倫敦に冬がやって来た。霧に愛された街が雪で凍れば、単なる住宅地もいたく幻想的に見える。

日本の冬は空も空気も澄んでいて、呼吸する度に肺が透き通っていくような気がしていた。あの頃はそのまま溶けて消えてしまいたいと考えていたけれど、今はただ遠く懐かしく感じられる。
もう二度と還れない故郷を緩やかに振り返りながら、産業革命により急速に発展した街並みを馬車の中から見詰めていた。物乞いやスリの子どもを見かけることも珍しくなく、何とも言葉にできない歯がゆい気持ちを押し殺すばかりだった。

イーストエンドの工房に通うようになって以降、改めて痛感したことがあった。大英帝国の影には数多の国民達の苦難が潜んでいて、いつ何がキッカケで爆発してもおかしくない。
最近ホームズくんがひっきりなしに殺人事件の捜査に出向いているのも、彼らの負の感情が着々と蓄積されていることの証明である気がしてならなかった。地位も財力もなく日々の生活にも困り、社会に反抗するため犯罪に手を染めるしかない程に追い詰められている人が、既に手遅れになるほど増えているのではないかと。

いくら世界の名探偵といえども、他人の負の感情を浴び続けて健全な精神が保てる訳もないと思っていた。何よりホームズくんは、とてもやさしいから。
人の感情を全て理解した上で受け止められるだけの度量があることなど分かっているけれど、もうすぐ成人を迎える男の子であるのもまた事実だった。
本人は相変わらず飄々としているし、御琴羽くんが傍についているから大きな問題は起きないかもしれない。
けれど、わたしでさえ気付いていた。ふとした瞬間に、後ろ姿や横顔に暗い影が差す瞬間が増えていることを。視線が合えばそれは瞬時に霧散するし、時折夜中のお喋りにも付き合ってくれるのも以前と変わらない。

彼の心を全て明かしてもらいたい等とは夢にも思わないが、何か出来ることはないだろうかとは常に考えていた。
命を救ってもらったルームメイトとして。「自由に在ればいい」と背中を押してもらった恩返しとして。未来ある青年の心を守るべき大人として。

馬車を降り、ホームズくんお手製の手袋で両手を擦り合わせながら工房へと向かう。
鍵を使い扉を開けて、商品棚を抜けた先にある作業場のドアを数回ノックした。返事はなくとも問題はないので、身体をするりと滑り込ませながらジェームズさんの背中を探す。
部屋の隅にあるテーブルの前で何やら書類を捲っていた。窯での作業中でないことを確認して、迷惑にならない程度の声量で声をかける。

「おはようございます!」
「……おはよう」

礼儀はしっかりした人なので、挨拶は欠かさずに返してくれる。ジェームズさんの律儀なところが好きだった。コートを脱いでから身支度を整えて、窯で作業するための準備を進めていく。
なし崩し的に弟子入りしてから二ヶ月近く経つのだから、さすがに作品制作にも慣れてきた。当然ながら師匠には遠く及ばないし、売り物になるような物は作れないが、実用性のあるカップやグラスは形になりつつあった。今まさに作りたいものにも着手できるだろう。

「……それはあのガキにやるのか?」
「え?」

反省のために試作品を観察していると、唐突に声をかけられた。ジェームズさんと共通の知人と言えば、この工房に唯一共にやって来たことのあるホームズくんだろう。将来的には名のある名探偵になる筈なのに、と苦笑しつつも頷いた。

「そうです。彼の成人祝いにルームメイトの一人がパイプを贈ると言うので。ならわたしは灰皿を、と思いまして」
「闇雲に練習するよりは、目的があった方が上達するのは確かだな。プレゼントにするなら尚更だ」
「だと良いんですが……。年が明けてからすぐ贈るので、もっと練習します。ご指導よろしくお願いします!」

