真っ青なトランクに詰め込んだ夜
警視庁の同期に無愛想な美人がいる。苗字の名前を知ったキッカケは、そんなゴシップめいた噂だった。
他人を蹴落とすために上司と寝ている。手柄を上げるため被疑者にハニートラップを仕掛けている。
明らかにやっかみだと分かるその噂話を本人が否定しなかったことで、やたらと尾ひれがついてしまったらしい。
定期的に飲み会の肴として苗字の話題は上り、その度に青山は胸に滲む嫌悪感をひた隠していた。
本人と面識は無く、彼女に対して別段興味があるわけでもないが、誰かを侮蔑するような言葉を聞いて良い気分になどなれる筈もない。
そんな訳で、飲み会を断りきれない新人時代は嫌でも意識せざるを得なかった存在だ。今の今まで忘れていたが、確かに青山は彼女を認識していた。
「用が無いなら見ないで頂けませんか」
「……悪い」
二人きりの車内でちらちらと視線を送っていたら、どうやら気分を害してしまったらしい。向けられた鋭い言葉に正直苛立ちはしたが、こちらも感情を剥き出しにするほど餓鬼ではなかった。
───薬物の斡旋が疑われる、とある組織の内部調査。マトリだけでは取り扱えない事態に肥大しつつあった案件は、警視庁と協力し解決を試みるということで決着がついた。
情報共有を円滑にするため、警察官とマトリで二人一組になって行動すると決まり、青山は初めて苗字の顔を知ったのだ。
確かに美人だが、そこには一切の隙が伺えない。しかし他人を寄せ付けない態度を見るに、どうやら噂は噂でしかなかったのだと青山は知る。
だが彼女のクリーンさを認識したところで、この気まずさが失われる訳ではない。捜査上必要になり陥ったこの状況に対して、青山は早くも逃げ出したい衝動に駆られていた。
俺が仕事を放棄したくなるなんて貴重だぞ、と皮肉めいた愚痴を抱きつつ、青山は軽やかにハンドルを切った。初対面の人間と会話をするのは頭を使うため、その手間が省けるというのはある意味では有難い。
どうか、有能だという噂だけは本当であってほしい。青山の切実な願いは、涼しい顔で的確に情報を探り当てていく苗字自身によって叶えられることになる。
長期案件になる覚悟を決めていたのだが、この分だと予想より早く終結しそうだった。
「お疲れ様でした。青山さん」
俺の名前は知ってたのか。と本気で驚愕しながら、青山もまた労りの言葉を彼女に贈った。
バディ結成一日目を終えた現在、青山は苗字の優秀さを嫌でも痛感していた。彼女はとにかく行動に無駄がない。言葉少なであるため思考が読めない場面も多々あったが、聞き込みや現場捜査の手腕はマトリのエースと謳われる青山さえも唸らざるを得なかった。
「苗字も明日休みだろ。飲みにでも行くか?」
解放感に満たされるあまり、青山はつい口を滑らせた。しまったと思った時には既に遅く、苗字は険しい顔で「結構です」と吐き捨てる。
小さく頭を下げた彼女の背中がまた一段と遠ざかってしまったようで、青山は夜闇に深い溜め息を吐き出した。酒に身を任せて不用意に距離を縮めようとしたのは、完全にこちらの落ち度だった。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
無表情のままドアを開けて車に乗り込んできた苗字に苦笑しつつ、青山は軽食用に持参した弁当箱を開いた。彼女の顔が一瞬強張り、責めるような目で見つめてくる。
取り出したのは、外でも手を汚さず気軽に食べることが出来るサンドイッチだ。中身の具は、腹持ちが良く舌触りの良いカボチャを選んでいる。サワークリームをベースに、はちみつやシナモン、ラムレーズンを加え、食事としてもデザートとしても楽しめる一品に仕上げていた。
青山は、料理ブロガーとして活動していることを周囲に隠している。単純に、揶揄われたり自身のイメージが崩れてしまうことが面倒なだけであったが、そんな体裁ばかり気にしていたら彼女との仕事はやっていけないと痛感したのだ。
それに他人に興味が無い苗字に限って言いふらすことだけはないと確信したし、今後しばらく共にする業務時間を少しでも快適に出来るならば手段は選ばない。
「苗字、この間ほとんど何も食べてなかっただろ。身体が資本の仕事なのに、無理して倒れられたら敵わないからな」
