レンガ造りの大きなお屋敷は、想像通り荘厳な雰囲気を帯びていた。
柵から覗く庭園には赤いダリアや紫のサルビアが噴水のように広がり、冬の足音が聞こえ始めた時期にもかかわらず心が華やいでいく。あの庭は彼女の趣味だろうか。貴族らしい気品をたたえながらも純真な心を持つ彼女には、やはり花が似合うと思った。

ベーカー街の我が家にも小さなベランダはあるものの、上手く活用しきれず持て余している状態だった。ホームズくんは植物の知識はあっても世話には興味がないし、御琴羽くんは勉学に捜査にその他諸々いつも忙しそうにしている。
彼女からアドバイスを貰って何か植えてみるのも良いかもしれない、等と思索を巡らしつつ、改めて巨大なお屋敷を見上げる。
大英帝国の中でも名門中の名門貴族であり、司法界における正義のシンボルとも言われるバンジークス家。
誰よりも規律を重んじているであろう彼らが、身分や人種によって他者を選別せずにこうして家に招き入れてくれた。改めて、その事実がとんでもなく奇跡的だと実感する。

「ナマエ・ミョウジ様ですね。奥様からお話は伺っております」

ベルを鳴らしてしばらく経った頃、門の前に迎えに来てくれたのはメイド服の女性だった。恭しく頭を下げてはくれたものの、その顔に薄らと浮かぶ侮蔑の色につい苦笑してしまう。
英国貴族の常識に照らし合わせるならば、本来この態度が普通なのだ。たとえ仕える主に指示されたとはいえ、出自も知れない異国の女に親切にする必要などない。
だからこそ、ベリル・バンジークスのように初対面の人間にあそこまで穏やかに対応できる方が不思議なのだ。元は身分の低い出なのかと密かに推測していたのだが、どうやら嫁ぐ前も名門貴族だったらしいので疑問は深まるばかりだった。
せめて彼女の顔に泥を塗らないように、出来る限り綺麗なクイーンズ・イングリッシュとお辞儀を意識する。

「お手数をおかけしてしまい大変申し訳ございません。本日はお招き頂き、誠に恐悦に存じます」
「……いえ。ではご案内いたしますわ」

意外そうに幾度か瞬いた後、きびきびとこちらを先導するように歩き出す。失格の烙印を押されずに済んだことに安堵しつつ屋敷の扉をくぐり抜けた後、宮殿のような装飾に満ちた廊下を歩んでいく。
慣れないドレスを纏っているためどうしても歩きづらく感じてしまうが、グレグソンさんのアドバイスを取り入れた甲斐もあって服装に関しても及第点のようだった。

窓枠やカーテンを何気なく見ただけで、職人技が施された王冠やサーベルと目が合った。分野は違えどジェームズさんを彷彿とさせる技術力だ。バンジークス家ならば国内でも一流の職人を抜擢している筈だから、やはりサザーランド工房の品々もまた一流だと断言できるだろう。
打算的かもしれないが、バンジークス家と良好な関係を築いておけば後々の役に立つかもしれない。
だが彼女の助けになりたいと思った気持ちは本物だったし、ジェームズさんの利益になるよう振る舞いたい思いも不純なだけではなかった。

「奥様、お客様をお連れ致しました」
「どうぞお入りになって」

華美な扉の奥から、柔らかくも凛とした声がする。やはり彼女も貴族なのだと痛感しつつ背筋を伸ばせば、出迎えてくれたのは穏やかな笑顔だった。

「ナマエさん、ようこそバンジークス家へ」

アザレアを思わせる美しい髪がふわりと揺れる。肌寒い季節なのに春の香りがするようで、わたしも自然と微笑んでいた。
思いのほか身体が強張っていたことを自覚して、無意識の内に緊張していたことを認識する。
こちらも挨拶を返しながら部屋に入れば、メイドが深々と頭を下げた後に入れ違いで出ていく。見下すような視線から解放されたこともあってか、ようやく楽に呼吸できるような気がした。

「お招きいただき光栄です。ベリル様」
「あら! わたくし、プライベートで貴女に媚へつらわれるのは嫌よ」

彼女をどのように呼ぶべきか、実はこの一週間悩んでいた。いくら本人が気にしないといっても、大英帝国は身分によって人を区別する国だ。実際にバンジークス家にわたしを疎む目があるとすれば、彼女の不利益になるような言動は出来る限り避けたかった。