明らかに面倒臭そうに顔を歪めながらも、何だかんだ世話焼きなひとだから的確なアドバイスをくれるだろう。メモ用のノートとペンを取り出しながら、わたしはその日も夕方まで灰皿作りの練習を重ねていた。



大英帝国では、クリスマスを予想以上に盛大にお祝いすると知ったのはつい昨年のことだ。仲の良い友人は当然のこと、名前を知るだけの顔見知りにさえプレゼントを配る文化は日本には無かったものである。
ツリーやケーキの準備をしたり部屋を飾り付けたりするのは楽しくて、つい子どものようにはしゃいでしまったけれど。
去年まではこじんまりとした規模だったから大きな不安は無かった。しかし今年に限っては、英国貴族の方々に贈るものを準備しなければならないためえらく悩んでしまうのだ。

「……ナマエさん?」

散策とプレゼント選びを兼ねて大通りを歩いていると、聞き慣れた声がした。バンジークス家の面々と個人的な親交もある、英国紳士の概念を詰め込んだような男性───グレグソンさんだった。
襟を立てたコートを颯爽と羽織る姿はさすが様になっていて、つい感動してしまう。澄んだグレーアイには白いベールに包まれた倫敦の冬が似合っていた。

「こんにちは、グレグソンさん。お仕事中ですか?」
「ご丁寧にどうも。いえ、今日はプライベートです。そろそろサンタクロースの仕事が始まるでしょうから、私も準備をしないといけません」

ユーモアも洗練されていて、親しみやすさもある。いつだって客観的な事実と理屈をこねくり回すルームメイトとは方向性の違う聡明さがあった。
自然な流れで共に歩きつつ、ウィンドウショッピングも兼ねて周囲を見回していく。

「わたしも同じ状況です。特に今年は、バンジークス家の皆さんに何を贈れば良いのか悩んでいまして……」
「ああ、なるほど。ですがあのお二人なら、ナマエさんのプレゼントなら何でも喜ぶと思いますがね」
「……そうでしょうか」
「要は気持ちですから。……私も、ナマエさんから頂ける物なら何でも嬉しいですよ」

レディファーストを体現したような紳士さだ。改めて感動してしまう。警察というお仕事柄もあるだろうが、人が困っていれば手を差し伸べてくれる誠実さが眩しくて、それを真正面から受け取るのは未だに少し気恥ずかしい。
仕事先の斡旋をしてもらったり、バンジークス家に訪問する前のマナーについて教わったり、時折お茶をしてわたしの気晴らしに付き合ってくれたりと、グレグソンさんには頭が上がらなかった。お礼として渡すクリスマスプレゼントも熟慮しなければ。ひっそりと決意を固める。

「それでもお悩みになるようでしたら、ナマエさんならではの贈り物にしたらいかがでしょう?」
「わたしならでは、というと……カリグラフィーの紙をプレゼントするか、職業柄触れる機会が多い文房具を贈るか、ですかね」
「ええ、素晴らしい! 良いアイデアです」
「確かに、クリムトさんは筆圧の強い方なので羽根ペンも摩耗しがちみたいですし。ベリルちゃんも、便箋は集めても筆記具にはこだわりが無いみたいなんです。ご迷惑にはならないかもしれません」

最近恒例になりつつあるバンジークス家でのお茶会にて収集した情報を思い返して、アイデアを固めていく。難しく考えすぎなくとも、わたしらしく選べば良いというアドバイスは実に的確だった。
改めて感謝の念を積み重ねていると、隣でふっと柔らかく笑っているような気配がした。見れば、グレグソンさんがクスクスとはにかんでいる。

「ナマエさんはいつも、何か行動される時は相手のことを気遣っていますよね」
「それは……臆病なんだと思います。以前よりはマシになったんですが、人に不快な思いをさせたくなくて」
「けれど、お好きなものに対する情熱はお持ちだ。先日掲載されていた雑誌の広告も素晴らしかったです」
「ありがとうございます……! ご紹介してくださったグレグソンのお陰です」
「チャンスをご自分で掴み取ったのはナマエさんでしょう。……と、また堂々巡りですね。最近、工房での作品製作の調子はいかがですか」

