突如として放り出された街の中は、微かに湿った秋の空気で満ちていた。

足を踏み出すごとに背骨が軋むように痛むのは、数週間にわたる入院生活による影響だろうか。傷は塞がっていると御琴羽さんからお墨付きをもらったものの、大きな怪我だったため跡は残ったらしい。

心底申し訳なさそうに告げられた事実だったが、今のわたしには残念に思う気持ちなど欠片も湧かなかった。自分に対する愛着など微塵もなかった。
一歩引いてこちらを見つめていたホームズさんには、そんな心情もお見通しだったのかもしれない。

ぼんやりと数日前を振り返りつつ、街中を優雅に歩く紳士淑女に目を遣る。
女性はコルセットとドレスが標準装備の時代だから、煌びやかな見た目の通り動きづらそうだ。
そもそも着飾ることに慣れておらず、ワンピースでさえ落ち着かない身からすれば、たとえ異質だったとしても英国紳士達のスーツスタイルが羨ましかった。
隣で先導してくれる御琴羽さんの格好なんてまさに理想的だ。

「何か気になるものでもありますか?」
「ええと、皆さんの格好が素敵で羨ましいなと思いまして」
「いつか婦人服のお店にも連れて行きますよ」
「そこまでして頂くわけには! わたし、どちらかというとスーツの方が着たいんですよね」
「え」
「華美な服装が少し苦手で。サイズの合うスーツがあるといいんですけど」
「あるとは思いますが……、いやはや。なら今度一緒に見に行きましょうか」
「ありがとうございます。あ、その前に就職先を見つけないといけないのは分かっているんですけど」
「ああ、その話ですか。ホームズの煽りを気にしすぎると体に毒ですよ」

涼しい顔からさらりと飛び出た台詞につい驚いてしまう。当の本人は研究と捜査のために今日も外を飛び回っているらしいから、街中で話題に挙げても問題ないとは思うけれど、なんとなく落ち着かない。

「あれ、煽りだったんですか……?」
「この言い方が適切かどうかは悩むところですが。ホームズなりに発破をかけようとしたんですから、煽りと言っても差し支えないでしょう」
「ホームズさんの優しさって、なんというか……随分と分かりにくいですよね」
「普通なら、あれを優しさと解釈することも難しいですから。貴女なら分かってくれると思ったんじゃないですかね」
「それは、買い被りな気がします」

死にかけの状態を救ってくれた上に経済力皆無な人間の世話まで引き受けてくれたのだから、迷惑をかけた罪悪感こそあれ自惚れる隙など全くない。さすがにない。
それでも御琴羽さんは、初めて会った時から柔和な笑みを何度も送ってくれる。方向性は違えど二つの優しさを享受し続ける今、どうすればこれ以上負担をかけずに済むのか考えるだけで精一杯だった。

「まあ、これもあくまで私の勘ですから。話半分で聞いてくださって構いませんよ」
「は、はい」
「これからはルームメイトになりますし、そこまで畏まらなくても良いですから」
「お気遣いありがとうございます。善処します」
「くれぐれも無理はしないでくださいね」

御琴羽さんこそ随分と畏まっているとは思うけれど、それを指摘できる程に身勝手なつもりはない。

緩やかに言葉を交わしつつ、わたしは恩返しの材料を探すために視線をあちこちへと向けた。
手っ取り早い方法ならば───身体を売るという選択肢もあるだろうが、傷を負った身体で目標を達成出来るとも思えない。何も覚悟できていない異国人が成し遂げられるとも思えない。
未知の世界で生きるための答えを見つけ出すには、人としての経験値があまりにも不足していることを痛感するばかりだった。

ホームズさん程の頭脳を得ることは無理でも、せめて御琴羽さんのような専門的な技術を持っていれば。
努力さえもしてこなかった身で考えることではないだろうが、微かな希望はそこにあるような気がした。

「私は嬉しいんですよ。まさか、異国の地で同郷の方に出逢えるとは思っていなかったので」
「そう言って頂けると、……わたしも救われます」

海外旅行が身近になった現代と異なり、海の向こうへ渡るにはえらく苦労する時代だ。
政府に選ばれた留学生であるらしい御琴羽さんは、国のために勉強する程の強い覚悟を持っている。わたしには与り知らないことだが、留学のために様々なものを犠牲にしてきたのかもしれない。

想像するだけで自分の矮小さを痛感し、羞恥のあまり燃え尽きてしまいたくなる。
しかし恩を返すまでは泣き言を吐いてしまう訳にもいかず、ぐっと息を止めた。
自己嫌悪による負の言葉がぼろぼろと零れてしまわぬように、不格好な笑顔の底に醜い心を沈めていく。

「御琴羽さんは頼りがいがあって、優しくて、歳上なのは納得するんですけど」
「褒めすぎですよ」
「ホームズさんがわたしより歳下という事実だけは、未だに飲み込めないんですよね」
「まあ、ホームズはああ見えて無鉄砲ですからね」
「無鉄砲、ですか……」
「ええ。怖いもの知らずで真っ直ぐで、正直羨ましいですから。危うさを感じる時もあるので心配もしているんですけどね」

二人が出会ってから一年ほどしか経っていないと聞いていたものの、積み重ねた時間の濃密さが窺えた。
年齢の差や価値観の違いを何もかも乗り越えた、対等な友情で相手を思い遣っているのだろう。
素敵だなあと素直に思う。わたしには手が届かないからこそ美しく感じるのかもしれないけれど。

「だから名前さんにはぜひ、ホームズのことを見ていてほしいんですよ」

予想外過ぎる言葉に、思考も足も止まってしまう。
連られて立ち止まった御琴羽さんは、ゆるりとこちらを振り返って宥めるように微笑んだ。

視界の片隅で、紅葉した木が何枚か葉を落としていく。
地面に吸い込まれていく黄色い影が、不思議とホームズさんの髪を想起させた。

倫敦は明るく煌びやかで素敵な街である一方、わたしを刺した悪意の塊のような人々も潜んでいる。
階級差や貧富の差が根強いため犯罪の温床としての側面も持つことは、現代で学んだ知識だった。
実際に殺意に遭遇したのだから、いつまでもこの地と無関係を貫くことは出来ないだろう。

透き通る秋の空気を肺いっぱいに吸い込んで、ぐずぐずと後ろ向きになりがちな頭を冷やしていく。
未来のルームメイトへ何と返事をしようか。少しだけ浮き立った胸が、秋天の下でそっと煌めいたような気がした。