「……もしかして、青山さんの手作りなんですか?」
「ああ」
彼女のパーソナルスペースに土足で踏み込むような行為だと自覚してはいたが、自分を痛め付けるように仕事に打ち込む様子を見ているとどうにも放っておけなかったのだ。まるで、昔の自分を見ているようで。
何かを考え込むような顔をしながら、なかなか手を伸ばさない苗字に対して、青山は不安を覆い隠すように問いかける。
「カボチャは嫌いか?」
「いいえ。……好きです。でも」
「ん?」
「私はまだ、親切にして頂けるほどの手柄を上げていません」
不機嫌そうに続けられた言葉に、青山はゆっくりと瞬きをする。
「人に優しくするのに、損得とか利益とか関係ないだろ」
「……青山さんは随分とお優しいんですね。私に構っていると白い目で見られますよ」
「俺は気にしねえよ」
「私が気にします」
淡々と吐き出されたその言葉に、彼女の本心を垣間見た気がした。
考えてみれば、苗字は常に攻撃的な噂で自身を貶めらているのだ。周囲の人間と距離を置くのは自然なことであり、それは自分を守る唯一の手段と言っても過言ではないだろう。
しかし苗字は、何よりもまず青山の対外的な評価を気にしてくれた。己を取り巻く悪意に他者を巻き込まないように注意を払うために、自分がいかに傷付いているのか訴えることをせず、周囲へ呪詛のような言葉を吐き出したりもしない。少なくとも青山にはそう見えた。
だからこそ、青山が心から浮かべた笑みには穏やかな感情が滲んでいる。
「苗字も優しいだろ」
彼女は唖然としたように一瞬目を丸くした後、呆れたように息を吐き、やがてほんの僅かその唇に笑みを乗せる。寂しそうな悔しそうな、それでいて嬉しそうな色を滲ませた不器用な笑顔に、自然と目が奪われていた。
「変なひと」
少しばかり掠れた恥ずかしそうな声に、ぐっと息が詰まる。青山は瞬時に、いやいや餓鬼じゃあるまいし、とざわつく心に見て見ぬふりをした。
「青山さん」
「ん?」
「私、次はたまごサンドが食べたいです」
いつの間にかサンドイッチを咥えた苗字が、悪戯っぽく上目遣いをしながら見上げてくる。間近でそれを目の当たりにした青山は、熱くなった顔を背けながらハンドルを切った。
「そうかよ」
これはきっと、気性の荒い野良猫と少し仲良くなれたような、そんな感覚でしかないのだ。そう自分に言い聞かせるものの、無理やり感情を抑え込もうとしている時点で手遅れなのだろうとは薄々分かっていた。
己の容姿はどうにも異性から嫌われるらしい。そう自覚したのは高校生の頃。彼氏を盗られたと泣き喚く同級生にビンタをされた時だった。
完全に事実無根であったが、それ以来名前は他人から距離を置くようになった。人目を惹く容貌なのは理解していたが、まさか不快な思いをさせてしまう程だとは思わず、他に相応しい方法が考えつかなかったのだ。
共働きの両親との関係はすっかり冷えきっていて、言葉をかけても煩わしそうに顔を顰められてしまうものだから、名前は自分のやること成すことに自信が持てなくなっていた。
だからこそ、努力するだけ結果が出る勉強をしていると安心したし、ひたすら打ち込めば何も考えなくて良いから楽だった。
大学卒業後に警察官になったのも、世間的に地位のある仕事について親に迷惑をかけないようにするためであり、独身寮が完備されている職場に逃げ込むためだった。
つまり、名前には志がない。捨てるべきプライドもない。
もちろん考えたことはある。もしも自分を受け入れてもらえるように一生懸命努力していたならば、結果は変わっただろうか。
しかし、名前は自らの行動を反省しこそすれ、後悔する気は微塵も無かった。
婦警に対するセクハラ現場に遭遇した時、上層部に直訴したことを悔いる筈もない。たとえその結果、捻じ曲がった噂が蔓延し、名前が周囲から白い目で見られることになったのだとしても。
少しでも自分を変えたくて行動した結果、更に追い込まれる結果になってしまったのだとしても。
事件の捜査中、助けを呼べる仲間が誰一人いなくなって、脚に銃弾を受けてしまったのだとしても。
