真冬のパリ、シャルル・ド・ゴール空港。搭乗口を抜けた先にある待合室では、激しい吹雪に立ち往生する人で溢れ返っていた。

神楽が乗る筈だった便の搭乗予定時刻はとうに過ぎ去っており、頭上のディスプレイには無情にも全面運休の文字が踊っている。神楽は溜め息を吐き、暇を持て余すように手元のデザイン画へ目線を落とした。

神楽がデザイナーとして海外のショーに招待されるのは珍しいことではない。特に芸術の街が多く点在するヨーロッパにはよく訪問しており、中でもパリは最も馴染み深い場所だと言えた。
だが、アスファルトさえも凍る程の雪に遭遇するのは初めてだった。共に情報屋───Revelとして活動する幼馴染みとメールを交わしつつ、神楽はひっそりと溜め息を吐く。

幸いなことに焦眉の仕事はないため、帰国が遅れることは問題ではない。
頭の中に浮かぶデザインを形にする時間は、いくらあっても足りないくらいだ。暖房のきいた部屋でスケッチブックに向かい合えるならば文句はなかった。

一つ懸念があるとすれば、人を揶揄うことを喜びとするRevelの同僚くらいだろうか。ただでさえ秘書と二人きりで出張に行くことを揶揄されたのだ。宿泊日数が伸びたことを知られれば、更に面倒な事態になるだろう。

浮かんだ予想を振り払うべく視線を巡らせていると、カウンターで係員と会話をする秘書の後ろ姿を探し当てる。
長蛇の列がいくつも伸びる中、どうやら名前は無事に目的を果たせたらしい。しっかりとした足取りで神楽の元へ戻ってきたが、その表情は不思議と浮かないものだった。

「亜貴様、ホテルが取れました。いつもお使いになられている施設よりはグレードが落ちてしまったのですが」
「そう。なら早速行くよ。タクシー拾うのにも時間かかるだろうし」
「はい。ですが、あの」
「何?」
「……申し訳ございません。一部屋しか確保できませんでした」
「……は?」
「私は空港に留まりますので、亜貴様は明日までごゆっくりお休みください。状況が動き次第ご連絡致します」
「いや待って。君バカなの?」

一瞬浮遊した心が急激に冷めていく。心底不思議そうな顔で首を傾げる名前の顔を、神楽はキッと睨み付けた。
いつだって職務を第一に考える秘書の姿勢は嫌いではないが、自分を顧みないところは苛立たしくもある。

「この僕に、女の子を一人で置き去りにして悠々とホテルで過ごせと?」
「効率を考えると最適かと。亜貴様も、私が傍にいると気が散ってしまうでしょう?」
「君だけを残していく方が気になって仕方ないんだけど。そもそも、そんなに狭い部屋なの?」
「ダブルのお部屋ですので、多少の余裕はございます。ですが亜貴様にとっては少々狭く感じられるかもしれません。それに……」

珍しく言い淀んだ名前は、僅かばかり顔を赤くさせている。その姿だけで絆されそうになるが、神楽はぐっと堪えて更に視線を鋭くさせた。

「何か問題でもあるわけ?」
「……エクストラベッドが用意できないと言われてしまいまして。ダブルベッドが一つしかなく、ソファーも無いとのことなのですが」

神楽の頭は瞬時に状況を理解する。すなわち、ホテルに泊まる場合は嫌でも同じベッドで眠らなければならないということだ。神楽は床で寝るなど論外だと考えるし、名前にそれを強いることも絶対にしない。

「……行くよ」
「え?」
「ホテル。早く暖まりたいんだけど」

神楽は顔の熱を冷ますように足早に歩いていく。慌てたように追いかけてくる声を背にしばらく進んだが、一向に追いつかないため名前を振り返った。ヒールを鳴らしながらスーツケースを引きずる腕を掴み、そのまま荷物を取り上げる。

「亜貴様、私が持ちますので……!」
「ねえ名前。もう仕事は終わったんだけど」
「上司の体調管理も私の仕事です。少なくとも、ホテルへ送り届けるまでは業務だと認識しています」
「自分も同じ部屋に泊まるのに今更だけどね。まあいいや。着いたら容赦しないから」