郷に入っては郷に従えwhen in rome do as the romans doとも言いますし。こうしてお招き頂いた身としては、英国文化に従うのが道理かなと」
「けれど貴女は日本人よ。英国の流儀を尊重した上で、日本の文化も重んじて良い筈だわ。違うかしら?」
「……はい、仰る通りです。無理に自分を押し殺す必要もないとは思っているので」
「なら教えて頂戴! 日本の女の子のお友達同士は、一体どのような呼び方をされるの?」
「そうですね……。一般的には、敬称として『ちゃん』付けをするでしょうか」
「ナマエちゃん、ね。可愛らしいわ。是非とも私のこともベリルちゃんと呼んでくださいな」

何の躊躇いもなく、彼女はわたしの手を取ってたおやかに微笑んだ。予想外の提案につい唖然としてしまい、ただただ瞬きを繰り返す。
瑞々しく柔らかなグリーンの瞳が、わたしをそっと見つめていた。雪解けの季節に芽吹いた草花を思わせる優しい色だった。

ホームズくんと共に出かけたあの日、わたしは何故彼女の助けになりたいと考えたのか。今になって改めて考えてしまう。
気品溢れる佇まいから貴族だと推測できたし、手を差し伸べても拒絶される可能性だってあった。しかし彼女は本気で困っている様子だったのだ。
倫敦は世界一発展した都市のため雰囲気は華やかだが、街ゆく人が皆生き急いでいるような都会特有の焦燥感にも満ちている。そんな街にたった一人取り残されて、誰にも頼ることが出来ずに途方に暮れている姿は、決して他人事ではなかった。

一年前、わたしには手を差し伸べてくれた人たちがいた。何の見返りもないのに、こんな厄介者の世話をしてくれた無償の優しさに救われた。彼らに憧れたから、わたしに価値なんて全く無いという自虐的な思考にヒビを入れてもらったから、わたしも然るべき時に誰かに優しく出来る人間になりたかった。

けれど、単純にそれだけではないような気もした。わたしはあの瞬間、確かに目の前の女性に目を奪われていた。壊れたガラスを大切な宝物のように見つめる姿が、とても美しいと感じた。ある種の一目惚れだったのかもしれない。
もしすげなく扱われても手を差し伸べたいと、この国に来て初めて思えた瞬間だった。だから今、彼女に聞いておきたいことがあったのだ。

「……何故そこまで、わたしを対等に扱ってくださるんですか?」
「まあ。最初に手を差し伸べてくれたのは貴女でしょう? どんな思惑があったとしても、私はナマエちゃんの優しさに感銘を受けたんだもの」
「わたしが、打算があってバンジークス家に近付いたとしても?」
「人には多かれ少なかれ打算はあると思うけれど。……そうね、それは私に見る目がなかっただけの話だわ。そうでしょう?」

決して勝ち負けの話ではないのに、純粋に負けたと思った。単に純真無垢なだけでなく、彼女は彼女自身の価値観でわたしという人間に向き合おうとしてくれている。

「ありがとう。───ベリルちゃん」

花が綻ぶようにふわりと笑う彼女の顔を、わたしは一生忘れることはないだろうと思った。
これから十年以上続くことになる、苗字名前とベリル・バンジークスの友情が、密やかに確実に萌芽した瞬間だった。



ワイングラスを披露すれば、予想通り彼女は大喜びしてくれた。わたしも誇らしくてつい満開の笑顔を眺めてしまう。ジェームズさんへの最高のお土産が出来て嬉しかった。
旦那さんへプレゼントするのはまた後日とのことで、その様子もぜひ報告したいと提案してくれた。次に会う約束が自然と交わせたことが幸せだと思う。

「そろそろ時間もちょうど良いわ。ナマエちゃん、行きましょう」
「え、一体どこへ?」

既に目的を終えたため帰ろうとしたのだが、彼女の手のひらが優美に差し出される。失礼にならないように反射的に自分の手を重ねれば、ますます嬉しそうに微笑まれた。状況を理解しきれずに首を傾げてしまう。