先程から、リノリウムの床に革靴がキュッと擦れる音が連続的に響いていた。病院の廊下は走行が禁止なのに、と他人事のように思いながら、名前はぼんやりと病室の窓から外の景色を眺める。平和な住宅地。我ら警察が守るべき街。こんなにも色とりどりの屋根が立ち並ぶのを見るのは初めてな気がして、名前はそれらを目に焼き付けるように見詰め続けた。
「───苗字!」
話し声の一つも無かった病室に、やけに息を切らせた美青年が焦ったように駆け込んできた。
青年───青山樹は、数ヶ月前に一度だけバディを組んで仕事をしたマトリの同期だ。交流関係がほぼない名前でさえも知っていた程に有名な、将来を約束された出世頭。
最初は顔が良くプライドが高い典型的なエリートかと思っていたが、青山は予想に反して真面目で優しく、尊敬できる同僚だった。
何故か最近よく食事に誘われたり、休日出かけようと提案されたり、やけに名前に対して視線を投げてくるものだから、正直謎の人物として認識していたのだが。
「青山さん? どうしたんですか、こんな所に」
「……、どうしたもこうしたもないだろ。苗字の脚、撃たれたって聞いて」
「ああ、やっぱり噂が広まるのは早いですね。実は、もう少し撃たれた場所がズレてたら歩けなくなってたみたいで」
悲しみはない。悔しさもない。ただ、自分の心がぽっかりと空いたような気持ちになっていた。
自覚していなかった無数の感情が、いつの間にか自然と零れ落ちていく。青山の顔を見た途端にそれらが溢れたことを不思議に思いつつも、名前は汗をかいた彼にハンカチを差し出した。
「悪いな、ありがとう。……それで、一人で突っ走って勝手に上司を庇ったんだって?」
「そうですね、私がもう少し俊敏であれば防げていた怪我だったので。不甲斐ないです」
「…………お前は本当に、いつもそうだな」
深く俯いた青山が、低く掠れた声を絞り出した。そこに滲んだ激情を感じ取って一瞬心臓が跳ねたものの、名前は平静を装って過去をなぞる。
現行犯逮捕を試みようと思った瞬間、突発的に銃撃戦が始まったのだ。相手は複数だったため、ツーマンセルだったこちらは不利で、名前は部下として上司の逃走を最優先に行動した。
自分より二回りも上の上司はすっかり及び腰であり、セクハラ紛いの言葉を吐いてばかりの男と同一人物だとは思えなかったが、それでも名前は一人で応戦した。……負傷するのも当然だと言える。
「仕事に復帰できるのもだいぶ先になるので、青山さんが作ったお弁当もしばらく食べられなくなりますね。ごめんなさい」
「それはいい、またいつでも作れるからな。……苗字」
「はい」
「俺はお前の仕事のやり方に口を出すつもりも無ければ、人間関係に文句を言う気もない。だが、少なくとも今回の怪我は未然に防げる可能性があった。……そうだな?」
青山が、滔々と名前に問いかける。その顔は何かに傷付いたように強張っていて、不思議と泣いてしまいそうに見えた。
そんな訳がない。優しくて心が強い青山が、自分のために泣く筈がないのに。少しでも自惚れてしまったことに耐えられず、名前は小さく俯いた。
「確かに私が複数人での調査を強く進言していれば、少しは状況が違ったかもしれません」
「……苗字。お前はやっぱり警官に向いてないよ」
心臓が潰れるような感覚に息が詰まる。お前と一緒に仕事するのは楽だな、と微笑んでくれた顔が遥か彼方に遠ざかっていく。
冷酷なくせに愚図で判断力の無い女。他人に迷惑をかけてばかりで、関わった人すべてに不幸をもたらす疫病神。もしも青山からそんな風に思われているのだとしたら、名前は今すぐこの場から消えてしまいたかった。
「分かってます、そんなこと。……ずっと、分かってました」
「そうか、なら俺が存分に言ってやる。苗字は不器用で人に頼るのが下手くそで、何もかも抱え込んで勝手に潰れる。見ててハラハラするし心臓に悪いし、どうしようもなく苛立つことだってある」
「……はい」
「でも実は優しい。笑った顔が可愛い。寝不足なのを誤魔化すとき頑張って瞬きしてる顔が好きだし、俺が作った料理をはにかみながら食べてくれる顔が好きだ」
「…………、え」
優しく降り注いだ言葉が、ボロボロの心臓をそっと包み込むように溶けていく。
恐る恐る顔を上げれば、熱く焦がれるような慈愛に満ちた目が柔らかく名前を射抜いていた。
「ここまで言っても分からないか?」
「……何が、ですか?」
