名前の朝は、常に一杯のエスプレッソから始まる。とびきり苦い目覚ましを勢いよく飲み干せば自然と頭は明瞭になり、背筋がしゃっきりと伸びていった。

一人暮らしの休日であるため時間に余裕はあるが、体内時計はいつも決まった時間に名前の頭を叩き起こしてくる。窓の外に広がるどんよりとした雲を眺めつつ、久しぶりに駅前のカフェにでも行こうかと予定を立てていた。
最低限の身支度を終えると、名前はトーストとサラダを用意してささやかな朝食を楽しむことに決めた。ざっくりと大雑把に切ったフルーツにヨーグルトとジャムをかけて、食卓の彩りが少しでも豊かになるよう努める。

そして、いよいよ掌を重ねて食べ始めようとした瞬間。突如玄関のドアが開く音が響いて、取り付けていたベルがリンリンと鳴った。特に驚きもしなかったがお腹は空いていたため、名前はトーストを大きく一口齧った。バターの風味に包まれた舌に牛乳を流し込んでから、ゆっくりと玄関へ向かう。

「……遅い」

不機嫌そうに掠れたバリトンボイスが足元から聞こえた。名前は態とらしく溜め息を吐いた後、力尽きたように倒れ込んだ知人を見下ろす。ただでさえ白い肌が不健康に青みを帯びていて、彼がまた懲りずに徹夜をしたのだと悟った。

「来るなら連絡くれればいいのに」
「必要ないだろう」
「まったくもう。京介くんには私からメールしておくよ?」
「好きにしろ」
「ほら、立てる?」

薄手のジャケットを羽織った肩を何回か叩くも、痩身ながら大柄の彼はぴくりとも動かない。いつも通りの光景に半ば呆れつつ、名前はそっと彼の頭を持ち上げて自らの太腿に乗せた。色気の欠片もない膝枕だが、床に放り出された掌を包み込めば彼の体温をより近くに感じた。

「名前」
「ん?」
「眠い」
「うん、お疲れさま。シャワー浴びる? それともベッドで寝る?」
「……シャワー」
「了解。着替えは洗濯機の上に置いておくから」

ようやく起き上がってくれた身体を支えれば、シャンプーの柔らかな香りが鼻を擽った。よくよく見れば、髪は憎らしい程にサラサラで艷めいている。

「誠くん、シャワー浴びたばかりでしょ」
「それがどうした」

彼は、覚束無いながらも慣れた足取りで浴室へと向かう。視線を重ねようとしないその横顔には、どことなくバツの悪そうな色が浮かんでいた。
───自惚れでなければ、私に会うためにわざわざ疲れた身体に鞭を打って来たのだろうか。
悔しいが、そんな彼が可愛いなと思ってしまう。
約束通り着替えを用意した後、名前は家を出て一人コンビニへと向かった。頑張った人には、きちんとご褒美をあげないといけないだろう。


「エクレアとシュークリーム、どっちがいい?」

リビングのソファーにて我が物顔で寛いでいた彼は、帰宅したばかりの名前を見て片眉を上げた。

「どちらもだ」
「言うと思った」
「半分ずつだぞ」
「別に誠くんが全部食べていいのに」
「駄目だ。労働に対する正当な対価を受け取る義務は誰にでもある」
「徒歩五分のコンビニに行ったくらいで大げさな」

この議論が平行線になることは分かりきっているため、名前はさっさと言葉を切り上げてお菓子を二つとも手渡した。甘い物を前にすれば無言で食べ始めるため、彼の扱いは思いのほか楽である。

「京介くん、今日は午後からお仕事なんだね」
「ああ」
「お兄ちゃんは気が遣えて偉いね。よしよし」
「……やめろ」

先ほど受け取ったメールを思い出しながら頭を撫でると、彼は不満げな表情を浮かべつつも名前の手を振り払おうとはしなかった。
出勤前の弟の手を煩わせないよう、半ば無理やり飛び出してきたのだろう。もしも二人ともオフだったとすれば、彼は兄として家族水入らずで過ごそうとする筈だ。今をときめく人気作家、都築誠とはそういう人だった。

