作業場から覗く夜のネオン街は、一人仕事に励む名前を置き去りにするようにその存在を主張している。華やかな夜の街だ。化粧も落ち疲労が顔に滲み出ているであろう今の自分には、あまりにも似つかわしくない場所である。眉間をぐりぐりと指で刺激しながら、名前はパソコンの前で深く息を吐いた。
苗字名前は、二足の草鞋を履く御曹司、神楽亜貴の秘書である。神楽は会社の経営に携わりながらデザイナーとしても活動中のため、どちらの職場にも精通しスケジュール管理を行う橋渡し役は必須だと言えた。
だが入社したばかりの新人を配属したところで結果は見えているし、熟練の秘書を配置する程に重要な役目ではない。そこで、秘書課の中でもそれなりの実績があり小回りが利く人材として名前は抜擢された。
急だったため驚いたが、光栄な話だった。入社してから数年、間接的にしか経営に携わることが出来なかった状況が打破されるのだ。
しかも、担当は有能で容姿端麗だと騒がれていた跡取りである。その仕事ぶりを間近に見れるなんて、大きなチャンスだと思っていた。
「君、そんなことも知らないわけ?」
配属一日目。直属の上司にあたる神楽は、名前を見下ろしながら呆れたように吐き捨てた。
名前は、デザインに関する知識は神楽の下で少しずつ学んでいけばいいと考えていた。秘書としての仕事をこなす上で、最低限の知識さえ持っていれば充分だと。
だが、それは甘い思考だったと痛感してしまう。処理すべき書類には専門用語が多く、単語の意味を調べるだけでも作業効率は落ちた。
忙しそうに目を回すアトリエのスタッフに聞いたものの結局はミスをしてしまい、神楽に叱られることもあった。
国内外問わず人気の高いデザイナーとして、経営の一角を担う経営陣として、神楽の元には毎日ひっきりなしに仕事が舞い込んでくる。
日付が変わってからも職場に籠ることが多い神楽を支えるためには、今までの自分を変えなければならないと知ったのだ。
それからというもの、名前は生地の種類や染色方法、刺繍、人間の骨格、流行の歴史に至るまで、アトリエにあった関連書籍を片っ端から読んだ。雑誌やネットでの情報収集を毎日積極的に行い、スクラップ帳に細かくまとめてみた。
その度に名前は思い知る。神楽亜貴は世界が誇るデザイナーであり、真面目で一生懸命な上司だ。仕事でミスをした人には叱るものの、決して人を貶めることは言わなかった。遠回しながら丁寧にアドバイスをしてくれることも多かった。
誰よりも長くアトリエでの作業をこなし、会社の跡取りとしての業務も手は抜かない。スタッフは全員、そんな神楽の服飾に対する情熱を痛い程に分かっている。
テーブルライトに照らされた姿勢の良い真っ直ぐな背中。デザイン画に向き合っている時の真剣な横顔。一息つくため紅茶を飲んだとき、少し緩む表情。ショー本番前に垣間見える僅かに緊張したような顔。無事に終わった後の、心底嬉しい気持ちを抑え込んだような控えめな笑み。
新しい一面を知る度に、名前は仕事の疲れなど全て吹っ飛ぶような気持ちだった。
現在取り組んでいる製品企画の立案書は、期日に余裕のある案件だ。自分が担当する喫緊の業務も全て終わらせている。
それでも名前が夜遅くまで残っているのは、神楽を一人残しておきたくなかったからだ。
名前の上司は才能がある故に、自分の身体を顧みないことが多い。会社の決算期と大規模なショーが重なった際は、一ヶ月ほどアトリエに泊まり込むことさえあった。
本格的に体調を崩さずとも、神楽は徹夜のため微熱状態になることが多い。秘書としての業務を逸脱しているのは自覚しているものの、名前は一人で努力し続けるばかりの不器用な背中を放っておくなど出来なかったのだ。
「苗字」
背後から自分の名を呼ばれ、名前は文字通り飛び上がった。凝り固まった背中がバキバキと音を立てる。
いくらキャリアウーマンのごとくスーツ姿で残業をしようとも、名前は肝心なところで締まらないのだ。