「苗字」
「は、い」
情けなくベッドに横たわった名前は、ほとんど化粧もしていなければ手術してから風呂にさえ入っていない。あまり近付いてほしくないのに、青山は容赦なく名前の心に踏み込んでは優しく笑うのだ。
「俺はお前が好きだよ。苗字」
息が止まった。青山は言葉を紡げずにいる名前を満足そうに見てから、突然懐に抱えていた鞄から何かの紙袋を取り出す。
差し出されるままに受け取ると、開けてみろと優しく言われた。
「此処に来る途中、偶然会った婦警に渡されてな」
「……、あ」
「あの時は助けてくれてありがとう。本当にごめんなさい、だと」
タオルや基礎化粧品、シャンプーやボディーソープのボトル。売店で買わなければいけないと思っていた生活必需品の数々が、手に取ったことも無い程に可愛らしいデザインで袋の中に収まっていた。
己の立場も考えず勝手に暴走したのはこちらなのに、責任を感じさせてしまったことが心底申し訳なかった。
「……、ありがとうございます」
「お前がやってきたことは、何ひとつ無駄なことじゃなかった。お前が他人に向けた優しさはちゃんと届いてるし、こうして巡り巡って返ってくる。よく分かっただろ?」
「…………はい」
二人分の気遣いが胸に届いて、温かな気持ちとなって身体の隅々にまで染み渡っていく。きっと、名前の声は震えていたに違いない。
けれど目の前の彼は何も気付いていないように笑うから。何もかも見透かしているかのように微笑むから。名前はその優しさに知らんぷりをして、胸元に手繰り寄せたタオルをそっと握り締めた。
「で、苗字。さっきの話だけど」
「あっ、……あの」
「はは。安心しろ、この場で答えは求めないし俺も焦るつもりはねえから」
青山はそう言って、病室の片隅に立てかけてあったパイプ椅子を広げて座る。ようやく同じ目線になれたことにほっとして、けれど同時に、優しさに満ちた視線が一身に注がれることに顔が熱くなった。
彼はこちらを心底気遣ってくれるが、それに甘えてこのまま何も言葉を返せないのは嫌だった。不透明な感情を探り当てるように、名前はゆっくりと唇を開く。
「青山さん。私はきっと、人を好きになることが怖かったんです」
「……そうか」
親しい友人は無く、当然恋人も無く。名前は寂しいと感じるよりも、己のせいで誰かが不幸にならずに済むことに安堵していた。
誰かと関わるのは怖かった。大切にした相手に嫌われるのは恐ろしかった。
けれど青山はいつだって、そんな凪紗の精一杯の虚勢を飛び越えて言葉をかけてくれた。
───俺は、俺の意思でお前に関わりたいと思ったし、もし許されるならもっと踏み込ませてほしい。……駄目か?
何故こちらに深く関わろうとするのか、その理由は聞かなかった。青山と共に過ごす空間は自分で思うよりもずっと心地好くて、その時間が壊れてしまうのが怖かったから。
結局、名前の本質は何も変わっていない。ただの臆病者だった。
「私、人に幸せにしてもらう資格は無いと思っていたし、誰かを幸せに出来る自信も無かったんです。馬鹿ですよね」
「そうだな、とんでもない馬鹿だ。でもそんな臆病なところも全部ひっくるめて、俺は月守が好きだよ」
「っ、…………私はこれから先、青山さんの想いを踏み躙るかもしれないのに」
「それでもいい。お前がそうやって俺のことを真剣に考えた上で出してくれた答えなら、何でもきちんと受け止める」
強い光を宿した瞳が、名前を試すように柔らかく細まった。
「……青山さん」
「ん?」
「私は、人を好きになるということがよく分からなくて」
「おう」
「けれどもし、いつか誰かを好きになることが出来たなら。その相手は青山さんがいいなと、……思っています」
一瞬惚けたように固まった青山の顔が、みるみる内に赤くなっていくのが分かった。角張った大きな手で口元を覆い隠すのを見て、名前の胸も甘く疼いていく。
「あー、くそ。…………今めちゃくちゃキスしたい」
「え!? ば、馬鹿なんじゃないですか!?」
「男は好きな女の前だと馬鹿になるんだよ。これからも俺の前で無防備なこと言う気ならよく覚えとけ」
青山の指先が、とても綺麗とは言えない名前の手を慈しむようになぞっていく。強気で有無を言わさぬような言葉とは裏腹に、優しさばかりが詰まった温度を享受しつつ名前は笑った。
