名前の携帯へ密やかに届いた空メールは、胸の底で錆び付いていた筈の感情にあっさりと鮮やかな色を付けた。

いわゆる都合の良い女を演じている名前のもとに彼から連絡がくるのは稀で、決まって日付が変わる直前のことだった。常に柔和で紳士的な男を装っている大谷羽鳥は、感情の吐き出し方がどうにも下手くそだ。時折、泣き方すらも知らない子どものように縋ってくる指先は、酷く切ない温度を宿していた。
私に会いたい時は空メールを送って、と伝えた時の彼が、とても幼い顔をしていたことをよく覚えている。月に一度あるかないかのドライブは、それ以来何故だか細々と続いていた。

幸いにも明日は休日だ。軽い化粧をして身支度を整えると、名前は家を出て真夜中の空気に身を浸した。平静を装ってはいるものの、自分もどうやら浮かれているらしい。意味もなく鞄の中身を漁ったり夜空を見上げたりして、無機質な色を帯びた世界の温度を実感する。なんて、すぐに悲劇のヒロインを演じようとする自分が急に馬鹿らしくなった。幸せを自ら掴もうとしない人間のもとへ、特別な運命など舞い降りてくる筈もないというのに。

遠くで微かにエンジンの音が鳴った。スマホを取り出して、ディスプレイに集中している振りをする。慎重に近付いてくる車の気配に、知らず知らずの内に心臓が音を立てる。

「名前、急にごめんね」

ゆっくりとドアが開く気配がした次の瞬間、柔らかな声が降ってきた。今まさに気付いたような顔をして、名前は視線を上げた。軽く手を上げた彼は、道端で偶然知り合いに遭遇したような顔で、いつも通り微笑んでいる。

「元々、私から言い出したことでしょ?」
「それでも、君の手を取ったのは俺の意思だから」

この男の何もかも悟ったような言動に、どうしようもなく苛立ちを覚える。誰にでも優しい顔をするくせに、自分を大切にしようとしないところが嫌いだ。彼に上手く優しくできない自分のことは、もっと嫌いなのだけれど。

運転中の彼は意外と物静かだ。憑き物を落としたような顔で背筋を丸めながら、いつだって遠くを見つめていた。名前のことを視界に入れる素振りなんてちっとも見せないのに、信号待ちに入った瞬間唐突にキスをしてきたりする。悪戯が成功した子どものような笑みは、男というより手のかかる甥っ子のようだと感じた。

「……何かあったの?」
「んー、いや。ただ、自分が最低な男なんだってことを再確認しに来ただけ」

その言葉が嘘でないことくらい、さすがに分かる。それっきり口を閉ざしてしまった彼を横目に、名前は窓の外に広がる夜の街を一瞥した。
好きな人をこっ酷く傷付ける方法も、自分を嫌いになる方法も嫌というほど知っているのに、彼の心に寄り添う方法だけがどうしても分からない。

「羽鳥」
「……、うん。どうした?」
「私、羽鳥になら何されてもいいよ」

今まで積み重ねてきた関係が全て崩れたって構わなかった。重たい沈黙が横たわる中、羽鳥は下手くそな笑顔を張り付けてから唇を開く。

「ありがとう、名前」
「……ううん。変なこと言ってごめん」
「いや、嬉しかったよ。本当に」

私では彼の心臓に傷をつけることさえ出来ないのか、と痛感して息が詰まる。泣きそうな気持ちで笑う自分は、きっと心底見苦しいに違いない。これ以上嫌われたくなかったのにな、と胸の内で呟いてから窓に視線を投げた。
───こうして二度と会えなくなるのならば、もういっそのこと。



失敗したな、と羽鳥は珍しく舌打ちしたい気持ちだった。ぐつぐつと腹の底が煮えるような苛立ちを自分に向けたって、彼女を笑顔にする力が得られる筈もないというのに。
もしも彼女が、何をされてもいいと本心から言える程に強い女の子であったならば、羽鳥はわざわざ仕事終わりに車を回してまで会いにくることなんてしない。あるいは、緊張と恐怖で僅かに強張っている肩に腕を回してしまいたい衝動に駆られることもなかっただろう。

たくさんの女の子に優しくする方法は嫌というほど身体に染み付いているのに、格好悪いところさえも受け入れてくれる女の子を大切にする方法だけが分からなかった。
肌がピリピリと痺れるような静けさの中、羽鳥は自分の身勝手さにほとほと呆れ果てる。

情報屋として個人的に依頼を受けた。そんなありふれた雇用関係を結んだら、依頼主が思いのほか気難しい女の子で、初対面の相手であろうと容赦なく叱咤するような人で。睡眠不足にかこつけて抱き着いてみたりしたら、想像していたよりもずっと可愛い顔を見せてくれたから、常に心の片隅に引っかかる存在になってしまった、というだけの話だった。
自分の心を誤魔化すのは慣れている筈なのに、彼女は羽鳥の嘘なんてすぐに見抜いて小突いてくるから、どうにも離れがたくて仕方ない。

特に言葉を交わさないまま一時間ほど走って、羽鳥は彼女を自宅まで送り届けた。明日が休日であるとはいえ、こんなに遅くまで女の子を連れ回すだなんて自分らしくもない。

微かに苦笑してから、降車を手伝うために助手席の彼女へ手を差し出すと、羽鳥は自身の身体が強く傾くのを感じた。小さくて柔らかな掌に指先を絡め取られ、車体に強く身体が押し付けられる。目を白黒させていると、いつの間にか、吐息さえも呑み込まれるような情熱的なキスをされていた。
単に唇を重ねるだけのキスは今までもしてきたのに、こんなにも息が詰まるのは初めてだった。彼女に触れられた両頬が、どうにも熱くて仕方ない。

「羽鳥」
「……うん」
「これからは容赦しないから、もう逃げないで」

返事を待つことなく颯爽と踵を返した彼女の背中を見送ってから、羽鳥は自身の顔を掌で覆ってその場にしゃがみ込む。

「…………、参ったな」

心臓が痛くて堪らない。朝起きたら絵文字付きのメールを送ってみようかな、と柄にもなく羽鳥は笑った。