神楽にとって、名前は既にただの他人ではなかった。上司として敬われるだけでは満足できない。男として頼ってほしかったのだ。

恥じらうように俯いた名前を見て、神楽もまたそっぽを向いた。







思ったより悪くないが、良くもない。神楽は部屋をぐるりと見渡しながら思う。
成人二人が寝ても余裕のあるダブルベッド、ランプが備えつけられた木製のテーブル、窓辺に二つ向かい合うように並んだ椅子。シャワールームは少し狭いが、一晩を過ごすだけならば問題ないだろう。

「亜貴様、夕食はルームサービスでも宜しいですか」
「……名前」

神楽に言外に咎められ、ようやく自分の発言を振り返ったらしい。ハッと気付いたように瞬きを繰り返した後、名前は恥ずかしそうに目を伏せる。

「……その、亜貴さん」
「そうじゃないでしょ」
「あ、……亜貴くん?」
「はい、よくできました」

すっかり冷え切った身体を抱き寄せると、名前は腕の中で石のように固まった。熱を分け与えるように頭を撫で、髪を梳き、腰を抱く。
他人行儀な態度を取られ密かにささくれ立っていた心が、ゆるゆると本来の形を取り戻していった。だがそんな素振りなど見せず、仕返しとばかりに神楽は名前の首筋に顔を埋める。心臓を擽られるような甘い香りがした。

「わ!?」
「うん、少しは暖まってきたんじゃない?」
「は、はい。ですので亜貴くんはお先にシャワーをどうぞ」
「……まあいいや。すぐ浴びてくるから、その口調なんとかしておいて」

名前から手渡された着替えを持ち、神楽は一人シャワールームへ向かった。熱い湯で身体を洗い流していると、胸の奥が更に熱く燻っていく。

この状況に対して、名前は拒絶の意思を示していない。そのことに柄にもなく安堵していた。

元々、神楽が半ば強引に名前を口説き落として始まった交際である。仕事以外で二人きりになる時間など殆ど無かったため、正直なところ距離をはかりかねていたのだ。

「おかえりなさい、亜貴くん」

タオルで髪を乾かしつつ戻った神楽を、名前は窓辺の椅子に座りながら出迎える。その堅苦しいスーツ姿には微塵も隙がない。

「ただいま。名前も入ってくれば?」
「は、……うん。そうするね」

名前はぎこちなく笑ってから、そそくさとバスルームへ入っていった。
神楽はそれを見送った後、乱暴な動作でベッドに腰を下ろす。Revelの他のメンバーとは気楽に話していたくせに、と悪態をついてしまいたくなった。

「……僕相手だと、そんなに話しにくいわけ」

御曹司、デザイナー、情報屋。神楽は三つの肩書きを持つため、秘書である名前も各職場に連れて行くことが多い。当然Revelの面々にも引き合わせてあるわけだが、名前は予想以上にその場に馴染んでいた。

彼女は、神楽が被るべき泥は全て自分が被ると豪語する程の女だ。どんな相手だろうが物怖じせず、柔らかな物腰で会話を自然と誘導していく姿を何度も見てきた。

日本屈指の御曹司集団と称されるRevelだが、中身は神楽の身内が三人いるだけである。取引先とのミーティングや社内の企画会議において積極的に意見を述べられる名前からすれば、むしろ気兼ねなく話せる場だったらしい。
特に同い年の羽鳥とはすぐに打ち解けたようで、珍しく声を上げて笑っていたのを覚えている。

困った顔も笑った顔も真剣な表情も全て、自分にだけ向けていればいいのに。そんなことを思ってばかりいるから、神楽は名前の心を完全に掴みきれていないのだろうか。

一人きりの部屋に溜め息を零した瞬間、突如温かい空気がベッドまで流れ込んだ。シャンプーの香りが鼻を擽り、心臓に甘い痺れが走る。

「……待たせてごめんね?」

どことなく気まずそうに俯くバスローブ姿の名前を、神楽は無言で腕の中に閉じ込める。案の定、緊張したように息を詰まらせた秘書は観念したように息を零した。神楽の背中に、恐る恐る腕が回っていく。

「亜貴くん」

意を決したような顔で名前が神楽を見上げた瞬間、コンコンという上品なノックの音が響いた。二人とも咄嗟に距離を置き、ドアに目を向ける。
状況的に見て、ルームサービスが届いたのだろう。何ともタイミングが悪いと苦笑しつつ、名前と顔を見合わせた。