「はい。……忘れません」
他人を蹴落とすために上司と寝ている。手柄を上げるため被疑者にハニートラップを仕掛けている。
明らかにやっかみだと分かるその噂話を本人が否定しなかったことで、やたらと尾ひれがついてしまったらしい。
定期的に飲み会の肴として苗字の話題は上り、その度に青山は胸に滲む嫌悪感をひた隠していた。
本人と面識は無く、彼女に対して別段興味があるわけでもないが、誰かを侮蔑するような言葉を聞いて良い気分になどなれる筈もない。
そんな訳で、飲み会を断りきれない新人時代は嫌でも意識せざるを得なかった存在だ。今の今まで忘れていたが、確かに青山は彼女を認識していた。
「用が無いなら見ないで頂けませんか」
「……悪い」
二人きりの車内でちらちらと視線を送っていたら、どうやら気分を害してしまったらしい。向けられた鋭い言葉に正直苛立ちはしたが、こちらも感情を剥き出しにするほど餓鬼ではなかった。
───薬物の斡旋が疑われる、とある組織の内部調査。マトリだけでは取り扱えない事態に肥大しつつあった案件は、警視庁と協力し解決を試みるということで決着がついた。
情報共有を円滑にするため、警察官とマトリで二人一組になって行動すると決まり、青山は初めて苗字の顔を知ったのだ。
確かに美人だが、そこには一切の隙が伺えない。しかし他人を寄せ付けない態度を見るに、どうやら噂は噂でしかなかったのだと青山は知る。
だが彼女のクリーンさを認識したところで、この気まずさが失われる訳ではない。捜査上必要になり陥ったこの状況に対して、青山は早くも逃げ出したい衝動に駆られていた。
俺が仕事を放棄したくなるなんて貴重だぞ、と皮肉めいた愚痴を抱きつつ、青山は軽やかにハンドルを切った。初対面の人間と会話をするのは頭を使うため、その手間が省けるというのはある意味では有難い。
どうか、有能だという噂だけは本当であってほしい。青山の切実な願いは、涼しい顔で的確に情報を探り当てていく苗字自身によって叶えられることになる。
長期案件になる覚悟を決めていたのだが、この分だと予想より早く終結しそうだった。
「お疲れ様でした。青山さん」
俺の名前は知ってたのか。と本気で驚愕しながら、青山もまた労りの言葉を彼女に贈った。
バディ結成一日目を終えた現在、青山は苗字の優秀さを嫌でも痛感していた。彼女はとにかく行動に無駄がない。言葉少なであるため思考が読めない場面も多々あったが、聞き込みや現場捜査の手腕はマトリのエースと謳われる青山さえも唸らざるを得なかった。
「苗字も明日休みだろ。飲みにでも行くか?」
解放感に満たされるあまり、青山はつい口を滑らせた。しまったと思った時には既に遅く、苗字は険しい顔で「結構です」と吐き捨てる。
小さく頭を下げた彼女の背中がまた一段と遠ざかってしまったようで、青山は夜闇に深い溜め息を吐き出した。酒に身を任せて不用意に距離を縮めようとしたのは、完全にこちらの落ち度だった。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
無表情のままドアを開けて車に乗り込んできた苗字に苦笑しつつ、青山は軽食用に持参した弁当箱を開いた。彼女の顔が一瞬強張り、責めるような目で見つめてくる。
取り出したのは、外でも手を汚さず気軽に食べることが出来るサンドイッチだ。中身の具は、腹持ちが良く舌触りの良いカボチャを選んでいる。サワークリームをベースに、はちみつやシナモン、ラムレーズンを加え、食事としてもデザートとしても楽しめる一品に仕上げていた。
青山は、料理ブロガーとして活動していることを周囲に隠している。単純に、揶揄われたり自身のイメージが崩れてしまうことが面倒なだけであったが、そんな体裁ばかり気にしていたら彼女との仕事はやっていけないと痛感したのだ。
それに他人に興味が無い苗字に限って言いふらすことだけはないと確信したし、今後しばらく共にする業務時間を少しでも快適に出来るならば手段は選ばない。
「苗字、この間ほとんど何も食べてなかっただろ。身体が資本の仕事なのに、無理して倒れられたら敵わないからな」
「……もしかして、青山さんの手作りなんですか?」
