「ホームズ、彼女のことは一体どうするつもりなんです?」
「キミにしては随分と抽象的な問いかけだな、ミコトバ」

こちらの意図など分かっているくせに、と内心悪態をつきながら御琴羽は腕を組んだ。
年下ながら聡明で不器用な友人は、痛いところを突かれただろうに表情ひとつ変えなかった。
ホームズは口八丁手八丁な男だが、真に大事なことは最後の最後まで胸の内にひた隠す男だ。端から分かりやすい反応など期待していなかったし、むしろ無反応であることこそが何よりの答えである気がしてならなかった。

事件の捜査を終えて帰宅する途中の馬車であっても、一度ひとたびベーカー街221Bの扉を開ければ、彼女が明るい笑顔で出迎えてくれる様は容易に想像がつく。それだけ三人での生活が日常になったことの証左だ。
喜ばしいことである筈なのに、どことなく後ろめたい気持ちがあるのも事実だった。その理由は分かっているが、これ以上友人を問い詰めたら自分の後ろ暗さにも向き合う結果となるだろう。
しかし一人の大人として、友人たちの力になりたい気持ちは純粋なものだった。

「なら別に答えなくていい。ただ、自覚しているんですか?」
「何を」
「あなたが彼女を見つめる時に、どんな顔をしているのか」
「……さて、どうだろうね」

ホームズは表情を隠すように窓の外を向いてしまう。その先にはきっと、彼女にしか引き出せない顔があるのだろうと思った。
たとえば、食事の準備をする背中を盗み見るように。食卓で深く噛み締めながら美味しそうに食べる姿を横目で確認するように。作品製作に関して悩む横顔をそっとおもんばかるように。ソファーでうたた寝をする身体に無言でブランケットをかけるように。
日常の狭間のほんの僅かなひと時、無意識に目を奪われているのか意図的なのか、ホームズも非常に人間らしくあどけない顔をすることがあった。

その様は微笑ましかったし、特段驚くようなことでも無かった。御琴羽には恐らくそうなるだろうという予感があったからだ。
ホームズの歯に衣着せぬ物言いを優しさだと称した彼女の精神は、常に退屈そうに謎を暴く友人とはきっと相性が良いだろうと。
彼の科学や事件に対する飽くなき探究心は、愛情の欠落による精神的な飢えによるものではないかと御琴羽はひっそりと分析していた。
人より頭脳明晰な彼の心の器はきっと想像よりもずっと大きく、唯一自力で満たせる知的好奇心もそれ相応の謎と実験を重ねなければならない。
しかし本当に必要なのは、恐らくそういった無機質なものではなかった。たった一つの友情だけで埋めきれるものでもなかった。

他でもない自分を真っ直ぐに慈しんでくれる、見返りのない無償の愛。感謝と尊敬を土壌にして育て上げた、未だに彼女自身は名前をつけていない優しい感情。
ホームズは日々の何気ない生活の中で数多くのそれを受け取り、戸惑いながらも心の奥に仕舞い込み、己の精神的な変化についてじっと考え込んでいるようだった。
あくまでも御琴羽は、彼らの関係に口を出すつもりは無かった。二人とも繊細すぎるため進展には時間がかかるだろうし、外野がとやかく言うべき事柄でもないからだ。

だが一点、どうしても気になることがあった。───シャーロック・ホームズは、苗字名前にたった一つの嘘をついている。
御琴羽はその事実を知っているから、ホームズが必要以上に遠慮しているように見えてならなかったのだ。

「彼女の強さはあなたが誰よりも知っているでしょう。ホームズ」
「それは勿論」

視線を窓に投げたまま返ってきた軽やかな言葉に、つい眉を上げる。
ホームズは誤魔化すために明るく返事をしたのではなく、他でもない彼女が褒められたから声が僅かに弾んだのだろうと察してしまったから。
かつて妻を人から賞賛された時の自分にひどく似ているように思えて、それ以上言葉を重ねることが出来なくなってしまった。
石畳に差し掛かった馬車の車輪がガタガタと激しい音を立てたものだから、自然と会話も中断する。その後も途切れた会話が繋がることはなく、不自然なくらいの沈黙が落ちるばかりだった。