また呆れられたのだろうと落胆しながら目線を上げると、神楽は意外にも薄く笑っている。
「これから帰るけど、苗字はどうする?」
「はい、一段落したので私も帰ります。まだ終電もあるので」
「何言ってるの、送ってくよ。さっき車呼んだから少し待ってて」
タクシーではなく、運転手付きの自家用車なあたりがさすが御曹司である。遠慮して強引に一人で帰ろうとすればまたネチネチと文句を言われるのは目に見えたため、名前は早々に諦めて従った。
君に何かあれば僕の責任になるでしょ。とそっぽを向かれながら言われた記憶は新しい。こんな草臥れたおばさんなど誰も襲わないとは思うが、口にすれば火に油なので黙っておくことにする。
名前は神楽よりも年上であり、四捨五入すれば三十路になる。そろそろ結婚も視野に入れる時期で、実家からも急かされ始めていた。だが現在、名前は自分の身を削ってまで支えたいと思える人の傍で働けているのだ。出来るなら仕事に集中していたかった。
神楽には縁談も多くきていることだろう。意地悪で我侭な物言いが目立つとはいえ、この容姿に地位に財産だ。二十年後でさえ売れ残っている可能性のある名前とは異なり、引く手あまたに違いない。想像するだけで胸の奥がチリチリと焼けるように痛んだ。
乗車する際、神楽は普段とはうってかわり紳士的にエスコートをしてくれる。掌を取る動作は手慣れており、その澄ました顔を見ていると過去の女性遍歴が垣間見えて複雑な気分だった。
当然のように隣に座る上司を恨めしく思いながら、名前は窓の外に流れる夜の街を眺める。いつもと何ら変わらない、喧騒に満ちた東京。本来ならば、自分も今頃あの中でヒールを引きずりながら帰宅していたのだと思うと、少し不思議な気持ちだった。
「名前」
こちらには一瞥も寄越さないまま、神楽は言った。慌てて応える。いかがなさいましたか、亜貴様。
「その前に、プライベートでもその口調なのやめてくれない」
「プライベート……?」
「職場から離れたんだからもう自由時間でしょ。それとも君、まだ僕に仕事させる気?」
「滅相もないです! 申し訳ございません」
「まあいいけど。……いや、将来的に考えればよくないか」
空気に溶けるような小さな声で紡がれた言葉の意味は、名前にはよく分からない。それを追究できる程の関係でもないため、口を噤んで神楽を見つめた。
「明日、休みでしょ」
「はい。私は特に予定もないのですが、亜貴さんは?」
「僕もない」
「それは良かった。ゆっくりお休みになってくださいね」
「……いや、そうじゃないでしょ」
神楽は不満そうな顔で腕を組んでいる。何か違う言葉をかけた方が良かっただろうか。頭の中の辞書を洗うように次の言葉を考えていると、堪えきれなくなったように神楽が口を切る。
「何で君って、いつも大人しく口説かれてくれないわけ」
「え?」
「……いや、これだとカッコつかないな。今のナシ」
「え!?」
「明日、家まで迎えに行くから。行きたい所考えておいて」
神楽はゆるゆると口角を上げた後、名前の頬にそっと掌を添えた。あまりの急展開に頭が追いつかず、名前は石のように固まっている。
「明日こそ、黙って僕に口説かれてくれる?」
赤くなっているであろう顔を隠すように深く頷いた。すると神楽は、優しく頭を撫でてから名前の指に自らのそれを絡める。かつてない程の距離感に目を白黒させる名前とは対照的に、神楽は何事も無かったように目線を窓の外に投げていた。
「亜貴さん」
「なに」
「私、これからも亜貴さんのお役に立てるよう精一杯頑張ります」
「あっそ」
「はい」
「……期待してる」
「はい!」
その一言は、これ以上ない賛辞だった。うっすらと紅く染まる神楽の顔を横目に、名前は笑う。
明日はとびきりのオシャレをしよう。少しでも、天邪鬼な上司から綺麗だと思ってもらえるように。