「ああ」
彼女のパーソナルスペースに土足で踏み込むような行為だと自覚してはいたが、自分を痛め付けるように仕事に打ち込む様子を見ているとどうにも放っておけなかったのだ。まるで、昔の自分を見ているようで。
何かを考え込むような顔をしながら、なかなか手を伸ばさない苗字に対して、青山は不安を覆い隠すように問いかける。
「カボチャは嫌いか?」
「いいえ。……好きです。でも」
「ん?」
「私はまだ、親切にして頂けるほどの手柄を上げていません」
不機嫌そうに続けられた言葉に、青山はゆっくりと瞬きをする。
「人に優しくするのに、損得とか利益とか関係ないだろ」
「……青山さんは随分とお優しいんですね。私に構っていると白い目で見られますよ」
「俺は気にしねえよ」
「私が気にします」
淡々と吐き出されたその言葉に、彼女の本心を垣間見た気がした。
考えてみれば、苗字は常に攻撃的な噂で自身を貶めらているのだ。周囲の人間と距離を置くのは自然なことであり、それは自分を守る唯一の手段と言っても過言ではないだろう。
しかし苗字は、何よりもまず青山の対外的な評価を気にしてくれた。己を取り巻く悪意に他者を巻き込まないように注意を払うために、自分がいかに傷付いているのか訴えることをせず、周囲へ呪詛のような言葉を吐き出したりもしない。少なくとも青山にはそう見えた。
だからこそ、青山が心から浮かべた笑みには穏やかな感情が滲んでいる。
「苗字も優しいだろ」
彼女は唖然としたように一瞬目を丸くした後、呆れたように息を吐き、やがてほんの僅かその唇に笑みを乗せる。寂しそうな悔しそうな、それでいて嬉しそうな色を滲ませた不器用な笑顔に、自然と目が奪われていた。
「変なひと」
少しばかり掠れた恥ずかしそうな声に、ぐっと息が詰まる。青山は瞬時に、いやいや餓鬼じゃあるまいし、とざわつく心に見て見ぬふりをした。
「青山さん」
「ん?」
「私、次はたまごサンドが食べたいです」
いつの間にかサンドイッチを咥えた苗字が、悪戯っぽく上目遣いをしながら見上げてくる。間近でそれを目の当たりにした青山は、熱くなった顔を背けながらハンドルを切った。
「そうかよ」
これはきっと、気性の荒い野良猫と少し仲良くなれたような、そんな感覚でしかないのだ。そう自分に言い聞かせるものの、無理やり感情を抑え込もうとしている時点で手遅れなのだろうとは薄々分かっていた。
己の容姿はどうにも異性から嫌われるらしい。そう自覚したのは高校生の頃。彼氏を盗られたと泣き喚く同級生にビンタをされた時だった。
完全に事実無根であったが、それ以来名前は他人から距離を置くようになった。人目を惹く容貌なのは理解していたが、まさか不快な思いをさせてしまう程だとは思わず、他に相応しい方法が考えつかなかったのだ。
共働きの両親との関係はすっかり冷えきっていて、言葉をかけても煩わしそうに顔を顰められてしまうものだから、名前は自分のやること成すことに自信が持てなくなっていた。
だからこそ、努力するだけ結果が出る勉強をしていると安心したし、ひたすら打ち込めば何も考えなくて良いから楽だった。
大学卒業後に警察官になったのも、世間的に地位のある仕事について親に迷惑をかけないようにするためであり、独身寮が完備されている職場に逃げ込むためだった。
つまり、名前には志がない。捨てるべきプライドもない。
もちろん考えたことはある。もしも自分を受け入れてもらえるように一生懸命努力していたならば、結果は変わっただろうか。
しかし、名前は自らの行動を反省しこそすれ、後悔する気は微塵も無かった。
婦警に対するセクハラ現場に遭遇した時、上層部に直訴したことを悔いる筈もない。たとえその結果、捻じ曲がった噂が蔓延し、名前が周囲から白い目で見られることになったのだとしても。
少しでも自分を変えたくて行動した結果、更に追い込まれる結果になってしまったのだとしても。
事件の捜査中、助けを呼べる仲間が誰一人いなくなって、脚に銃弾を受けてしまったのだとしても。
先程から、リノリウムの床に革靴がキュッと擦れる音が連続的に響いていた。病院の廊下は走行が禁止なのに、と他人事のように思いながら、名前はぼんやりと病室の窓から外の景色を眺める。平和な住宅地。我ら警察が守るべき街。こんなにも色とりどりの屋根が立ち並ぶのを見るのは初めてな気がして、名前はそれらを目に焼き付けるように見詰め続けた。