話題の変え方もスマートで感心しつつ、自分の中で熱中していることに関する話なのでつい顔も綻んでしまう。

「まだまだ拙いですが、楽しくやれているので順調かなと。もっと技術があればクリスマスプレゼントも自分で作れたら、と思っていたんですが……」
「それは素敵ですね。今後はやはりグラスを中心に製作されるんですか?」
「……あー、実は。文房具作りにもチャレンジしたいんです。ペンやインク瓶や、他にも色々なものをガラスで作ってみたいなと。どこまで出来るかは分からないんですが、今の自分の可能性を試してみたくて」

これは密かに温めていた考えで、ジェームズさんにさえ話したことは無かった。実現できるか分からない夢を語るより前に手を動かせ、と言われるのは目に見えている。
ベーカー街は最早自宅なので職場の話はあまり持ち込むつもりがなかったし、バンジークス家では趣味の話題が花を咲かせがちなので、自分の野望をわざわざ口にする機会も無かった。しかし、わたしの仕事を見守り応援してくれるグレグソンさんにならば、自然と胸の内を明かしてみようと思えるから。

「わたしが自分の夢を持てるようになったのも、グレグソンさんのお陰なんですよ」
「……私の?」

珍しくきょとんとした顔で見つめられて、ついクスクスと笑ってしまう。わたしの気持ちを最もよく知るのはわたしだから、ちゃんと言葉にしないと人には伝わらないのだ。

「グレグソンさんは、わたしと同年代なのに国のために職務を全うされていますよね。大英帝国の治安を守るために、安全を脅かす存在を取り締まるために。どんな雑務でもこなして、倫敦市民の日常生活を見守っている。何より、ご自分の仕事に誇りを持っていらっしゃる」
「それは……仰る通りですね。私は、スコットランドヤードであることにプライドを持っていますので」
「躊躇いもなく、わたしのような一市民にも断言してくださるでしょう? それが羨ましくて、何より憧れたんです。わたしにも自信を持って名乗れる肩書きと成果が欲しいなって」

私立探偵として事件の謎を追いかけるホームズくんのように。留学生の医者として人々の健康を支える御琴羽くんのように。
貴族として厳しい規律を守りながら誰にでも穏やかに笑いかけるベリルちゃんや、高貴な血筋を持つ検事として第一線で活躍するクリムトさん、異国の警察に所属しながら日本の未来にも思いを馳せる亜双義さん。
今まで出会ってきた全ての人から刺激を受けているものの、グレグソンさんの謹厳実直な姿勢は唯一無二のものだと感じていた。

馬車で移動していると、時折グレグソンさんを見かけることがあった。どんな時も生真面目な顔で事件に向き合う姿は凛としていて、たとえ被害者の身分が低くとも差別せずに捜査を進めるという情報も───ホームズくん伝いではあるけれど───得ていた。

「グレグソンさん。わたしの憧れでいてくれて、いつもわたし達を守ってくれて、本当にありがとうございます」

立ち止まって深々と頭を下げる。表情は分からなかったけれど、珍しく沈黙が落ちたため、こちらの言葉を丁寧に受け取ってくれたであろうことは分かった。

「……少々気恥ずかしいですね。ナマエさんは既に充分ご立派だと思いますが」
「ありがとうございます。わたし、自分で思っているより貪欲で欲張りだったみたいです」
「とても素晴らしいと思いますよ。心から応援していますし、もしお力になれることがあればいつでも声をかけてください」

改めて力強くお礼を伝えてから、再びウィンドウショッピングを再開していく。お陰様でプレゼントのアイデアも固まったため、必要な買い物はその日の内に全て済んでしまった。
グレグソンさんには頭が上がらないなあと、何度も実感するばかりであった。