「誠くん、まだ眠いでしょ。ベッドは好きに使っていいから」
「名前はどうする」
「んー、私はゆっくり本でも読んでようかな。何かあったらいつでも呼んでね」
「……分かった」

先ほどとは違ってしっかりとした足取りで立ち上がった後、彼は思い出したようにこちらを振り返った。

「名前」
「ん?」
「旅行。どこに行きたいか考えておけ」
「……旅行? まさかとは思うけど、私たち二人で?」
「別に、付き合っているなら不自然ではないだろう」
「え」

涼しい顔で寝室へ向かった背中を見送り、名前は勢いよくベランダに飛び出してから扉を閉めた。耳の奥で痛いほどに鳴動する心臓を鎮めるべく、冷静に状況を整理しようと努める。

───付き合っていたのか、私たち。少なくとも誠くんはそのつもりだったんだ。

ここで一人で考え込んでいても埒が明かないため、名前はまだお昼には程遠い時間であることを確認して電話をかけた。

「も、もしもし。京介くん?」
「うん。名前ちゃん、どうしたの?」
「あのね。実はさっき誠くんから、私たちが付き合ってる……かも、みたいなことを言われたんだけど」

自惚れてばかりの勘違い女だと思われたら悲しすぎる、との思いで曖昧に濁した言い回しになってしまったが、受話器の向こうからは予想に反して柔らかな声音が降ってきた。

「ああ。兄貴やっと言えたんだ。名前ちゃん、ずっと不安だったでしょ」

思い込みでは無かったのだと理解した瞬間、名前は全身の力が抜けていくのを感じた。同時に、肺を焦がしたような熱い気持ちが背筋を駆け抜けていく。

「……誠くん、女の趣味悪すぎない?」
「そう? 俺は名前ちゃんと一緒にいると楽しいけど。お姉ちゃんになってほしいくらい」
「うわ、京介くんの人たらし」
「えー、人聞きの悪いこと言わないでよ」
「京介くんは素敵な人なんだから、そのつもりはなくても相手は靡いちゃうでしょ。誰にでも良い顔する前に、もっと自分のことを大切にしなきゃ」
「ふふ。これ以上名前ちゃんに叱られたくはないな。ごめんごめん」

弾んだ声と共に聞こえた優しい笑い声を浴びながら、名前はふと頬を緩ませた。
仕事の関係で知り合っただけの赤の他人は、いつの間にか行きつけのカフェが同じである友人に昇格し、知らぬ間にもっと親密な仲になっていたらしい。
彼はとても分かりやすい人だと思い込んでいたのだが、鈍いのはお互い様だったということか。
顔の熱を冷ますために手のひらで仰ぎつつ、名前は電話を切ってから彼が眠る寝室へと向かった。

小さく寝息を立てながら瞳を閉じる顔は儚げで、今にも消えてしまいそうにさえ見えた。その肩に背負う荷物はきっとこちらが思うよりもずっと重たくて苦しいものなのに、いつだって涼しい表情ばかり浮かべているのだから本当に狡い人だった。
労るように指通りの良い髪を撫でると、瞼が薄く震えた後にゆっくりと開いた。常ならば謝罪をするべき場面だが、今だけはワガママになろうと名前は決意する。

「ねえ誠くん。その、……今更こんなこと聞くのも変かもしれないんだけど。何で私と付き合う気になってくれたの?」
「…………さあな」
「そ、っか」
「だが少なくとも俺は、お前と出会う前の俺には戻れそうにない。戻りたくないと、そう思っている」

どこか歯切れが悪く見えるその言葉に、優しい気遣いが滲んでいることを名前は知っていた。喉の奥がきゅっと締まるような感覚がして、思わず目尻を下げる。
彼の冷たい指先が名前の頬に触れた。熱を分け与えるように擦り寄れば、綺麗に整った眦が柔らかく緩んでいく。
ベッドの上でよろよろと起き上がった彼を笑いながら見つめていると、拗ねた色を滲ませた瞳が近付いてきた。

重なった唇は甘く、燃えるように熱かった。