「我が家のお茶会にご招待するわ」

導かれるがままに到着したのは、庭園の脇に設置されたテーブルセットだった。
グリーンを基調としながら、色とりどりの小花柄があしらわれた細工が美しい。純白のテーブルクロスも眩しく、ゴールドワーク刺繍───王室でよく使われる、金と銀の糸で紡がれる精密な刺繍だ───で彩られたふちも麗しく優雅だった。
テーブルに鎮座する三段のスタンドでは、スイーツやケーキ、フィッシュアンドチップスやサンドイッチが慎ましく顔を出している。
まさに本場のアフタヌーンティーという風格で、内心大はしゃぎしてしまった。顔には出さないように堪えていると、背後から軽やかな足音が複数聞こえてくる。

振り返れば、英国人と日本人の男性が歩いていた。
まず印象的なのは、やはり優雅なオーラを纏った英国人の美丈夫だ。品があるだけでなく貴族としての貫禄も感じられる。白いシャツの上に軽くジャケットを羽織った姿が随分と様になっていた。
オールバックになったラベンダー色の髪は目に優しく、彼女のアザレア色と並ぶと心が自然と華やいだ。
彼こそが大英帝国の司法界を代表する検事───クリムト・バンジークスなのだろう。

「すまない、待たせてしまっただろうか」
「いいえ。まるで私達を観察していたかのようにピッタリのタイミングだわ」
「これは失礼した。そちらのレディにもお詫びを。気分を害してしまったなら申し訳ない」

切れ長のブルーアイがこちらを見定めるように向けられた。恐らくわたしは今、試されている。当然、完全に信用された訳ではないとは思っていたけれど。
クリムト氏は英国貴族の当主なのだから、家を守るために他人を疑うことも立派な仕事の内だ。恐らく、わたしに不満を持つメイドを差し向けたのも彼なのだろう。
どのように返すのが正解かは分からないが、少なくとも彼と敵対するような関係は望んでいない。自分の持つ知識を総動員して、最上級の礼儀を示してみせよう。
ドレスの裾を持ち上げながら、ゆったりとお辞儀をする。

「とんでもございません、バンジークスさま。わたしのような得体の知れない人間を敷地に招いてくださったのです。感謝こそすれ、謝罪を求めるなど致しません」
「……いや、ご自分を卑下なさる必要はありませんよ、レディ。私も、妻から貴女について話を聞いた上でお招きすることを決めたのです。どうか顔を上げてください」

光栄です、と返事をしてから改めて視線を重ねる。先程より僅かに穏やかな色を宿していた。
しかし安堵したのも束の間、目の前でわたしを庇うように現れた彼女の後ろ姿から、鋭い声が発せられる。

「クリムトさま、ナマエちゃんをあまり怖がらせないでくださいな」
「ナマエちゃん……?」
「日本における婦女子同士の呼び方だな。まさか英国で聞くことになるとは思わなかったが」

さっぱりとした低い声が、愉快そうに会話に入ってくる。驚いて声の主を辿ると、先程見かけた日本人の男性が凛々しい顔で仁王立ちをしていた。黒い長髪を後ろで結う様はまさに日本男児の風格で、スーツも大変お似合いだった。

「御琴羽から話は聞いている。大日本帝国より刑事として派遣された亜双義玄真だ。よろしく頼む」
「こちらもお噂はかねがね。カリグラフィー作家として活動している苗字名前と申します。よろしくお願いいたします」

がっちりと握手を交わす。硬くて大きな掌の皮は分厚く、剣を握る者の気配が滲み出ていた。驚く程に力強く鋭い気配を帯びた男性だと感じたものの、冷たさよりもむしろ熱さに圧倒されそうだった。
御琴羽くんが言うところの『正義感が強くて誠実な熱い男』という表現がまさしくピッタリである。

「良い手だな」
「え……?」
「物を書く人間の手をしている。ここまで指にタコをこさえた女子に出会うのは初めてだ。相当勉学に励んでいなければ、ここまでにはならないだろう」
「……ッ、ありがとうございます。亜双義さん」

いや、と満足そうに笑む顔を見つめ返す。礼儀を弁え観察眼も鋭く、初対面の相手を立てる品性もある。そんな男性なんて、今までは柔和に微笑むルームメイトしか知らなかったのに。じわりと熱い感情が胸に沁みていく。