「……御琴羽くん?」

ハッと、闇の底から引き上げられたような気持ちになる。自らの行いを懺悔するように、御琴羽は真夜中のソファーで項垂れていた。
ここはホームズと彼女が時間を重ねる場所でもあるから、普段は既に自室に引きこもっている筈だったのに。

「すみません、占領してしまって。私はそろそろ部屋に戻った方が……」
「わたし達の家なんだから謝る必要はないよ。それに何となく、まだ戻りたくなさそうな顔をしているけど」
「それは……」

いつもならば咄嗟にどうとでも言い繕える筈なのに、今日はつい口が重たくなってしまう。
彼女はこちらの様子を窺うように緩く瞳を緩めつつ、努めて明るい声を出しているようだった。

「言い淀むならYesってことだ。御琴羽くんが一人になりたいなら、わたしが戻った方がいいかな?」
「いえ。……このまま一人でいたら、一層気分が沈んでしまいそうで」
「なら有難くお隣に。ハーブティーを淹れようと思うんだけど、一緒に飲む?」
「もし良ければ、ぜひ」
「了解。少し待っててね」

ゆったりと微笑んでから、慣れたようにキッチンに向かっていく。出会った頃に比べると、彼女はとても笑顔が明るくなった。誰のお陰かは言うまでもなく、彼らは互いに良い影響を与え合っているのだろうと改めて理解してしまう。
だからこそホームズは、……そして今の御琴羽は、彼女に対して後ろ暗さを感じてしまうのだろう。

「お待たせ」
「ありがとう」

熱すぎない程よい温度のハーブティーが、強張っていた身体をそっと緩めてくれた。無意識の内に力が入っていたようだとようやく気付く。
その間も彼女は手元を見つめながらお茶を飲み、こちらに深入りする気はないようだった。珍しい姿を晒していると自覚しているものの、事情を探るような視線は全く向けられない。

彼女は謙遜はするものの、やはり聡明で思い遣りがあり、誰にでも平等に接する懐の深い女性だと思った。だからこそ普段は浮かばない思考も絶えず去来する。……彼女の精神性が、ふとした瞬間に妻を想起させてならないと。
ホームズを通じて彼女を初めて見た時、胸に浮かんだのは諦念だった。
亡き妻と実の娘から逃げるように留学した先で、まさか艶やかな黒髪の女性を目にするとは思いもしなかったから。
彼女の存在はきっと、自分に対する戒めなのだと理解してしまった。妻の死から逃げて、産まれたばかりの娘を祖国に置いてきた父親失格の自分に対して、罪を自覚するように促しているのだと。

テーブルにティーカップを置いた後、深く息を吸ってから吐き出していく。
彼女にも妻にも娘にも失礼な思考をしていると理解しているのに、一度闇に浸かった頭は底の見えない深淵に沈んでいくばかりだった。

「そういえば今日ね、バンジークス家でお茶をしてきたんだけど」

軽やかに切り出された柔らかな声が耳に届き、慌てて何でもないような顔を取り繕った。

「もうすっかり恒例のお茶会ですね。今回も二人きりで?」
「ううん、それがね。クリムトさんと亜双義さんも途中から参加してくれたの。そこで予想外のハプニングが起きちゃって」
「ハプニング?」
「亜双義さんがね、紅茶に砂糖と間違えてお塩を入れちゃったの。それも大量に」
「…………へ?」
「ベリルちゃんと、お茶会が終わったらお料理しようって約束していたこともあって、色々な調味料をテーブルの上に並べていたのね。お砂糖はわたし達の前にだけ置いていて、後で使う予定のお塩や油は端に避けた状態だったんだけど、……偶然その場所に、亜双義さんが座っちゃって」
「……先の展開が読めますね」
「でしょ? 気付いた時には思いっきり亜双義さんがせてるし、クリムトさんもベリルちゃんも珍しいって笑うばかりだし。わたしは申し訳なさすぎて、すぐ口直しの紅茶を淹れ直そうとしたんだけど。お恥ずかしながら、慌てていたから思いっきり転んじゃって」