いつのまにか、強ばっていた空気が緩んでいく。くすくすと笑う名前を見て、神楽もまた口角を上げた。緊張の色は滲んでいるものの、名前が確かに笑ってくれている。それだけで充分だった。

その後の夕食では、実に穏やかな時間が流れていく。幼い頃から世界各地を飛び回っていた神楽の旅行体験や、名前の学生時代の話題が次々と華を咲かせた。

神楽は、誰であろうと必要以上に干渉されるのを好まない。だからこそ他人にあまり踏み込むことをしない名前の性格を好いていたし、プライベートであっても出来る限り共に過ごしていたいと思っていた。
だが、名前は些か慎重すぎるところがある。引き際を心得すぎているのか、プライベートの時間でさえも弱味を見せてはくれないのだ。そのことを寂しいと思えど、上手く伝える術を神楽は知らなかった。

「ええと、……亜貴くん」
「ん?」
「ごめんね。こんな事態じゃなければ、美味しいワインでも頼んだんだけど」
「別にいいよ。明日は朝一で空港行くつもりでしょ? 僕も付いていくから」
「でも……」
「一緒に行動した方が効率的でしょ。それに、僕は少しでも君といたいんだけど」
「そ、……それはとても光栄です」

眠る支度をするために洗面所へ行くという名前を引き留め、神楽は流れるようにその肩を抱き、慈しむようにそっと口付ける。
好きな女と一晩同じベッドで過ごすことを強いられるのだから、これくらいは大目に見てほしい。首筋まで真っ赤にしてながらすっ飛んでいく名前を見て、神楽は一人穏やかに笑った。



薄暗い部屋の中に、ぼんやりとベッドサイドのランプが浮かぶ。目覚ましをセットし終えたらしい名前は、そろそろとベッドに潜り込んだ。

「名前、おいで」

言うと同時に、有無を言わさず抱き寄せる。まっすぐな背中にびったりと胸を寄せ、名前の柔らかい髪に唇を落とした。
お互いの顔が見えない体勢にしたのは正解だと神楽は思う。自分が情けない顔をしている自覚はあった。

「今日はごめんなさい」

くぐもったような声が下から響いてくる。先を促すように頭を撫でると、名前はゆっくりと神楽に身体を預けてきた。

「私、きっと亜貴くんの気持ちを理解しきれずに困らせたよね」
「……別に」
「うそ」
「何でそんなこと分かるわけ?」
「この一年ずっと、あなたのことばかり見ていたから。あなたの役に立ちたくて、毎日亜貴くんのことばかり考えてたから。分かるよ」

名前の声も身体も心もすべてを閉じ込めるように、神楽は抱き締める腕の力を強くする。

「なら、僕が今なに考えてるか分かる?」
「ええと。眠いな、とか?」
「何でここでその回答なの」
「ご、ごめんなさい。少しくらい、亜貴くんに弱音を吐いてほしいなと思った私の勝手な願望です」
「……恋人の前でくらいカッコつけさせてよ」
「亜貴くんは何してても素敵だから大丈夫なのに」
「なにそれ。……盲目すぎるんじゃないの」
「だって、好きだから。仕方ないじゃないですか」
「また敬語」

真っ赤に熟れた耳にキスを落とし、神楽は喉の奥で笑った。

「君が好きだよ」
「……え?」
「そう思ってた」
「…………ずるい」
「名前には負けるけどね」

今回、大きな仕事を終えて安心したのもあるのだろう。神楽は驚くほど素直に自身の心情を吐露していた。
弱音を吐いてほしいと名前は言うが、神楽は充分彼女に甘えている。

普通の恋人のように戯れるこの時間は心地好いが、そろそろ眠らなければならない時間に差し掛かっていた。神楽は彼女の同意を得てから、腕を伸ばして枕元のランプを消す。

「名前、おやすみ」
「おやすみなさい、亜貴くん」

真っ暗になった部屋の中、神楽は腕の中の熱を噛み締めるように瞳を閉じた。微睡み始めた頭が、ぼんやりと明るい夢を映し出す。

いつか、二人きりで旅行をしよう。神楽のコーディネートで彼女を着飾って、二人の好きな場所に行って、またこうして一緒に眠って。ワガママを言うのがとびきり下手な名前を、思う存分甘やかしてみたいと思った。

神楽は知らなかったのだ。おやすみというたった一言の挨拶が、これ程までに特別で愛おしいものであるということを。