「ほら、クリムトさま! ナマエちゃんに謝ってくださるかしら」

変わらず怒った様子の彼女を見て、つい慌ててしまう。せっかくワイングラスを持参したのに、自分が原因で夫婦仲を裂くようなことはしたくなかった。

「ベ、ベリルちゃん。こればかりはお互い様だから謝罪は必要ないよ、ね? せっかくだからケーキも早く食べた方が美味しいよ?」
「む、確かにその通りだわ。……お客様をお待たせしてはいけないものね」
「ミス・ナマエ、妻の言うことも尤もだ。本当に申し訳ない」
「とんでもございません。クリムト様はご自身の役目を果たされただけですから。それに、むしろわたしは嬉しかったんです」
「え……?」

一体何故、とご夫婦ふたりして首を傾げる。アザレアとラベンダーが示し合わせたように共に揺れる光景は美しく、わたしは微笑みながら二人の背後にある庭の草花を手のひらで指し示した。

たとえ己の出自が蔑まれても、どれだけ人から疑われても、わたしには目の前の風景を美しいと感じられる心を持っていた。

「バンジークス家の庭園は、とても美しいでしょう?」

たとえば、と続けて口を開いていく。
赤く華々しく咲き誇るダリア、しなやかに佇む紫のサルビアは秋頃に見頃を迎える花だ。
この後ティータイムを楽しむテーブルセットで顔を覗かせているのは、黄色く慎ましいウィンター・アコナイトや真っ白いスノードロップだろう。名前からも分かるように冬に咲く花々だ。
そして、目の前で可憐に揺れるアザレアは春の訪れを想起させ、豊かな色彩で夏を彩るラベンダーはしっかりと根を下ろしてこの家を守っている。

四季は、日本文化の根底にある侘び寂びの概念を如実に投影していた。それぞれの季節が表現する儚く柔らかい栄枯盛衰を感じながら、こんな風に英国にてアフタヌーンティーを嗜めるとは思わなかったから、と。わたしは心からそう言った。

「故郷をこんなにも……穏やかに思い出せる機会を頂けて、感謝しているんです」

約一年前、わたしは血のように赤い朝日を浴びながら英国にやって来た。
未だに自分のことを好きになるのは難しいと感じるけれど、以前よりはずっと自分に向き合えるようになった。かつての過去に触れるキッカケともなる日本の気配を感じても、こうして落ち着いて笑っていられる。
その事実を今日、改めて実感することが出来た。

しかしさすがに自分語りが過ぎただろうか、と反省してしまう。新聞社の仕事で季節のコラムを担当した経験や、事件捜査のために植物図鑑をよく家で広げるルームメイト達の影響で、草花の知識は以前に比べて格段に蓄積されるばかりだったから。
思考を巡らせるのはここまでにして、話をまとめるべく改めて唇を開く。

「わたしが貴族でない日本人だったから、門の前で庭園をゆっくりと眺められた。それは間違いなく今の自分に必要な経験で、だからこそお二人の美しさをより一層味わうことが出来たと思うんです。なのでこの御礼も自己満足になってしまうのかもしれませんが。───ベリルちゃん、クリムトさま、ありがとうございます」

今度は日本式に掌を膝の前で重ねてから、深々とお辞儀をする。

「……ミス・ナマエ。改めて無礼な態度をしてしまったお詫びと、私からも心からのお礼を申し上げたい」

ゆったりと顔を上げてから、彼の柔らかな顔つきと声に驚いてしまう。
もしも、規律と身分を何よりも重んじる司法界の検事さまが、初対面の異国人に対して壁を取り払ってくれたのだとしたら。今日は信じられない程の奇跡に恵まれてばかりだった。

「私の妻と友人になってくれて、ありがとう」

差し出された掌にわたしも手を重ねて、春の陽射しのように優しい握手を交わす。
その背後で、ベリルちゃんが笑っていた。亜双義さんが満足そうに見守っていた。何よりも、クリムトさんが何のしがらみも無い無邪気な笑顔を見せていた。

十年以上の時を経ても尚、わたしは、この瞬間よりも美しい庭園の風景を知ることはなかった。