御琴羽は想像する。亜双義も彼女も真面目な質だから、その後は互いに深々と頭を下げながら存分に謝罪し合って、最後には笑顔で事を終えたのだろう。
祖国の未来のために、そして何より息子のために日々気を張りながら努力する亜双義が、まさか異国の地でそんな情けない姿を見せただなんて。あまりにも微笑ましい出来事につい口元が緩み、自然と笑い声が漏れた。

「あはは。亜双義、凄い顔をしていたでしょう」
「それはもう。……あ、でも実は御琴羽くんには内緒にしてって言われてから、ここだけの話で」
「分かりました。極力秘密にしておくということで」

互いに人差し指を立てて、唇の前に添えながら笑い合う。
たとえ冗談混じりの口約束であろうと、彼女が人との約束を守り抜く性格であることを御琴羽は知っていた。
きっと今の自分はそれ程までに酷い顔をしていて、彼女は御琴羽を信頼した上で笑わせようとしてくれたのだろう。
決して勝ち負けの話ではないのに、完敗だと思った。ここで彼女の誠実さに応えなければ、日本男児の端くれとしてあまりにも情けない。

「……私の話も、少しだけ聞いてもらえますか。かなり個人的な上に、暗くて重たい話題になってしまいますが」
「うん、もちろん」
「ありがとう。一体どこから話せばいいのか」

御琴羽は天を仰いだ。何も誤魔化す必要はない。
いつだって人にも自分にも真っ直ぐぶつかっていく彼女に対して、下手に取り繕う必要なんて本来なかったのだ。

「実は留学の直前、私は大切な家族を亡くしたんです。娘を産んでくれたばかりの妻でした」
「……そうだったんだね。心からお悔やみ申し上げます」

深々と頭を下げてくれた彼女に向けて、御琴羽もまた同じく心からの礼を返した。ぴったりと揃えた両手を膝に添えながら腰を折り続ける様からは、凛とした空気さえ漂っている。
……決して容姿が似ている訳ではないのに、在りし日の面影を求めてしまう自分はなんと愚かなのだろう。

「娘を母に預けて、私は逃げるように大英帝国にやって来ました。だからずっと……妻にも娘にも、後ろめたい気持ちがあって」

ようやく顔を上げた彼女は、御琴羽の言葉を受けてきょとんと目を丸くする。

「留学を決めたのは、御琴羽くん自身の意思だったんだよね?」
「それは勿論! 慈獄から誘われたのがキッカケではありましたが、倫敦で学ぶことを決めたのは私自身です。偶然直前に不幸が重なっただけで」
「ならきっと、奥様も娘さんも御琴羽くんを誇りに思っているだろうね」
「……赤ん坊の子どもを放って、自分のために国を飛び出した父親を?」
「ずっと傍にいることだけが親としての愛情なのかな。価値観は人それぞれだけれど、わたしはそう思わないよ」

真っ直ぐな彼女の瞳が、狼狽える御琴羽の視線をそっと絡め取る。自分の思考と意志に確固たる自信を持ち、芯のある情熱を秘めた目だと思った。

「親と時間を共に過ごすことで苦しむ子供もいるって、わたしは知っているから」
「……確かに、少し視野が狭くなっていたのかもしれません。私の選択は逃げではない、と言うんですね」
「物理的に距離を置くことと、相手に向き合うことから逃避する行為は全くの別物だよ。たとえば御琴羽くん、わたしが勉学に励んでも仕事をしても工房に通っていても、それを馬鹿にしたりしないでしょう?」
「当然じゃないですか」
「それがね、当然じゃないんだな。日本人の女であることを理由に理不尽に責められたことなんて、今の仕事を始めてから何回もあるよ」
「それは……、私も同じ日本人でルームメイトだから」
「同じ国に生まれたからって分かり合えるとは限らないし、一緒に住んでいるから衝突してしまうこともある。それが人間っていう生き物だよ。人が人を想う気持ちには全て価値があって優劣なんて無いし、物理的な距離なんて関係ない」

紛うことなき正論が、今の御琴羽には何よりも痛かった。
ついに彼女と目を合わせられなくなって、自らの膝に視線を落とす。掌を重ねて指を絡め、腹の底から湧き上がる真っ暗な感情を必死に塞き止めようとした。