「───苗字!」
話し声の一つも無かった病室に、やけに息を切らせた美青年が焦ったように駆け込んできた。
青年───青山樹は、数ヶ月前に一度だけバディを組んで仕事をしたマトリの同期だ。交流関係がほぼない名前でさえも知っていた程に有名な、将来を約束された出世頭。
最初は顔が良くプライドが高い典型的なエリートかと思っていたが、青山は予想に反して真面目で優しく、尊敬できる同僚だった。
何故か最近よく食事に誘われたり、休日出かけようと提案されたり、やけに名前に対して視線を投げてくるものだから、正直謎の人物として認識していたのだが。
「青山さん? どうしたんですか、こんな所に」
「……、どうしたもこうしたもないだろ。苗字の脚、撃たれたって聞いて」
「ああ、やっぱり噂が広まるのは早いですね。実は、もう少し撃たれた場所がズレてたら歩けなくなってたみたいで」
悲しみはない。悔しさもない。ただ、自分の心がぽっかりと空いたような気持ちになっていた。
自覚していなかった無数の感情が、いつの間にか自然と零れ落ちていく。青山の顔を見た途端にそれらが溢れたことを不思議に思いつつも、名前は汗をかいた彼にハンカチを差し出した。
「悪いな、ありがとう。……それで、一人で突っ走って勝手に上司を庇ったんだって?」
「そうですね、私がもう少し俊敏であれば防げていた怪我だったので。不甲斐ないです」
「…………お前は本当に、いつもそうだな」
深く俯いた青山が、低く掠れた声を絞り出した。そこに滲んだ激情を感じ取って一瞬心臓が跳ねたものの、名前は平静を装って過去をなぞる。
現行犯逮捕を試みようと思った瞬間、突発的に銃撃戦が始まったのだ。相手は複数だったため、ツーマンセルだったこちらは不利で、名前は部下として上司の逃走を最優先に行動した。
自分より二回りも上の上司はすっかり及び腰であり、セクハラ紛いの言葉を吐いてばかりの男と同一人物だとは思えなかったが、それでも名前は一人で応戦した。……負傷するのも当然だと言える。
「仕事に復帰できるのもだいぶ先になるので、青山さんが作ったお弁当もしばらく食べられなくなりますね。ごめんなさい」
「それはいい、またいつでも作れるからな。……苗字」
「はい」
「俺はお前の仕事のやり方に口を出すつもりも無ければ、人間関係に文句を言う気もない。だが、少なくとも今回の怪我は未然に防げる可能性があった。……そうだな?」
青山が、滔々と名前に問いかける。その顔は何かに傷付いたように強張っていて、不思議と泣いてしまいそうに見えた。
そんな訳がない。優しくて心が強い青山が、自分のために泣く筈がないのに。少しでも自惚れてしまったことに耐えられず、名前は小さく俯いた。
「確かに私が複数人での調査を強く進言していれば、少しは状況が違ったかもしれません」
「……苗字。お前はやっぱり警官に向いてないよ」
心臓が潰れるような感覚に息が詰まる。お前と一緒に仕事するのは楽だな、と微笑んでくれた顔が遥か彼方に遠ざかっていく。
冷酷なくせに愚図で判断力の無い女。他人に迷惑をかけてばかりで、関わった人すべてに不幸をもたらす疫病神。もしも青山からそんな風に思われているのだとしたら、名前は今すぐこの場から消えてしまいたかった。
「分かってます、そんなこと。……ずっと、分かってました」
「そうか、なら俺が存分に言ってやる。苗字は不器用で人に頼るのが下手くそで、何もかも抱え込んで勝手に潰れる。見ててハラハラするし心臓に悪いし、どうしようもなく苛立つことだってある」
「……はい」
「でも実は優しい。笑った顔が可愛い。寝不足なのを誤魔化すとき頑張って瞬きしてる顔が好きだし、俺が作った料理をはにかみながら食べてくれる顔が好きだ」
「…………、え」
優しく降り注いだ言葉が、ボロボロの心臓をそっと包み込むように溶けていく。
恐る恐る顔を上げれば、熱く焦がれるような慈愛に満ちた目が柔らかく名前を射抜いていた。
「ここまで言っても分からないか?」
「……何が、ですか?」
「苗字」
「は、い」