そして、いよいよやって来たクリスマス当日。ルームメイト達には直接個室を訪ねてプレゼントを渡すことにしたため、まずは最も通い慣れた扉の前にやって来た。
こんこん、とノックをすれば「どうぞ」と僅かに遅れて返ってくる。寝起き特有の気怠い声だった。また夜遅くまで実験に明け暮れていたのだろうか。

気を取り直して、ドアノブを握ってから慎重に開け放つ。
ベッドサイドに座りながらこちらを見つめる彼の瞳はややぼんやりとしていて、ナイトガウンから覗く意外と分厚い胸板に一瞬どきりとしてしまう。
夜中に会う時は灯りもつけないし、見慣れない姿を目にして動揺してしまったのだろうと結論づけて、用意していた笑顔と言葉を手向けた。

「ホームズくん、メリークリスマス!」
「ああ、メリークリスマス」

疲れていそうだし、あまり長居するのは良くないだろうとプレゼントだけ先に手渡した。そんな様子を察したのか、ホームズくんは首をぐるぐると回してから改めてこちらに向き直る。

「ナマエ、今ここで開けても?」
「うん、どうぞ」

箱の底に沈むのは、ほんの小さなイエローアンバーがついた羽根ペンだ。予算的にも程良く誰もが使用する消耗品ということで、今年のクリスマスは大部分を統一してしまったのだ。デザインもオシャレで一目惚れした逸品である。
そのぶん誕生日プレゼントは頑張るから許してほしい、と内心思いながら立っていると、ホームズくんがやけに静かなのが気になった。共に過ごしていても静寂しかないことは珍しくないものの、こうして用事があって顔を合わせている時は真っ先に口を開いてくれる男の子なのに。

「……これは、琥珀アンバーか」
「そう、綺麗だしホームズくんの髪の色に似てるなと思って。……ごめん、もしかして気に入らなかった?」
「いや。ただ……なんでもない。ボクからはこれを」

その言葉の先が気にならなかった訳では無いものの、贈ってもらった箱の中身に心を奪われてしまった。

「まさか、フランスから輸入された新作のインク瓶!?」
「さすがに一目で分かるか。ダークブルーがキミの髪の色に似ていると感じてね」
「……わたしたち、同じ理由でプレゼントを選んだんだ」
「そうみたいだ」

最近ではよく見るようになった穏やかな笑顔を見つめつつ、幸せに満ちた胸から気持ちが零れ落ちないように、箱をそっと大切に抱き締める。

「ありがとう、ホームズくん。大切に使わせてもらうね」
「ボクもさっそく活用させてもらう。ミコトバの部屋にも行くんだろう? 早く向かった方が良い」
「あ、そうだね。それじゃまたあとで!」

ひらひらと大きな掌に見送られた後、御琴羽くんにも同じように、ブラウンのトルマリンがついた羽根ペンを手渡した。選定理由はホームズくんと同様、相手の髪の色を連想してのことだった。
いつもながら柔和に微笑みながら喜んでくれた友人に対して、ようやく頭の片隅に舞い戻った疑問を投げかけることにした。
明快な論理を大切にする探偵が僅かでも口篭る様子は、どうしても印象に残ってしまう。

「そういえば、さっきホームズくんに琥珀付きのペンを渡したら少し微妙な反応をされたんだよね……」
「ホームズが? ……はは、なるほど。恐らく戸惑ったんでしょうね。何も知らないあなたと自分の気持ちに」
「え!? 琥珀に不吉な意味って無かったよね?」
「もちろん。むしろ逆です」

珍しく無邪気に笑いを噛み殺す御琴羽くんは、緩やかに目を細めながら解説してくれた。

「欧州において琥珀は、相手に幸運を贈るという意味で、恋人にプレゼントする風習があるとか」

無知とは何より恐ろしいと痛感した、倫敦で過ごす二年目の冬のことだった。