「……頭では理解しているんです。私は単に言い訳を探しているだけだって。まだ……喪った痛みを乗り越えられていないから、こうして友人相手にも建設的でないことばかり口にしてしまう」
「そうだね。御琴羽くんは、わたしに慰められることなんて求めてないよね。きっと、父親失格だって罵られたいんだろうなって感じた」
「……ッ」
「自分の欠点に徹底的に向き合って苦しみ抜いて、自己嫌悪して自らの言葉で自分を貶め抜いて。それでも足りないから、わたしに自分を攻撃するよう求めているのかなって」
「……随分と耳が痛いですね」
「ふふ、ごめんね。本当は、御琴羽くんにもっと寄り添ってあげた方が良いのかもしれないけど。わたしはもう、自分の心に嘘をつくことなんて出来なくなっちゃったから」

月明かりのように優しく笑う顔には、御琴羽の身の内に巣食う闇を見守るような風格さえあった。無理に他者の闇を炙り出そうとはせず、ただ傍で見つめて慈しむような柔らかな空気を帯びている。
言い回しや会話の論理展開はホームズのようだとさえ感じるのに、受ける印象はまるで異なるのだから不思議だった。

「わたしもそうだし、多分ホームズくんも……今の御琴羽くんと同じ。自分で自分を傷付けがちな人間だから。御琴羽くんは立派だよ。自分に対する攻撃性を決して他人に向けないから」
「それはあなたも同じでしょう?」
「他人に向けない、という点ではね。わたしはほら。自分に対する攻撃性が強くて……生きることにも後ろ向きすぎたから」

確かに出会ったばかりの頃、彼女は自分の命に対してひどく無頓着なようだった。何者かに刃物で刺されたというのに悲しみや苦しみを一切見せず、犯人を気にする素振りもなく、傷跡が残る事実にさえ恨み言のひとつも口にしなかった。
無理して気丈に振る舞っている訳ではなく本気で興味が無いように見えて、当時は不思議であったのだが。

「だからね、気持ちは分かるんだ。心の傷って目に見えないから自覚できないんだよね。自分で自分を痛めつけて、傷跡を抉って混ぜっ返して突き刺して、それでようやく自分はここで生きているんだって安心できる時ってあるの。……わたしは皆のお陰で、前よりはマシになったけれど」

彼女は眩しいくらいに笑う。今まで一体どれほど自分の傷に向き合い、自らそれを乗り越えてきたのだろうか。強い女性だと思った。
友人として心底自分を思い遣ってくれる気持ちを感じて、腹の底からじわりと柔らかな感情が迫り上がってくる。

「……そうですね、その通りだ。自傷行為に意味なんてないのに、そんな無意味な自己嫌悪を繰り返すことで得られる安心感は確かにあって。それでまた自分が嫌になってしまうんです」
「うんうん、分かるなあ。一度ループにハマると終わりが見えないんだよね。……自分を責めないでとは言わないよ。でも自分を殴り倒したくなった時に一人でいるのは辛い時も多いと思うから。気が向いた時にでも、わたしかホームズくんを呼んでもらえたら嬉しいな」
「ホームズはむしろ正論で殴り倒してきませんか?」
「ふふ、そんなことないよ。ホームズくんは御琴羽くんのことを大切に想っているから、きっと凄く喜んでくれるよ。そういうひとだって知ってるでしょ?」

ここでようやく、彼女を妻と重ねてしまっていた理由に気付いた。慈愛に満ちた母親のような笑みを見せるのだ。
腹を痛めて産んだ娘を慈しむ目線と似た柔らかさを、彼女の瞳から感じてしまうのだ。
もしも今後、彼女の子どもとして育つ子がいるならば、きっと溢れんばかりの幸福を浴びることだろう。
そう素直に考えてつい微笑んでしまったことを、御琴羽はこれから生涯忘れないだろうと思った。

───どうか願わくば、友人たちが幸せになってくれますように、と。あの夜からずっと、御琴羽悠仁は祈り続けるばかりだった。