情けなくベッドに横たわった名前は、ほとんど化粧もしていなければ手術してから風呂にさえ入っていない。あまり近付いてほしくないのに、青山は容赦なく名前の心に踏み込んでは優しく笑うのだ。
「俺はお前が好きだよ。苗字」
息が止まった。青山は言葉を紡げずにいる名前を満足そうに見てから、突然懐に抱えていた鞄から何かの紙袋を取り出す。
差し出されるままに受け取ると、開けてみろと優しく言われた。
「此処に来る途中、偶然会った婦警に渡されてな」
「……、あ」
「あの時は助けてくれてありがとう。本当にごめんなさい、だと」
タオルや基礎化粧品、シャンプーやボディーソープのボトル。売店で買わなければいけないと思っていた生活必需品の数々が、手に取ったことも無い程に可愛らしいデザインで袋の中に収まっていた。
己の立場も考えず勝手に暴走したのはこちらなのに、責任を感じさせてしまったことが心底申し訳なかった。
「……、ありがとうございます」
「お前がやってきたことは、何ひとつ無駄なことじゃなかった。お前が他人に向けた優しさはちゃんと届いてるし、こうして巡り巡って返ってくる。よく分かっただろ?」
「…………はい」
二人分の気遣いが胸に届いて、温かな気持ちとなって身体の隅々にまで染み渡っていく。きっと、名前の声は震えていたに違いない。
けれど目の前の彼は何も気付いていないように笑うから。何もかも見透かしているかのように微笑むから。名前はその優しさに知らんぷりをして、胸元に手繰り寄せたタオルをそっと握り締めた。
「で、苗字。さっきの話だけど」
「あっ、……あの」
「はは。安心しろ、この場で答えは求めないし俺も焦るつもりはねえから」
青山はそう言って、病室の片隅に立てかけてあったパイプ椅子を広げて座る。ようやく同じ目線になれたことにほっとして、けれど同時に、優しさに満ちた視線が一身に注がれることに顔が熱くなった。
彼はこちらを心底気遣ってくれるが、それに甘えてこのまま何も言葉を返せないのは嫌だった。不透明な感情を探り当てるように、名前はゆっくりと唇を開く。
「青山さん。私はきっと、人を好きになることが怖かったんです」
「……そうか」
親しい友人は無く、当然恋人も無く。名前は寂しいと感じるよりも、己のせいで誰かが不幸にならずに済むことに安堵していた。
誰かと関わるのは怖かった。大切にした相手に嫌われるのは恐ろしかった。
けれど青山はいつだって、そんな凪紗の精一杯の虚勢を飛び越えて言葉をかけてくれた。
───俺は、俺の意思でお前に関わりたいと思ったし、もし許されるならもっと踏み込ませてほしい。……駄目か?
何故こちらに深く関わろうとするのか、その理由は聞かなかった。青山と共に過ごす空間は自分で思うよりもずっと心地好くて、その時間が壊れてしまうのが怖かったから。
結局、名前の本質は何も変わっていない。ただの臆病者だった。
「私、人に幸せにしてもらう資格は無いと思っていたし、誰かを幸せに出来る自信も無かったんです。馬鹿ですよね」
「そうだな、とんでもない馬鹿だ。でもそんな臆病なところも全部ひっくるめて、俺は月守が好きだよ」
「っ、…………私はこれから先、青山さんの想いを踏み躙るかもしれないのに」
「それでもいい。お前がそうやって俺のことを真剣に考えた上で出してくれた答えなら、何でもきちんと受け止める」
強い光を宿した瞳が、名前を試すように柔らかく細まった。
「……青山さん」
「ん?」
「私は、人を好きになるということがよく分からなくて」
「おう」
「けれどもし、いつか誰かを好きになることが出来たなら。その相手は青山さんがいいなと、……思っています」
一瞬惚けたように固まった青山の顔が、みるみる内に赤くなっていくのが分かった。角張った大きな手で口元を覆い隠すのを見て、名前の胸も甘く疼いていく。
「あー、くそ。…………今めちゃくちゃキスしたい」
「え!? ば、馬鹿なんじゃないですか!?」
「男は好きな女の前だと馬鹿になるんだよ。これからも俺の前で無防備なこと言う気ならよく覚えとけ」
青山の指先が、とても綺麗とは言えない名前の手を慈しむようになぞっていく。強気で有無を言わさぬような言葉とは裏腹に、優しさばかりが詰まった温度を享受しつつ名前は笑った。
「はい。……忘れません」